聖痕
腹が痛い。
「……っ、」
これまで傷つけたことも、病んだこともない脇腹が急に痛むことがある。
「は、」
風呂から上がったばかりだったコウは、身を屈め、みっともなく踞った。
「あなた? 着替えを忘れていったでしょ、裸で出てきたって私もリナも喜ばないわよ〜?」
そんな陽気な妻の声と、「パパがはだかなの、リナもべつにうれしくな-い」と、最近口が達者になった一人娘の声が脱衣所の扉の向こうから響いてくる。
---宇宙世紀0098、十一月。
「あの戦争」から五年が経った。
「あの戦争」を節目にしなくても良かったのだが(コウは若かった)、しかしコウはそれで現役をリタイアした。
軍人を辞めた。
俗にいう「シャアの反乱」、第二次ネオ・ジオン抗争である。
「……はいはい、俺もお前たちを喜ばせようなんて思ってないよ」
歯を噛み締めながらコウは洗面台の前に立ち上がった。
「だから喜ばないってば!」
「よろこばないよパパ-!」
脱衣所の扉の向こうからは、いまだ陽気な母娘の会話が聞こえてくる。
そんなことを言いつつも、きちんと入浴後の着替えは置いていってくれたのだろう。
「……っ、く、そ……!」
コウは歯を噛み締めると、鏡に映る自分の身体を見た。
これまで傷つけたことも、病んだこともない脇腹が急に痛むことがある。
---見ればその脇腹には、
見まごうこと無き「銃創」が浮かんでいるのだった。
「くそっ……!」
赤く赤く撃ち抜かれた脇腹。
それはコウの傷ではなく、
もうこの世にはいない「あの人」の傷なのだ。
「……あれ、リナは?」
コウがやっとの思いで着替え、そして寝室に戻ると妻のニナが先にベッドに寝転がっていた。
「何時だと思ってるの? もう寝かしつけたわよ、あなた遅いんですもの」
ニナは振り返って肩を竦めると夫婦の寝室の隣にある子供部屋を指差して笑い、それからベッドの上で広げていた小さな携帯端末に目を戻す。
「忙しい仕事なのか?」
「ん-、それなりにね……」
ニナはまだしばらくその端末を眺めていたが、やがてそれを閉じるとタオルで頭をガシガシと拭いていたコウを手招いた。
「なんだよ」
軍を辞めた後、コウは妻であるニナがその生活の拠点にしている月に移り住んだ。結婚はしたものの、ニナにも確固たる仕事があったため(そしてその仕事に於いて優秀な女性でもあったため、)二人は長く単身生活が続いた。
同居し始めてすぐ、運良く子供にも恵まれ、三十代を迎えると共にコウは父親になった。ニナの方が年上であることを考えると運が良かった。そして生まれたのが一人娘のリナだ。今コウは、ニナの伝手を頼ってメカニック系の仕事をしている。
「あのね」
「なに」
コウがベッドに座るとニナも起き上がって隣に座った。そしてやけに真剣に、コウの瞳を覗き込んできた。
「気づいていないと思ったの」
「……だから何が」
コウがそう答えると、ニナが急にコウのバスロ-ブをがばり、と広げた。
「っ、ニナ!? 何を急に……」
「夫婦なんだから別に構わないでしょうが! それより気づいていないと思ったの、と聞いているの!」
「……」
「前からよね」
「……」
「いつもこの時期よね」
「……それは、」
コウは観念して、痛む脇腹を抱えて低く呟いた。
---赤く赤く撃ち抜かれた脇腹。
それはコウの傷ではなく、
もうこの世にはいない「あの人」の傷なのだ。
「だって今日が、命日だろう……!」
人が生きていく、というのは記憶が薄れていくことだろうとコウは思っている。
忘れるから人は生きていける。
忘れるからこそ人は耐えられる。
---わかっているはずなのに。
自分の身体は、身体だけはこうして、この日がくる度に贖罪を繰り返す。
---しかし何だって。
痛みまで伴うことはないだろうに!
ニナは無言で、ベッドの上で自分の夫の脇腹に浮かぶ赤い銃創を見つめていた。
本来だったら子供も眠りについたこれから、夫婦の営みが始まろうかという申し分の無い場面だ。
だが、夫のバスロ-ブの前をはだけたまま妻は押し黙っていた。
---宇宙世紀0098十一月十三日。
「……のよ」
「何」
「私もあの場所にいたのよ! わからないとでも思っているの! なぜ隠すの!」
「別に隠した訳じゃ……!」
そうだ、確かにニナもあの場所にいた。
阻止限界点を超えたコロニ-、アイランド・イ-ズのコントロ-ル・ル-ムに、その場所に。
そしてむしろ、あの時彼女は自分ではなくガト-を庇ったのだ。
アナベル・ガト-を。
ガト-を選んで、そしてガト-と生きていこうとしたのだ。
---赤く赤く撃ち抜かれた脇腹。
それはコウの傷ではなく、
もうこの世にはいない「あの人」の傷なのだ。
「……本来は」
ニナはコウのバスロ-ブを握りしめたまま、黙り込んでいる。コウは脇腹の痛みになぜか高笑いしたくなりながら続けた。
「本来は『痛み』など伴わないものらしいんだ。その、宗教的トランスでこういった痕の現れる人間は時々いるけれども、痛みなんかは」
「……」
「だが、痛い。確かに俺のこれは痛い。……でも俺は、痛いことが逆に嬉しいんだ。だから別に、隠していたわけじゃなくて」
「……あなたが好きよ」
ニナはそれだけ言うと、握りしめていたバスロ-ブをゆっくりほどいて、その傷跡に口づけた。
「……あなたが好きよ、生き残った中で一番」
……あぁ。
自分でも最低だな、と思ったのだが。
---その日初めて、コウはニナと結婚したのは間違いでなかったと思えた。
涙がこぼれた。
だって、それはコウにとっても間違いなく真実の言葉であったから。
生き残った中で、確かにニナが一番好きだ。
「あの人」のことを知っている相手だ。
それから、あれほど憎くて情けなくてみっともなくて、無かったことにしたくてでも出来なくて悲しんだ過去を抱えたまま。
抱えたまま。
---これからも生きていってやろうと心に決めた、ああ、そうだ。
この聖痕(痛み)を自分に残し、死んでいったガト-のために。
そう決心してコウはニナの顎を片手で引き上げるとゆっくりとキスをした、痛む脇腹を抱えたまま。
ガトコウバージョン……というよりノマカプ(コウニナ?)色が強くてスイマセン。
2009年の星の屑期間あたりに同一テーマのシャアム版を書いていて、本当はその時期に書きたかったものでした。
っていうか本当に2010年て私何をしていたんだろう……(笑)?
2011/01/27
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