「……いつかセイラさん、俺に聞いただろう。何故兄と一緒にいてくれるの、と。」
 アムロとセイラは長い時間黙りこくっていたのだが、やがてアムロがそう言った。
「ええ、聞いたわ。」
「俺、思い出したことがあるんだ。……セイラさんはララァを知っている?」
「……ええ、存在くらいは。兄やあなた程に分かることは出来なかったけど、あの場所に……私も居たのよ。」
 そうだった。……シャアとララァと、そしてアムロがまるで溶け合うように繋がってしまった、理解し合ってしまったあの日の戦場、あの場所に確かにセイラも居たのだ。だからあれは三人の悲劇では無い……厳密にはシャアとララァとアムロとセイラ、四人が居たからこそ起こり得た悲劇だ。そうだったね、とアムロが小さく呟くと、セイラは言葉を探すようにこう続けた。
「私なりに考えて見た事もあるのよ。……こんなことは今まで誰にも話した事はないのだけれど。もし、あの時私が居なければ、兄が私を手に掛けようとした時ララァ・スンという女性がそれを庇おうとしなければ、アムロが過って彼女を殺さなければ。……そのことについて考えもしたし、後悔……そうね後悔もしたわ。」
「……泣かないで。セイラさんのせいじゃ無い、」
「泣いてはいないわ。」
 セイラは気丈に即答したが、アムロが肩を抱く為に回した腕は振り払わなかった。
「……ララァ亡き後にね。幾度かララァに会っているんだ、あの戦場で……と言ったら、セイラさんは呆れる?」
「いいえ。……アムロが会ったというのなら、確かに会ったのでしょうね。信じるわ。」
「もっと正確に言うとね、聞こえたんだララァの声が。……自分で言うのもなんだけど、一年戦争の最後の数日間、俺のポテンシャルは人生で一番研ぎすまされていたような気がする。それはニュータイプの能力だけの話じゃ無い。今ではとても出来ないようなことを、やってのけていたような気がするんだ。」
「それも信じるわ。……だって、私もあなたの声を聞いたもの。」
「……それでね。」
 アムロはここで少し言葉を切った。目の前の庭では、相変わらずパプリカが陽気な赤と黄色の実をつけている。
「その後の生活はそれほどの緊張感を強いられるようなものでは全く無くて、俺もずいぶん長い事そんな感覚は忘れていたんだけど……ここに来てから、ふと思い出した事が有るんだよ。」
「何?」
「ララァが言った言葉なんだけど。……ララァはこう言ったんだ……『ニュータイプは殺し合う為の道具じゃ無い』とね。」
 その時寝室の扉が開いて、ようやくシャアが起きて来た。リビングのソファで話し込む二人を見て少し不思議そうな顔をしたが、パジャマ替わりのTシャツとスェット姿のまま、アムロ、と呟いてぺたぺたと歩いて来る。自分も一緒にソファに座りたそうな様子だ。
「おはよう、兄さん。」
 返事が返ってこないのは分かっていたが、セイラが声をかけた。
「セイラさん、ちょっと詰めて。」
 二人がけのソファに三人で座るのは窮屈だったが、アムロを真ん中に結局そうした。アムロは左右に座る兄妹の手をそれぞれ両手で握った。そして、思いきったようにこう言った。
「俺はね、セイラさん。……それが証明したかったんじゃないかと思う。」
「……それ、とは?」
「『ニュータイプは殺し合う為の道具じゃ無い』ということをだよ。……もし、シャアがニュータイプ能力を失った事に何か意味が有るのだとしたら……そうしてシャアを救う事が出来るのだとしたら……随分自分の人生の意味が変わるような気がした。……そういうことだよ。」
 遠くから波音が聞こえてくる。嵐が過ぎた後の空はいつもに増して美しい。エーゲ海に溶ける空を、三人は黙って随分長い事見つめ続けていた。



「……どっちがいい?」
 アムロは面白そうに庭で取れたパプリカを並べて、テーブルの向こうに座るシャアにそう聞いた。シャアは、意味が分からないらしく首を傾げている。
「赤と、黄色……難しい事を聞いているんじゃないんだよ、シャア。どっちの色の方が好き? って聞いているんだ。」
 それでもまだシャアはテーブルの上の二つのパプリカと、それからアムロの顔を見比べていた。右手を赤いパプリカの方に一旦伸ばす。しかしすぐに引っ込めて、今度は左手を黄色いパプリカに伸ばす。本気で悩んでいるようだ。その様子を見てついアムロは吹き出した。
「……分かったよ、両方入れよう。」
 もちろん最初からサラダには両方を入れる予定だった。ただ、聞いてみたかっただけなのだ。
「大丈夫、両方あなたの色なんだから。味も大して変わらないよ多分。」
 シャアはまだ不思議そうにアムロを見ていたが、アムロはパプリカを回収するとキッチンに向かった。
 最初の嵐の晩以降、日々は穏やかに流れていた。セイラのいう通りこの夏は嵐が多いらしく、何度か同じような夜があったのだが、アムロと一緒のベッドであればシャアは落ち着くらしい。それで結局、ずっと同じベッドで眠るようになってしまった。
 アムロは週に一回はニュータイプ研究所に行く為に外出するが、不思議と昼間に嵐が来る事は無かった。それで事無きを得ている。もっとも、セイラさんには嵐が来たら、すぐに医者を呼んでシャアを寝らせるよう頼んである。
「……アムロ」
「何? ……今日はフェットチーネだよ。ほうれん草入りのね。……シャアがパスタ好きで助かったよ、俺料理なんかまともに出来ないからさぁ。でもサラダのドレッシングは手作りだよ。これからマヨネーズとゆで卵を刻んだのをまぜるんだ。」
 それでもここへ来て五ヶ月近くが経つうちに、嫌でも料理の腕は上達してしまっていた。……そうか、もう五ヶ月になるのか。七月も末だものな。……ほとんど何も進展しないままに。
 ここにこうしている事が、別に苦痛というわけではない。生活は非常に穏やかで、自分がシャアと共にあるのは異常なことなのに、それすらも包括して時間はゆったりと流れている。
 しかし、いつまでもこうしていられる訳じゃ無い。
 それも、アムロには痛いほど分かっていた。時たまふらりとカイが現れ、今のカラバと宇宙の状況を説明してくれるのだが、その人を小馬鹿にしたようなカイの言葉の裏にも、微妙な焦りと、それから深い心配が見て取れた。
 ――自分はここにいる場合じゃ無い。ここにいて、こんなことをしている場合じゃ無い。
 分かってはいるのだが、シャアの、何も分からないシャアの自分だけを無心に見つめる瞳を見ていると、その決心も揺らぐ。
 だが、しかしそれでも。
 アムロには何となく終わりが見えてきていた。この生活はもう長くは続かない。それは最初の嵐の次の朝、セイラと話ながら気づいた事だった。
 『ニュータイプは戦う為の道具じゃない』ということを証明したい。
 それは本心だ。……しかし、もう自分に出来そうなことはなにもない。……出来るかぎりのことはもうやった。しかもそれは、全く功を奏していない――。
「……アムロ、アムロ」
 シャアが自分を呼ぶ声で急に我に返った。何度も呼ばれていたらしいのだが気づかなかった。
「え……あ、ゴメン。」
 気が付いたら無心にドレッシングをかき回してしまっていた。……バルサミコ酢はどこだっけ。アムロは急に現実に引き戻されて混乱した。
 思えば、この生活自体があまりに現実離れして居るのだが。
「……」
 慌てて料理に戻るアムロの背中を、絵本を抱えてリビングのソファに座ったシャアが、じっと見つめ続けていた。



 世界はもう、ほとんど揺るがない。
 ゆらゆらゆら、はゆるり、程度になった。きっとコップに水が溜まった。
 だけどぼんやりとしているのは相変わらずだ。
 アムロの背中で、エプロンのリボンが縦結びになって揺れている。
 自分の世界はほとんど揺るがなくなった。
 でも、水の中から見渡す世界は、どこか薄暗くぼやけたままだ。
 アムロだけがきちんと見える。
 何故アムロだけ違うのか、自分には分からない。
 ……時々この水の中から出たいと思う。
 だけど方法が分からない。
「出来たぞ、シャア。待たせてごめんな。」
 アムロの背中が、皿をもって振り返った。彼は微笑んでいる。
 ……寂しそうな笑顔だと思った。それがハッキリと見える。
 ゆるり、と揺れるあたりの景色は、だがぼやけたままだった。



『……それで、予定では。』
「八月頭だな。……八月になったらすぐかもしれない。そっちはどうだ。」
『どうにもなってない。……なあ、まだアムロは戻って来れないのか。一体何が起こって居るんだ。』
 行き詰まって居るのはなにもアムロだけでは無かった。……怒りを隠そうともしない画面の中のハヤトを見て、悟られない程度にカイは溜め息をついた。
「残念だけど説明出来ないね。……俺だってやってらんねぇよ。」
 このところの俺はジャーナリストというより、ほとんどただの情報屋だな。カイはいらいらして、端末の脇に置いてあった冷めたコーヒーに手を伸ばした。……不味いのなんの。
『あのなぁ! こっちは切羽詰まってんだよ、八月にはおそらくネオジオンの地球侵攻が始まる、連邦軍は混乱したまま、カラバの戦力はアムロが抜けたことでガタ落ち、ついでに言うならベルトーチカ・イルマはヒステリーを起こして戦力外だ! 限界なんだよ!』
「俺に当たるなよ!」
 つられてカイもつい叫んでしまった。……それから、やや気前が不味くなり、こう言い直した。
「……セイラさん。」
『……セイラさんがどうした。』
 セイラさん。……あの頃、同じ艦に乗っていた全ての男に、それは郷愁を呼び起こさせる言葉だった。
「セイラさんを、苦しませたく無い。……セイラさんの望む、納得するようにしてやりたいだけなんだよ、俺は。」
『どうしてそれで、アムロが必要なんだよ……』
 昔、旧ヨーロッパ地区には『騎士道』という信仰があったそうだ。いや、信仰というのは大袈裟か。中世に『騎士道』という精神があって、それは騎士が領主に忠誠を誓い、領主の奥方を盲目的に、かつプラトニックに崇拝する習慣だった。何故かカイは、この時その古の精神を思い出していた。
「……俺、ブライトにも連絡入れなきゃならないから。……もう切るぞ。」
 辛うじて、それだけ言った。……ああ、本当にコーヒーが不味い。
『……よろしく伝えてくれ。』
 ハヤトは怒った顔のまま、通信を切った。……真っ黒になった画面を、カイはしばらく眺め続けた。
 ……おそらくあの頃、誰もがセイラに恋をしていた。それはセクシャルな意味では無く。『騎士道』の崇拝対象としてあの美しい女性はホワイトベースに存在していた。それは否めない。愛という意味で言ったら、アガペーとエロースの違いだ。
 そして、今その二つの愛が……アガペーというプラトニックと、エロースというセクシャルが誕生したエーゲ海、ギリシアの地に彼女は住んでいる。……まだ年若いというのに。自分の運命を静かに受け入れて。それはまるで世捨て人のように。
「……ったく……」
 カイは舌打ちをしながら、宇宙にいるブライトへの通信回路を開いた。アムロはいまおそらく、凡人には理解し難いレベルで何かと戦っている。自分の信念と、それからセイラの為に。……だったら出来うる限り、俺も協力するしか無いじゃないか。
『……こちら、アーガマ艦橋。』
「カイ・シデンだ。……艦長に繋いでくれ。」
 カイは深く椅子に座り直して画面に向かってそう言った。
 ……0088、七月二十八日。



 その日も始まりは穏やかだった。七月三十日。
「アムロ」
「今日のお土産は何かしらね。」
 ニュータイプ研究所に出向く日だったので、シャアとセイラが屋敷の表門で見送ってくれた。
「何か分かっちゃったら『お土産』の楽しみが無くなるだろ。……じゃ、行ってきます。」
 二人の頬に軽くキスをしてタクシーに乗り、駅に向かう。ちらりと見上げた空は、絵はがきのように美しい色をしていた。
 最近では、シャアも随分物わかりが良くなって、大人しく自分を見送るようになった。……それを少し寂しいと思ってしまうのだから、自分も贅沢なものだ。そんなことを考えているうちに研究所の最寄り駅に着いた。ここから研究所までは石畳の坂道を登ってゆくだけ、一本道だ。
 研究所の門をくぐる。……その時もう一度空を見上げたのだが、やはり穏やかで美しかった。













2009.02.01.




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