昼を過ぎた頃、アムロは妙な胸騒ぎを感じた。――おかしい。なにかおかしいぞ。なので午後の実験は気もそぞろで、結局頼み込んで今日は早めに上がらせてもらう事にした。――おかしい。どこかおかしいぞ。
研究所の建物を出たとたんに、自分の予感が的中した事を知る。つい足を止める。それに引き摺られるように、隣に立っていた男も眉を潜めた。彼とてニュータイプの端くれだ。アムロの感情の波を、もろに当てられてしまったらしい。
「……何です。」
「嵐が……」
ニタ研に所属する線の細い強化人間の男とは、既にかなりの懇意になっていた。アムロは少し焦りながら空を見上げる。東の空が薄くくぐもり、午後の三時とは思えない様な色合いを見せていた。
「……嵐が来るな。」
「あぁ、今日は夕方から、随分荒れるんじゃないかって。……どこもかしこも異常気象ですよ、地球はもう元気じゃないんだ。だから時々悲鳴を上げる。」
ニタ研の男は妙に詩的な台詞を吐いて、アムロと同じよう空を見上げた。……アムロは走り出したいような衝動に駆られた。
「……帰る、」
「あ、これを。」
しかしニタ研の強化人間は、アムロを引き止めて何かを手渡してくる。
「……何だよ。」
「先週頼まれたものですよ。……憶えて無いんですか。」
それはオセロゲームの箱だった。……今日の『お土産』だ。これまでもシャアの為に、と思ってこの男に幾つかのものをこっそり調達してもらっていたが、これもそうだった。すっかり忘れていた。
思えば、いつも変なものばかりこの男には頼んで来た。模型飛行機とか絵本とか。だから、少し呆れられているかもしれないな。そう思いながらオセロゲームの箱を受け取る。
「……さようならですね。」
すると、坂道を駅に向けて走り出そうとしていたアムロの背中に彼がそんな声を掛けてきた。驚いて振り返る。
「え、」
「……これでさようならですね。……アムロ・レイ、あなたに会えて良かった。本当に光栄でした。人類初の、そして本物のニュータイプ。」
そう静かに、門柱に寄り添って立つ男に言われた瞬間に、ああ、最後なんだな、とアムロにも分かった。
「……オセロを、ありがとう。」
しかし、咽をついて出たのはそんな言葉だった。軽く片手を上げる。……坂道を下っている間に、ついに雨が降り始めた。……アムロは思い付いて、もう一回坂の上を振り返ってみた。強化人間の彼は、まだ門柱に寄りかかるように立っていた。遠すぎて表情は見えない。……彼は……。
彼は、俺とシャアの依存し合った関係を、一体……一体どう思っていたのだろう。それを問う機会は、最早永久に失われた。……彼の言う通り、自分達はもう二度と巡り会わないだろう。
セイラの屋敷の表門に飛込んだ瞬間に、アムロは自分の不安が杞憂では無かったことを知った。
「……アムロ!」
タクシーを飛び出し、門に飛込んだ自分と同じくらいの勢いでセイラが飛びついて来た。
「兄が、兄がっ……!」
「シャアがどうした。……落ち着いて、セイラさん。」
セイラは恥も外聞も無いと言ったような有り様で自分に縋り付いてくる。……その腕の体温は、シャアと寸部違わぬものであるようにアムロは感じた。……あぁ神様。
「兄が何処にもいないの! 嵐が来たからお医者様を呼んで、そしてコテージに行ったわ、でもその時にはもう何処にも……!」
アムロは返事もせずにコテージに向かって駆け出した。……あぁ神様。……どうしたってあなたは俺を、そして俺達を、放っておいてはくれないらしい。
「……シャア!」
夕暮れ時で、周囲の風は強くなりこれから嵐が来る事を嫌でも思い知らされた。……部屋の中はひっそりとして薄暗い。人の気配は無い。それでも全ての部屋を一応確認してみる。……何処にもいない。
「……シャア! シャア、どこだ!」
それだけ叫んで、アムロは雨足の強くなった庭に転がり出た。
時々アムロが居なくなる。
それはいつもの事だったので、そうしていつしか慣れていたので、私は揺れる世界の中で目を閉じて彼が戻ってくるのを待った。
何時しか彼は、戻る度にいろいろなものを持ってくるようになった。
最初は苗だった。アムロは「パプリカだよ、育てようね」と言った。
次はお風呂に浮かべるアヒル。
次はテディベア。
その次が飛行機の模型。
その次が絵本。
……ああ、なんで全部きちんと憶えているのかな?
自分でも不思議なくらいだった、彼は私の世界を、丁寧にゆっくりと広げていった。
ゆらり。
……それはまるで、もう一回私を子供から育て直しているかのように。
……それはまるで、これ以上無い、母から子への無償の愛のように。
ムショウノアイ?
無償の愛。
ゆらり。……ゆらゆらゆら。
揺らぐ世界の中で、自分の知りもしない単語に時々出会って、自分の事なのに私は怯える。
それからすぐ気づく。
なるほど私は忘れているわけだ。
……そうして、全てを取り戻す鍵のように、
アムロが世界の中心にいるのだ私は本当は知っている。
この世界がなんなのか本当は知っている。今はただ思い出せないだけだ。
……揺らめき。
……私は、本当は、知っている。
「……セイラさん!」
しばらく広大な庭の中を闇雲に走り回ってから屋敷の表門に戻ると、そこには雨の中、途方に暮れた顔のセイラがまだ立っていた。
「アムロ……私、どうしたらいいの、兄は何処へ行ったの……」
「……」
震える彼女を、本当は強く抱き締めて慰めたかった。しかし今はその時間がない。
「……屋敷内は全て、くまなく探したんだね?」
ええ、と強くなって来た雨風のなかでセイラが呟く。外聞を取り繕っている場合では無いと彼女も感じたのだろう、屋敷の使用人全てが捜索に参加していた。しかし手ごたえは無かったようだ。セイラと共に本館に向かうと、その玄関前に彼らも皆戻って来ていた。
「……とりあえず皆を元の仕事に戻らせて。」
「でも……」
セイラが不安気に、そして少し反抗的にその面を上げる。
「……あとは俺が探す。……きちんと見つけて見せる、だから、」
少しだけ彼女を引き寄せ、その唇にアムロはキスを落とした。
「……だから、」
「……分かったわ。」
セイラはそれだけ言うと、あっという間に館の主人の顔に戻った。気丈な女性だ。……空では、本来夕暮れが広がる時間帯である空では、低くたれ込めた雲と激しく打ち付ける雨と風と、それから時たま光る雷とが奇妙なカルテットを奏でている。
「……必ず兄を見つけて頂戴。」
「あぁ。」
アムロは雨に濡れた身体を、セイラからようやっと離した。……そして、雨粒がぶち当たる曇天の元にもう一度走り出た、シャアを。
……シャアを、見つけなければ。自分の全ての能力を持って。
空気がさざめき立つ。
……嫌な気配が満ちてくる。
自分は水の中にいる。
その水が、もう満杯に近かったのに、その水が。
無理にかき回される音を聞いたような気がした。
セイラの話だと、昼の最中に来た嵐に、彼女もそれなりに慌て、コテージに駆け付けた。しかしシャアは既にそこにおらず、屋敷の全使用人をもってその敷地内を探索したということらしい。
薄暗い雨の中をアムロはコテージに向かって走った。……では残る場所はどこだ?
おそらく海だ。……ニュータイプに、人探しの能力などあるわけもないのだが、他の可能性を潰していったらそれ以外に無いような気がした。
いや、気がしたどころじゃない。……絶対海辺のどこかだ、シャアは海が好きだった。
……シャア。嵐は恐いんだろう? だったら、俺のところへ戻ってこいよ。
煌めく稲妻の光に、暗くなった室内でリビングのテーブルに放り出されたオセロゲームの箱が照らし出された。
……恐い。
こわいこわいこわい!
窓の外に広がる、薄暗くなった空を見ながら私は膝を抱えていた。
恐い!
たぶん、揺れる。……世界に、大揺れが来るあの時と同じように。
私は無理矢理ひっくり返されそうになった自分と言うコップを思い出していた。
あれは、初めて嵐の来た晩だった。
揺れる世界の全てが、恐ろしいくらいの勢いでぐるぐる回った。……息が止まりそうになった。
……アムロが居なければ。
……アムロが居なければとても耐えられるようなものじゃあ、無かったんだ。
そして今、今日、アムロはいない。
……稲妻が光った。
私は裸足のまま、揺れる頭を抱えて声にならない声をあげ、裸足のまま庭に飛び出した。
……アムロ!
「……シャア! 頼む、シャア! どこだ、返事をしてくれ!」
滑稽なくらい自分は必死だった。……シャアは自分が近くに居なかったから、嵐に怯えてコテージを飛び出したのだ。……俺の責任だ。
「……シャア!」
アムロは横殴りに吹き付ける雨の中、ただそれだけを叫んで海岸を歩き続けた。
「シャア!」
見ろよ、全然役に立たないじゃ無いか、こんな時。アムロは妙に笑い出しそうな自分を押さえる事に苦労した。……ニュータイプだからって、分かりあえるからって、そんなの、
「……シャアったら!」
……全然全く役に立たないじゃ無いか、シャア一人見つけるのにも! もう雨が酷くて目も開けていられない。そう思った瞬間に、薄暗い海の中に、呆然と立ち尽くしている人陰を見つけた。
「……シャア!」
シャアだ。……間違い無い、まるで入水自殺を謀ろうとするかのごとく、自分より体格の良い、だが全てを失った男が、入り江の端の大きな岩の陰に立っている。
「シャアっ……!」
……必死に走った。……これほどまで必死に走った事が、自分の人生で今まであっただろうか。記憶に無い。これから先も、砂浜に足を捕られつつの全力疾走なんてあるものかどうか。
「……っ、」
海に飛込んだ。……荒れ狂う波を必死で掻き分けて、岩に縋りつき、腰ほどまで海水に浸かっているシャアに歩み寄る。
「シャア! 心配したんだぞ、どうしてこんなところに勝手に……、」
だが、アムロの言葉はそこで先を次げなくなった。
「……アムロ」
そう唸るように呟きながら、シャアがこちらを振り返ったからだ。
「……アムロ」
もう一回、吹きすさぶ嵐の中で、確かにシャアはそう言った。周囲には、恐ろしいくらい嵐の雨風が吹き付けている。
「アムロ」
「……」
三度、シャアはそう言った。……アムロはまだ返事が出来なかった。恐ろしいくらい純粋なその瞳に宿る、欲望の種類を理解してしまったからだ……ああ、何故こいつはこんな目で俺を見るんだ。
……よりによって、俺を!
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2009.02.03.
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