シャアはずいぶん模型飛行機が気に入ったようだった。これも、ニタ研の男に頼んで手に入れてもらったものだ。変なものばかり欲しがっているから、少し不思議に思われているかもしれない。自分で飛ばそうとはしないのだが、アムロが飛ばしてやると、シャアは右から左へ、左から右へとずっと飽きずに眺めていた。午後中そうして遊んでいたら、大して頑丈では無いその小さな模型飛行機は壊れてしまった。
「あー……今日はここまでだな。大丈夫、俺こういうの得意だから。明日直してやるよ。」
 動かなくなった模型飛行機を持ってアムロが戻ってくると、シャアは不思議そうな顔をしていた。そして手を出して来るので彼に手渡すと、これまた飽きずに眺めている。
 ……飛ばなくなった模型飛行機。
 まるで今の自分達のようだな、と思いながら砂浜に、シャアの隣に座り込む。それから大きな夕日の沈む海を見た。
「……アムロ」
 シャアがそう言うのでアムロはそちらを向く。すると、シャアはもう模型飛行機を見てはいなかった。代わりに、夕日とは逆の東の空の方を眺めている。
「……どうした?」
「アムロ」
 シャアが急にアムロの腕に縋り付いて来た。アムロも東の空を見た。
「ああ。……嵐が来るんじゃないかな。今月は嵐が多いって、セイラさんが言ってた。」
「アムロ……」
「大丈夫だよ、すぐには嵐も来ない。……もう戻ろうか。」
 二人は手を繋いで、コテージへと戻った。



 コテージと言ってもこのゲストハウスはそれなりに大きく、かなりの部屋数がある。寝室も幾つかあったので、最初は別々の部屋を使おうとしたのだが、シャアがどうしてもそれを嫌がった。アムロの姿が見えなくなる事が不安らしいのだ。
「……シャア。いいか? もう灯りを消すぞ。」
 それで結局、一番大きな主寝室を二人で一緒に使っていた。この部屋だけはベッドが二つあったからだ。
「……アムロ」
 夕暮れに暗くなった空を見てから、シャアはどこか落ち着かなかった。嵐は確実に近付いているようで、夜半近くなった今ではかなり風が強くなり湿度も上がっている。セイラに頼めばいつでも医者は呼んでもらえる。どうしようか、と思ったが薬で無理にシャアを眠らせるのも可哀想に思い、こう声をかけた。
「大丈夫だよ、明日の朝には嵐は通り過ぎているだろうから。……さ、横になって。」
「アムロ」
 それでもまだシャアは不満のようだったが、頭を撫でタオルケットを掛けてやるとようやく横になる。
「……アムロ」
「ああ、大丈夫だよ……灯りはしばらくつけておく、俺もここにいるから。」
 シャアのベッドの端に浅く座り、タオルケットの上からなだめるように触れると、やっと諦めたように目を閉じた。……規則正しい寝息が聞こえ始めたのを確認して、アムロも自分のベッドに向かった。
 風は強くなる一方だ。……ベッドにもぐり込みながらアムロはふと、シャアは嵐に遭ったことがあるんだろうかと思う。コロニーには無い天気なのだ。ベッドサイドの灯りを消す。……風の音に交じって雨音が聞こえ始めた頃、アムロも眠りの中に落ちて行った。



 この揺らぎは普通じゃ無い。
「……っ!」
 声にならない叫び声を上げて飛び起きる。しかしあたりは真っ暗で何も見えない。……アムロもだ。ゆれるゆれるゆれる、
「……アムロ!」
 自分の話せる唯一の言葉を口に出した。……どこ。ここはどこ! 身体の半分を強かに打って、どうやら自分がベッドから転がり落ちたらしいことを知る。
「アムロ! アムロ、アムロ!」
 ゆらゆらという普段の感覚じゃ無い。家の目の前にある大きな水色の、寄せては返すような穏やかな揺れでもない。世界がすべて、ぐらぐらと乱暴に掻き回されているような揺れだった。
「アムロ!」
 ……気持ちが悪い。頭が痛い。……アムロ、
「……どうした、シャア。目が覚めたのか?」
 そのまま身動き出来ずに床に蹲っていると小さな灯りがついて、向かいのベッドでアムロが起き上がるのが見えた。
「シャア? ……大丈夫か、どこか具合が悪いのか?」
「アムロ!」
 私は必死で彼にしがみついた、揺れは……まだ治まらない。



 真夜中にシャアの叫び声で目が覚めた。……嵐はちょうどピークのようで、強い風と雨粒がばちばちと痛いほどの音を立てて窓を叩き付けている。
「シャア? ……大丈夫か、どこか具合が悪いのか?」
 灯りをつけるとシャアがベッドから転がり落ちて床に蹲っている。
「アムロ!」
 そして酷く苦しそうな顔をしてアムロのベッドに飛び乗るとしがみついて来た。……困った、こんなことになるならやはり医者を呼んでおくべきだった。不安が適中した。明らかに尋常では無い様子のシャアは、アムロにしがみついたままガタガタと震えている。
「……大丈夫か。……嵐が恐いのか?」
 そんな単純な恐怖では無いような気がしたが、とりあえずなだめようと思ってその背を撫でた。……これまでも何度もシャアにはしがみつかれていたが、真夜中のベッドの上となるとさすがに同じ男としては気恥ずかしい。しかし、しばらくそうしているうちに明らかにシャアが落ち着いて来たので、アムロは薬を取りに行く事にした。
「そうだ、シャア。……鎮静剤があったはずだよ。確かリビングの棚の上にあるから、」
「アムロ!」
 ところが、アムロが僅か身体を離そうとした瞬間に、シャアが今まで聞いた事もないような悲鳴をあげる。そして更に強く、アムロに抱きついて来た。……それまで顔を伏せていたので気づかなかったのだが、シャアはひどく泣いていた。
「……」
 おかげで、アムロは本当に身動きが取れなくなってしまった。……シャアは何に怯えているんだ。なんで、なんでこんな事になってしまったんだ。……なんで、
「……シャア……頼むよ、戻って来てくれよ……!」
 アムロ自身も、おそらくこれまでで一番辛かった。……こんなシャアは見たく無かった。こんな子供そのもののようになって、嵐に怯えて泣き出すシャアなんて。それは今までもぼんやり思っていたことなのだが、この晩ほどそれを痛感したことはなかった。ああそうだ、見たく無かったんだ。だから元に戻ってくれれば良い、そう思いながらこれまで必死に面倒を見て来た。……そうだったんだ。それなのに。
 だが実際にはどうだ。……なんと自分は無力なのだろう、面倒を看ている、などという発想自体がおこがましかった。望まれたので側にいるが、これでは俺なんか居なくても同じだ。
「……シャア……」
 シャアを助けたいのか、それとも自分が辛いから、名前を呼ばれ続け、請われ続けるのが辛いからこうしているのか、もうアムロにも良く分からなかった。分からなかったが、ただ今は辛い。そう思って、泣きたいような笑いたいような気持ちになって思わずシャアに口付けた。
「……アムロ?」
 その行為自体が何なのか分からなかったからだろう。シャアは、驚いたような顔をして泣き止んだ。ここに紙とペンがあったら「今のはなに?」と間違い無く聞いて来ただろう。しかし、しばらくしたら今度は面白そうに自分から顔を寄せて、アムロの唇を舐めてきた。
「おい、こら。……こら、犬じゃあるまいし。……ああ、分かったよ、もう今日は一緒に寝よう。な?」
 その行動にさすがにアムロは吹き出した。……気が付けば、シャアの震えも治まったようだ。そこでアムロはポンポン、とベッドを叩いた。
「横になるんだよ。」
「アムロ」
「大丈夫だから。」
 大の大人が二人で眠るには、さすがにベッドが多少小さかったがその晩はそれがちょうど良いサイズだった。横になると当たり前のように、シャアが腕を回して抱きついてくる。アムロもシャアに腕を回した。……互いの心臓の音が聞こえるような近くにいると、何故か不思議に落ち着く気がする。
 嵐はまだ止まない。
 時々雷の光が差し込むリビングのテーブルの上には、壊れた模型飛行機がぽつんと置かれていた。



 ゆらゆらゆら。……揺らぎにはさまざまなものがあるのだと知った。自分の周りは水に囲まれているようで、その世界にはアムロしかいない。
 ゆらゆらゆら。……普段その世界は、そう恐ろしいものではない。ぼんやりとしか辺りは見えないが、アムロがいれば大丈夫だ。
 ゆらゆらゆら。……そうして前より世界のゆらぎが少なくなっているように思った。そして気づいた。
 これはなにか、大きな容れ物なのではないだろうか。前に庭にあるパプリカをずっと眺めていたら、アムロが笑いながらコップを手渡してくれたことがあった。水をあげてみる? と言っていた。私がどうすれば良いか分からずに立ち尽くしていたら、こうするんだよ、とアムロがコップに半分ほど水を入れて戻ってくる。そして庭まで二人で歩いていって、パプリカに水をかけた。
 あの時、歩いてゆくアムロの手の中でコップの中の水はゆらゆらゆれていた。
 だから私の世界は、ああいう風に揺れているんじゃないかと思った。
 この世界は水の入った容れ物だ。
 もうすぐきっと、水は容れ物にいっぱいになる。
 そうしたら揺れはおさまるんじゃないか。
 もう無理にひっくりかえされるような、あんな揺れは嫌だ。とても恐い。アムロがいなかったら、アムロが押さえてくれなかったら、きっとコップはひっくりかえっていた。そしてまた最初からやり直しだ。
 ゆらゆらゆら。……アムロの腕の中はとても心地が良いものだと知った。



「……酷い嵐だったわね。」
 次の日、朝早くにセイラが様子を見に来てくれた。アムロは既に起き出していたが、シャアは昨晩の一件でやはり精神的に憔悴したのだろう、まだベッドで眠っている。
「……あぁ。」
 アムロ自身もやや寝不足であったので、ぼんやりとした返事を返してしまった。そして何の気無しに、庭先を見つめていた。窓の正面、庭の端に小さな家庭菜園が見える。嵐の中でパプリカが無事だったことに妙な安心感を憶えた。
「シャアはまだ寝ているよ。……セイラさん、ちょっといい?」
「ええ、何かしら。」
 ソファの方へ視線をやるとセイラがそれに従ったので、アムロも隣に座り込んだ。
「シャアは、嵐に一度も遭ったことがないとか、そういうことはある?」
「兄が? ……一度もということは無いんじゃないかしら、確かにコロニーには無い天気だけれど、地球に住んだ事が無い訳ではないのよ。良くは憶えていないけれど、あの数年の子供時代に地球で一度も嵐が無かっただなんて思えないわ。」
「そうだね。……そりゃそうだ。」
「兄は昨晩どうかしたの?」
 今度は逆にセイラが聞いて来た。アムロは一瞬、素直に話すかどうか迷ったが、実の兄が嵐を怖がって泣き出し、添い寝してやらないと駄目だった、というのはあまり良い話には思えない。
「どうも、嵐が駄目みたいだ。……それで薬を飲んで昨晩は寝たよ。一度医者に来てもらった方がいいかもしれないな。」
「……お医者様に。それはどうして。」
 セイラの疑問は至極尤もだった。
「つまりね、こうは考えられないかな。……シャアは記憶を失い、ニュータイプ能力すら失い、いままで周りのものにほとんど興味を示してこなかった。……俺以外は、だ。何故か俺には愛着を感じているようだ。ところが、今回嵐を嫌った。何かを嫌うと言う事も、初めてみせた感情なんだよ。何かあるような気がしないか。」
「……そう言われればそうね。」
「俺は精神科医じゃないから詳しくは分からないけどね。……どこかにキーワードが有るんじゃ無いかな。……そうか、ひょっとしたら水かな、」
 アムロは庭の更に向こう、木立の合間から見える海に気づいてそう言った。
「水?」
「うん。……そういえば海の事は逆に大好きだ、そう見える。毎日必ず見に行きたがるし……」
 そこで会話は途切れて、しばらく二人は何も言わずに海を見つめていた。



 ゆらゆらゆら。
 あのひっくり返るようなひどい揺れは治まって、世界はまたぼんやりと揺れていた。
 ……アムロの匂いがする。
 ゆらゆらゆら。
 穏やかに世界は揺れ続けている。













2009.02.01.




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