「コウと彼の両親について」 2002.10.17.


 今年の星の屑月間(2002年度)はコウについてゆっくり考え直す機会にしてみたいなあと思ったため、普段あまり小説以外でアップすることのないキャラクターに関する考察や検証などもこのように形にしてアップしてみることにしました。かわりと言ってはなんですが、附随する形式であげるつもりの物語の部分は短く、小話のようなものになるかと思います。私は立場的に連邦軍のファンなのですが、「星の屑月間」という期間の属性がそもそもジオン寄りでありドラマはジオンの立場に立ってこそより書きやすく、よほどの設定を練り上げたシリーズものを打ち出すのでも無い限り小粋な連邦話はあげるのが難しいかと思われたからです。・・・閑話休題。


 一回目ということで少々寄り道してしまいましたが、これまでにも私は数々の話を書いてきてしまいました(?)。手前味噌ながら、今回はそれらをどういう解釈のもとに書いてきたのか、という解説も踏まえて書いてゆきたいな、と思っています。


 というわけで第一回目のテーマは「コウと彼の両親について」なのですが、ではコウの両親についてOVA13話中、もしくはノベライズの中に記述が出てくるのか・・・・というと実は全く出てきません(爆笑)。
 ではなんだ?一回目からまったく妄想で何かを語ろうというのか、この女は?というとそれもまた違います(笑)。ほんのわずかの記述なのですが、コウの両親について制作側が私達ファンに提示してくれた資料がないわけでもない(笑)。それの最たるものが、映画版「ジオンの残光」のパンフレットの記述、ということになります。


 さて、ではこのパンフレットに一体何が書いてあるのか?というとこれがまたすごい(笑)。「両親はジオンのコロニー落しで死亡。」・・・と書いてあるらしいのです!らしい、という記述なのにはわけがあって、実は私がこのパンフレットを持っていないからです。(ぬるいファンですいません・・・。)しかしちょっと待ってください、「コロニー落としで死亡。」・・・・「コロニー落としで死亡。」ですか!!なんですか、そのとってつけたみたいないかにもガンダムの主人公らしい経歴は!!と思いませんか(笑)。これは、もちろんあとから慌てて作った設定に違いありません。「ジオンの残光」という総集編の映画はもちろんOVAが刊行し終わった後に作られています。0083にはそういうものが多いのです。OVA本編内ですらニナとガトーがつきあっていた、という設定に「んなバカな・・・」と呟かない方はほとんどいらっしゃらないことでしょう。これももちろん後から作った設定だと思います。(しかもアニメの中に実際組み込まれてしまっているので違和感倍増この上ないです。)そもそも、製作終了後の座談会などで今西監督は自信満々に「もとから全十三話だった。」とインタビュアーに答えていますが(怒って口答えしているようにも見えます、設定のぬるさを突っ込まれて/笑。)、しかし私達は当初発表されたガンダム0083の全話数が十二話だったことを知っています(笑/これは、F91の予告と一緒に製作されたビデオの中で見ることが出来ます。きっぱり全十二話、と書いてあるのです。)ついでに言うと今西監督が二人目の監督であることも知っています(笑)。


 またしても熱く話は横道にそれた感がありますが、しかし私はこのような破たんの多い0083の設定すらも愛しています(笑)。つっこみ甲斐があって楽しくてなりません。なので、それはそれで一向に構わないのですが、今問題にしているのはコウの両親が「コロニー落しで死亡。」という幻の設定があるというこの一点ですね。では、この設定のことは頭の片隅においておいてもらって、本編であるOVA全13話中から、コウの両親に関して何か考察出来ないものか考えてみたいと思います。


 コウの両親に関してはハッキリと一言も言及されない0083本編ですが、生い立ちについては想像しうる一言があります。それは、第八話でキースがコウに向かって言う、「お坊っちゃん育ちが多い内面兵の中でもお前はピカイチの純粋培養だったからなぁ〜」と言う台詞です。この台詞から分かることは、コウが女性に免疫がなくて苦手なことだけではなくて、おそらく地球生まれの地球育ちで、全く宇宙に出たことが無いこと。もちろんキースも同じ士官学校を卒業した友達ですから、似たような経歴の人間ではあるのですが、それでは0083年当時において、このような生い立ち、経歴の人間はどんな階級の、どんな家庭環境の人間であったことを意味するのか。出来るかぎり他の資料と照らし合わせて考えてみたいと思います。
 このようなコウの生まれ育ちを考える時、私はどうしても頭に浮かぶのがファーストのブライト・ノアのことなのです。0079年当時、新造戦艦ホワイト・ベースに乗り合わせた「士官候補生」で「19才」のブライト・ノアは成りゆき上一年戦争終結時までその艦の責任者をやらざるを得なくなる。このブライトが、私は考えるにコウに一番似た状態の人間であるように思えるのです。ブライトの生い立ちに関しても、セイラ・マスとの会話からその一端を知ることが精一杯なのですが、しかし素晴らしく象徴的な会話をブライトとセイラは交わしています。「宇宙は初めて?」とセイラが聞くので、ブライトがそうです、と答えます。するとセイラが一言だけ「・・・エリートでらっしゃるのね。」と答えるのです。宇宙に出たことが無い人間がこの時代ではエリート、らしいのです。
 エリート、という言葉でもう一人思い浮かぶ人物が私にはあるのですが、それが少し時代は下って、「逆シャア」時のクェス・パラヤの父親です。アデナウアー・パラヤは、地球政府の高官です。そうして、娘のクェスは地上からコロニーに対して政治をしている父親に疑問を覚えています。こういう人々が、地球に残っていた人々、の象徴のように描かれているのがガンダムという作品のように私には思われます。
 ところで、一言だけ言及しておきたいのですが、地球に残っているのと金持ち、金持ちでない、というのはあまり関係が無かっただろうな、ということなのです。何故なら、ファーストのミライ・ヤシマは、ジオンのマツナガ家と並ぶ旧家の一つで資産家・・・というような設定になっていますが、そのミライが一年戦争時にどこにいたのか?というと父親が死亡し後ろだてがなくなった後サイド7にいたわけでした。もちろん、マツナガ家はジオンのあるサイド3です。お金のある人々は、コロニーと地球を贅沢に行き来出来たのかもしれませんが、地球に住んでいた、という風でもない。


 以上のような考察から、私はコウの両親は、主に父親は「地球にいないと出来ない」「連邦政府の仕事」のようなことをしていて、かつ「コロニー駐留のような仕事のある軍人では無く」「とびきりの金持ちというわけでもないがそこそこ裕福」というような結論を導き出しました。簡単に言うと公務員です。少し上級の。この設定をそのまま利用してコウの両親を描いてみたものに「誰が為に星は輝く〜繋がる〜」という話があります。それから「南半球」のステフ、というキャラクターの両親も似たような職業にしてしまいました。もちろん、地球には様々な理由で様々な人々が住んでいた、とは思います。しかし、突飛な発想ではなくほどほどに地味な感じで、これが一番使い勝手が良かったのです。


 そろそろまとめに入りたいわけなのですが、そういうわけで私は「ジオンの残光」のパンフレットに書いてある「両親はジオンのコロニー落としで死亡。」という記述には賛成できません(笑)。制作側としてはそれでジオンを、ひいてはコロニー落しをとめようとするコウ・ウラキの感情に深みを加えたかったところなのでしょうが、そうではないコウ・ウラキで私は十分かと思います。0083本編にコウの両親が出てこないことに関しては、死んでしまっていた、という設定にするのが一番楽なのも良く分かりますが、「親からの自立」がテーマとなっているアムロ・レイなどと違って、両親が出てくる必要が無かった、と考えた方がよほどしっくりくるかと思うのです。兄弟も同じく作中に出てきませんが、仮にいたとしても「出す必要が無かった」という同じ理由かと思います。コウは平凡な家庭で、ごくまっとうに愛されて育ち、モビルスーツなんかに興味があってしかたのない男っぽい性格になって、一人の社会人として軍人の職についたしょっぱなに、星の屑作戦に遭遇。そこでひときわ様々に何かを学ぶことになり・・・と、何故これではいけないのでしょうか(笑)。とあるお酒の席で御一緒させていただいた根っからのガンダムファンの男性の方と話した時に、その方がとても印象的な一言をおっしゃいました。「いやー・・・コウが出てきた時は(つまり0083が刊行されたときは)感動したよ、だって初めて正規のパイロットがガンダムに乗ってるんだし!」・・・・この一言に尽きるかと思います(念のため、08小隊は0083より後の作品で、0083より前の0080ではクリスが一応ガンダムに乗っています。彼女はテストパイロットなのですが。)。コウはにんじんが食べられないなどの子供地味た言動から一人前の男としてあまり考えられないことが多く、また実際ストーリーの渦中で成長してゆくのも確かなのですが、両親との確執をテーマにするような作品では0083が無かった。だから、両親は登場しないと考えるべきではないでしょうか。こえるべき父性など(エディプス的テーマ)は別のキャラクターを通して語られているわけです。そう考えると、作中で唯一親が画面に出てきたニナ・パープルトンの方がよほど自立していない印象を受けます。


 なので私は、コウの両親はごく普通に生きているのではないかと思います。コウ・ウラキの人生と言うのは実を言うとこの作品終了後も続いてゆくことが重要で、たとえばニナと結婚することになりました、とかそういうときにもちろん両親は顔を出してくるかと思うんです。顔を出す程度ですけどね。ただ、そういう傾向の話は私もまったく書いてきていませんし、この先も書くか?と言われたら微妙なのですが。そんなわけで、これだけ考察しておいてなんなのですが、関係あるようなないような、そんなごく平凡な両親と子供、の話を今回は一本書いてみようかな、と思います。


『てのひら』


 次回、第二回目は「コウとキース」がテーマになります。こんな駄文で良かったら0083を見直す合間に読んでいただけますと嬉しいです(笑)。







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