第一夜******************








 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・
















 公(コウ)は、道場からの帰り道を急いでいた。剣道の道場からのだ。
「・・・おなかへったなあ・・・」
 時は、慶応元年。公は、この坂の多い漁村にに住む9才の少年だった・・・ふと、坂の途中から海を見る。
「父上にまた、怒られるかな・・・」
 そう呟きつつも、公はその坂の上から見える海の美しさに思わず足を止めた。・・・お腹は減っている。が、遂に公は剣道の道具を全て 道ばたの木の下にほうり出すと、その木に寄り掛かって座り込んだ。・・・疲れた。剣道の練習は楽しいけれども、あまりに疲れたから ちょっと休んでから帰ろう。お腹はたしかに減っているが。
「ひとつ・・・ふたつ・・・」
 公はあぐらをかいて座り、どんどん暗くなる空の色を眺めながら目の前に広がる村の、更に向こう、海に浮かぶ船の明かりを数えはじめた。 あれは、外国船だ。
 外国船が来てから碌な事が無い。・・・そういつも、公の父親は嘆いていた。公の父親は、今や農民と殆ど変わらない生活をしているものの 下級の旗本で・・・まあ、つまり士族だった。だからこうして公も、隣町の剣道場に通って剣道の練習をしている訳だ。
 外国船が初めてこの国に来たのは公が産まれるもっとずっと前の事だ。それも、この村にじゃない。もっと、江戸に近い方の町に来たのだ。 この村の港には、外国船は係留できない。なのに、今月になって港の沖に黒い船がやって来たので、村の人々は怯えて困惑していた。
「・・・・・・・そうだ。それに・・・」
 公は急に気がついて、少し肌寒くなって来た空を見上げた。・・・月が大きい。海からの風が、公のまだ総髪で後ろでひとつに結わえた綺麗な 黒髪をなびかせる。すると、子供じみてふっくらしたその頬に、後れ毛がいくすじかへばりついた。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










「!!」
 奥の草むらからガサ、という物音が聞こえたのはその時だった。公は飛び上がらんばかりに驚いた。いや、実際、ちょっとばかりは飛び上がったかも知れない。・・・脇に置いてあった竹刀を掴むと、公は恐る恐る草むらを振り返った。
「・・・誰・・・?」
 返事は無い。気が付いたら、もう殆ど日は落ちていた。・・・この道沿いには民家も無く、有るのは小さな沢筋だけのはず。実際ちょろちょろと水の流れる音が途切れ途切れに聞こえてきていた。
「誰だ!・・・誰かいるの!?」









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










「返事を・・・!」
 言っている自分の声が、随分うわずっている事に公は気付いた。もともと、9才なので高い声ではあったが。・・・逃げようかな。途中で休んだりせずにまっすぐ家に帰れば良かった。確かに最近、この辺りの町や村には人斬りが出る。人々はそれを、『鬼』と呼んでいた。なんでも、それはとても人間には見えないからだそうだ。父にそのうわさ話を話したら、『そりゃあ、異人だろう』と言われた。なるほど、と公は思った。異人と言うのは、例の外国船に乗ってくる連中で、とても人とは思えない恐ろしい形相をしているらしい・・・。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・女か・・・?」
 返事が無いままに公がその場から動けずにいると、随分間をおいてから小さな声が聞こえて来た。・・・公は驚いたものの少しほっとした。鬼が、異人が人間の言葉を話す訳が無い。
「違うよ。・・・誰?」
 そう言いつつも公が竹刀を持ったまま草むらに踏み込んでゆくと・・・こういうところは、公は意気地無しでは無かった・・・・・・・すると。










「・・・・何だ・・・子供か・・・・・・・・。」










 沢の脇の、草むらに寝転がっている人を見て、公は思わず固まっていた。・・・・鬼じゃ無いか、やっぱり!!だって自分と姿形が違う。髪の色も。顔の作りも。体つきも。
「・・・・・・・・・っ、」
「・・・・さっさと行ってしまえ。」
 公が固まったままでいると、不自然に沢べりの草むらに転がったままのその鬼が、やけに苦しそうにそう言った。・・・その声で公は我に返った。・・・いや、これ。鬼じゃ無いんじゃないのかな、やっぱり。だって、同じ言葉を話すし、着物を着てるし、そのはだけた腹には・・・
「・・・血が。」
 そう言って公が駆け寄ろうとすると、今度は物凄く大きな声で鬼が叫んだ。
「行ってしまえと言ってるだろうが!」
「だって、血がでてるよ、お腹から!分からないのか!?」
 公はそう言うと、急いで腰に下げていた手ぬぐいを外すと、その鬼の近くに飛んで来てお腹を押さえた。・・・ああ、大変だ。こんなに血が出てるのは初めてみた。押さえなきゃ、押さえなきゃ。公はとりあえずそれしか考えていなかった。
「分かっている!・・・しょうがないだろう、斬られたんだから!」
「!!・・・だって、あんた・・・異人の人斬りじゃないの!?」
 そう言った公を、鬼は初めてマトモに見た。
「・・・そうだ。だから、とにかく行け・・・。」
 公は鬼が自分の方を見たので、つられて自分もその顔を見た。やっぱり自分と少し姿形は違う。髪はぼさぼさの総髪だ。公よりも短い。そのうえ、とんでもない色をしている。肌の色も自分とは違った。・・・・・・が。見方によっては、鬼は年が15・6歳のただの怪我をした少年に見えない事も無い。・・・公には放っておけ無かった。
「だめだ、大変だよ・・・お腹。」
「・・・わかった。お前が押さえてくれるの分かったから、そうぐいぐい押すな。痛い。・・・もう血は止りかけだ。」
 遂に、鬼は観念したようにため息を付くと苦しそうに目を閉じた。
「それから・・・出来たら水を・・・隣に流れているのに体が動かせなくて飲めない・・・。」
「・・・うん、分かった。」
 水が欲しいという言葉を聞いて、公は手ぬぐいを押す手を止めて、沢に走り寄った。・・・おかしい。なんで自分は、必死で鬼を助けようとしているんだろう。手のひらで水を掬う。しかし、9才の手のひらでは横たわる鬼の元にかけ戻るまで、殆ど水は残らなかった。
「はい、水・・・」
 水と言うより、殆ど水に濡れた手だけを公が持って来たので、鬼は少し苦しそうに笑った。
「・・・ああ。わかった。もういい。だから、行ってくれ・・・。」
「ごめん。水、もう1回持ってくる。・・・ね、あんた人斬りなのに斬られたの?」
「・・・人斬りなのに助けるのか?」
 公が二度目の水を持って来ると、その人物はちょっと苦しそうにそう言った。
「・・・・・・・・。」
 そう言われて、公はふと気付いた。そうだ。助けるのでは無くて、人を呼んで来た方がいいのでは?
「・・・俺を・・放っといた方が・・・・・・・いいんじゃないのか・・・・・?」
 だがしかし、鬼の声がだんだん小さくなるのを聞いて、公は不安になった。人を呼びに行くどころじゃない。・・・ああ、何で自分はこんなに水を汲むのが下手なんだ!!それに・・・・・・・









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










「でも・・・なんだか、死なれる方が嫌だし・・・ちょっと、ねえ!」
 公が三回目の水を汲んで来た時には、鬼はもう返事をしてくれなかった。どうしよう!!公は、すぐに沢に取って返すと、今度は自分が沢に口を突っ込んで水を飲んだ。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










「・・・・」
 急いで引き返して来ると、公はもう口をきかなくなった鬼に口付けて、大急ぎで水を流し込んだ。・・・ゴクリ、と鬼ののどが鳴った。・・・・良かった、飲んだ!!
「・・・・・・・・・・お前・・・・」
 ようやくうっすらと、鬼は目を開けた。・・・ああ、目の色も自分と違うな。でも、顔を近付けて触れた鬼の唇が暖かかったので公は安心した。死んだ人は冷たくなるって誰かに聞いた気がする。鬼だってきっと冷たくなるだろう。
「・・・・・・・・ありがとう・・・・頼むから・・・・・・・もう行け。」
「・・・死なない?」
「・・・・ああ。」









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










 そう言われて、遂に公はしぶしぶその場を後にした。
 竹刀を引きずって、道に戻って来てから気付いた。随分遅くなっちゃったな。父親に怒られる。
「・・・帰らなきゃ。」
 また明日も来よう、と公は思った。・・・なんとか、食べ物とかけるものを持って。・・・・それに。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










 ・・・・それに、誰も鬼があんなに綺麗な生き物だとは教えてくれ無かった。















 家に帰って来ると、家の中は大騒ぎになっていた。父親と、三人の士族の友人達が、何やら出かける支度をしている。公は随分遅く家に帰って来たのだが誰にも咎められなかった。
「行くぞ!!」
 父達が、たいまつを持って山の方に出かけてゆく。
「なんでも、今日『人斬りの鬼』が返り打ちにあったそうでね。今ならまだ間に合うんじゃ無いかと、皆が出かける所なんですよ。」
 母親が、そう公に言うのを公は複雑な思いで聞いた。・・・障子の隙間から、月が明るく見える。
「母上、明かりを消しても良い?・・・公は月が見たいんです。」
「ええ。早くお眠りなさい。」
 母親はそう言うと、公の部屋を出ていった。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










 そうか、と公は思った。・・・あの月の色だ、鬼の髪の毛は。















 次の日の夜になると、公は大慌てで、だが見つからないように食べ物と上掛けを持って家を出た。昼間にも、鬼のいる道の脇は通ったが、何故か昼に鬼に会う勇気は無くて近寄れなかった。・・・昼に行ったら鬼は居ないような気すらした。父親達は、相変わらず違う方向を山狩りし続けていたが、公にはそれが安心でも有り、父親に嘘をついているようで心苦しくもあった。
「・・・鬼、いる・・・・?」
 公が草を踏み分けて沢に近付いてゆくと、鬼は昨日と全く同じ格好でそこに横たわっていた。
「・・・ねえ。」
 公は、一瞬鬼が死んでいるのでは無いかと思った。しかし、傍らに立つと鬼はゆっくり目を開けた。
「・・・またお前か・・・・・・」
「食べ物持って来たよ。あと、これ傷の上に掛けた方がいいよ。」
「腹に穴が空いてるのに食い物が食えるか。」
「・・・・」
 もっともだ。公は、悲しくなった。
「でも、何か食べないと直らないよ。」
「直ったらお前を殺すかも知れないぞ。・・・俺は人斬りだからな。」
 ・・・すごい勢いで海の方から風が吹き上げて来た。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










「・・・何を泣いている。」
 鬼にそう言われて、公は初めて自分が泣いている事に気付いた。
「・・・あんた、本当に人斬りなのか?」
「そう言ったのはお前だぞ。」
「なんで人を斬るの。」
 公は鬼の傍らにあぐらを組んで座り込むとわずかな食べ物を置き、鬼が押さえている腹の上に無理矢理自分の古くなった着物を掛けた。
「・・・何で助ける・・・・」
 鬼は、呆れがちにそう言った。
「あんたの髪が・・・月と同じ色で綺麗だから。あんたが人斬りじゃなければ良かったのに。家に連れていってふとんに寝かせられるよ。」
「・・・それだけの理由で助けたのか?」
「うん・・・。」
 話ながら、自分でもそれと気付かない様子で公が泣き続けるので、鬼は困ったようだった。
「人を斬るのは・・・自分の神を信じているからだ。」
「何?」
 公は分からないと言う顔をした。
「この国はおかしい・・・早く、開国した方がいい。」
「・・・何?耶蘇の神を信じてるの?あんた、キリシタン?・・・何処から来たの。異人だろ?」
「半分だけ異人だ。」
 鬼はそう言って、傍らに置かれた食べ物を見た。
「・・・分かった。食うから・・・・泣くな。食わせてくれ・・・・」
「うん。」
 公は、自分で握った為ぼろぼろのおむすびを鬼に食わせてやった。
「南から来た。南では、もう人々が立ち上がっている。」
「・・・去年戦争があったね。」
 南の方ので、江戸に逆らう人々が戦争を起こしたと言うのは公も聞いて知っていた。
「ねえ、鬼は・・・自分の神の為に人を斬っているの。」
「そう・・・」
 そこで鬼はむせた。水気無くおむすびを食っていたからだ。
「あ・・・ごめん。待ってて。」
 公は自分が、水を組む容れ物を持って来忘れた事に気付いた。しかたないので、昨日と同じように口に水を含んで持って来ると、鬼に飲ませた。
「・・・・あのな、お前あまり簡単に・・・」
「何?」
「あまり簡単に、人を信用するな。」
「うん?それで、鬼の神って?・・・南で、何があったの?」
「・・・・・・・・」









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










 鬼は、諦めたように空を見上げると、いろいろ公に話してくれた。
 長崎と言う町に、鬼の神の寺が今年で来た事。この国は、ちっとも変わろうとしていないと言う事。鬼は、その長崎で生まれ育った事。
 自分達が正義の為に戦っているのだと言う事。
 ・・・公には、その半分も意味は分からなかったが、どれも初めて聞く話ばかりで面白かった。自分達が、何も変わらない古い体制の人間だと言うなら、何故自分は剣道の練習などしているんだろう。
「・・・・鬼?」
 しばらく話をすると、鬼は疲れたらしく寝てしまった。・・・公はこっそり家に帰った。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










 その次も、その次も、その次の晩も公は鬼に会いにいった。鬼は、少しずつ良くなっているように公には見えた。
「・・・ねえ。そろそろ、こっちの方で山狩りがはじまるよ。父上がそう言っていた。残りは、この峠だけだって。」
 一週間程経った晩に、公がそう鬼に言うと、鬼は驚いた事に起き上がった。
「・・・そうか・・・もう行かねば。」
「・・・何処に。」
 公は、不思議と鬼がここから居なくなる事には悲しみを感じ無かった。死んでしまうかも、と思った時には、あんなに悲しかったのに。
「・・・お前には関係ない。・・・・それに、お前を殺さねば。」
 鬼は、小さく笑うと傍らに置いてあった刀を取った。それには、公も気付いていた。人斬りが仕事なんだから、刀くらい持っているだろう。
「そうか・・・殺されるのか・・・・・・・・・じゃ、恐いから、目をつぶっててもいい?」
 公がそう言うと、鬼は笑いながら刀の鞘を払った。・・・立ち上がった鬼は、公より随分背が大きかった。
「そうだな。・・・死ぬのは恐い事だな。・・・・・・・・・・・・・・お前のおかげで気付いた。」
 目をつぶった、自分の首に刀の冷たい切っ先が触れるのを公は感じた。
「・・・名は?なんという、子供。」
 自分だって15・6だろうに。公は思ったが答えた。
「・・・名は公。姓は浦城。」
「・・・・悪いな。」
 また、凄まじく海から吹き上げる風。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・










 何か暖かいものが唇に触れた。・・・だが、不思議といつまで経っても公の首は飛ばなかった。
「・・・じゃあな、子供。」
 風にかすれて、そんな声が聞こえた気がする。随分経ってから、公が目を開けると・・・・・・・鬼は何処にも居なかった。
「・・・・殺さずに行ったの・・・・・?」
 公はぽつりと呟いた。・・・不思議と悲しく無かった。鬼が目の前から居なくなる事は。死なれる事よりも。










 またきっと会えると思った。・・・鬼の言う、この国の争乱とやらを越えたら。









 鬼が出る。
 鬼が出るそうだ、最近−−−−−・・・




















 その翌々年。神戸村は、幕府の命により開港した。



















   第二夜へ






















元治元年>1864年。八月、幕府による第一回長州征伐。
慶応元年>1865年。英・仏・蘭・米の四国の軍艦、九月に兵庫開港を求めて兵庫港沖に来航。長崎に大浦天守堂完成。
慶応三年>1867年。十二月、兵庫開港。大政奉還。








  00/05/01 初出 以後、随時加筆修正。