ある日、いつものように仕事から帰って来ると妻が満面の笑顔で息子を抱えて玄関に立っている。
「・・・・・・・何ごとだ?」
結婚したのは三年程前で、息子が産まれたのはそのちょうど一年後くらいだった。一歳半ほどで彼は歩き出し、言葉も覚えはじめ、万事順調に育っている。男の子だということを考えれば人生で一番かわいらしいのではないかと思える時期を、息子は迎えていた。
「・・・あなた!今日コウがね、将来何になりたいかをしゃべったのよ!」
・・・・・いや、そりゃいくらなんでもウソだろう。私は靴を脱ぎながら、妻と息子をまとめて抱き締めるとキスをした。
「・・・俺の記憶にある限り、コウはまだ『だー!』とか『あー!』とかしか話せないはずなんだがなあ・・・・」
実際、コウは非常嬉しそうに(言い忘れたがこれが私の息子の名前だ、)少し妻の腕の中でじたばたと動くと、私の方に向かって手をのばしてきたので私は妻からそれを受け取った。
「信じて無いわね!でもほんとうに言ったのよ!」
私の頭には一瞬『育児ノイローゼ』という台詞が浮かんだが、いやまて、私も公務員なので一般企業より多くの、出来うる限りの育児休暇は取ってきたし、妻にそれほどの負担をかけた記憶は無い。私はコウを受け取るかわりに鞄を妻に預けて、居間に向かって歩いていった。
「・・・・・コウ、お母さんはあんなことを言ってるけど本当かー?」
「あーい、だぁーだ・・・・」
息子は楽しそうに私の顔をぺたぺた触ったり、時にはたたいたり、しがみついたりして運ばれているばかりである。・・・・・あたたかいてのひら。・・・・そうか、そもそも、まだ私はコウと確実な意志の疎通に成功した記憶がないぞ?
「夕飯なに?」
「あー!」
「あー・・・じゃ分からないんだな、これが・・・・」
「あなた、パエリヤにしたわよ、パエリヤに。海老好きでしょう。海老のよ。」
「コウは海老好きかー?」
「あー!」
「いまの『あー』は、意味が分かったな・・・・」
居間の脇にはキッチンがあって、その脇にテーブルがあった。三人きりの食事だから(しかも内一人は離乳食。)簡単極まりないのだが、コウを乳児用の椅子に座らせると私もジャケットだけを脱いで早速椅子に座る。
「・・・疲れたなあ、今日もー。お前はコウの面倒を見てるだけだからいいよなー。」
「あらー、これだって立派な仕事よー、それじゃ替わる?」
「それもどうかなー。」
「私あなたのかわりにバリバリと行政の書類を書くわー。」
妻は少し夢見がちだが、陽気でおしゃべりで、それは楽しい女性だった。彼女と一緒に家庭を作るのは実に素晴らしいことだった。息子を育てるのはさらのこと、である。
「・・・・で?コウがなんだって、将来何になりたいか、だって?」
「だーあ!の・・・・・あー・・・・あー、んぁー。」
三人でテーブルについたところで、コウが私に渡そうとしたのだろうか、それとも奪い取ろうとしたのだろうか、私の分のスプーンを欲しがっていることに気付いたので私はそれを手渡してやった。・・・・将来の夢だって!しかもコウの!私のことを未だに「だー」としか呼べないコウが語る将来の夢である。
「そうなのよー。」
コウに夕食を食べさせてやるのはコウの隣に座った私の役目であったので、奪われたスプーンのかわりに離乳食用の小さなスプーンを手渡しながら、妻は嬉し気にそう言った。ちなみに、朝食と昼食を食べさせてやるのは妻の仕事である。
「今日ね!私聞いてみたのよ、『コウは大きくなったら何になりますかー』って!そうしたらね、コウがパイロットになる、って・・・・!」
「だーだ、のー・・・・・あーい!」
当のコウはと言ったら、使いもしない私の大きなスプーンを持って振り回すのに必死だったが、私は小さなスプーンで彼におじやのような離乳食を食べさせることに必死だった。
「はいはい・・・お父さんはね、どっちかって言うとこっちのパエリアが食べたいんだな・・・・なんだ?コウが食わせてくれるのか?・・・・十年後にでも頼むよ・・・・」
私は一口離乳食をコウの口に持っていって、彼の口がもごもご動き出すのを確認してから妻に言った。
「・・・・パイロットねー。・・・いや、だからね、それは無いだろう、飛行機のパイロットは確かにかっこいい職業で高給取りだけどね、それはね・・・・」
「ああっ、信じて無い!」
「ふつう信じられないだろー。」
「だって言ったわよ、今日は絵本を二人で見てたのよ、『すてきなのりもの』っていう!そうしたらコウが飛行機を指差して言ったのよー、パイロットー、ってー!!」
・・・・いや、絶対それはウソだ。私はまたそう思ったが妻を愛していたのでそれ以上何も言わなかった。
「・・・うーん、パイロットは確かに子供が憧れる職業ではあると思うんだが・・・・」
私が腕を組んで、言葉を選んで話しはじめたので、コウは焦ったらしかった。
「あー、だーあ!ごはーん、だーあ!」
ごはん、はしっかり言えるのだけどなあ・・・・。コウは大きな使わないスプーンを振り回して私に食料を要求している。私は小さなスプーンで離乳食をまた一口すくうと、彼の口に放り込んだ。
「・・・・俺としてはなー。もっとこう、地に足のついた、地道な職に就いてもらいたいんだよなー、コウにはー。」
「あら、例えば?」
私はコウの面倒をみるのに精一杯でほとんど食事を出来ていないのだが、妻はちゃっかり自分の分の食事をとっている。私はコウに、おかあさん御飯おいしい?って聞いてやれ、と言った。
「まーま!あー・・・・おいし、だーあ!・・・あー!」
「そりゃ美味しいわよ。私が作ったんですからね!」
妻は大真面目な顔でコウにそう答えている。・・・・コウが本当にパイロットになりたい、と言ったのかどうかはともかく、私が知らないところで、妻とコウは会話を交わす術を持っているようだった。
「例えばって、地に足のついた職業かー?・・・・うーん、そうだな、だから『公務員』とかだよ、俺と同じ。」
「・・・・・夢が無いわ!」
妻はそう言って、やっと私が食事を出来ていないことに気付いたかのようにスプーンで自分のパエリアをすくうと、私に向けて差し出してよこした。・・・・いや、ありがとう。本当におかしな、だけど素敵な私の妻である。
「・・・・・コウは、公務員は嫌いか?」
「・・・・あぁあー。」
コウは肯定とも否定ともつかない言葉を発した。・・・・彼は大きなスプーンを握るのには飽きてしまったらしく、次には背の高い乳児用の椅子をゆらしはじめた・・・・元気なことは確かに元気な子供だ!
「あら、でもパイロットになるのよねー。」
「あー・・・・あぁあー。まーま、あいー・・・・。」
コウは両方ともの台詞に調子よくあいづちをうった。・・・・それから、食事そのものに飽きてしまったらしく盛大にあくびをすると、あー!と叫んだ。
「・・・・・・おい、コウはあまりパイロットにはなりたくないらしいぞ。」
「あら、公務員は嫌だって言ったのよ!」
私はコウが手放したスプーンで大急ぎで自分の分のパエリアをかきこむと、椅子から彼を抱え上げる。
「・・・・風呂、風呂!・・・・将来なりたいものに関しては、コウはこれから何年もかけてゆっくり考えるってさ!」
「あーっ。あなた、本当に全然信じて無いんでしょう!でも言ったのよ、パイロットになるー、って!コウがね!!」
「はいはい・・・・・」
「お、ふろー!あー、ついの、おふろー!!!」
コウを毎晩お風呂に入れるのも私の仕事である。彼は眠気が吹き飛んだらしく、喜んで私の顔にぺたぺたと手を触れた。・・・・あたたかいてのひら。私は食事もそこそこに、彼と一緒に風呂場へ向かった。居間から出る直前に、妻の手が私の抱きかかえたコウの頬を撫でる。・・・・・あたたかいてのひら。
・・・・・・果たして。
果たして、コウは何年か後に、実際『パイロット』でもあり『公務員』でもある特殊な職業につくことになったのだが、もちろんこの時の彼の両親は・・・・・・・・・・それを知る由も無かった。
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