毎日が楽しかった。アムロとずっといっしょにいて、目の前には大きな水色が有る。「うみ」だ。相変わらず世界は揺れていたが、アムロだけは鮮明だった。大きな水色は、揺れる自分の世界と同じだけ、波を寄せては返す。……その感覚が心地よくて、だから「うみ」が大好きだった。
「エーゲ海だよ。」
 アムロが名前を教えてくれた。その浜辺を、毎日午後にアムロと歩く。
「……アムロ!」
 水の中に膝ほどまで行って振返ると、アムロはいつも白い砂浜の上で笑っている。どうしてこっちにこないのだろう。どうしていっしょに来ないのだろう。
「あ……」
 ……こっちに来いよ。そう言いたかったのだが、言葉は咽から出て来てはくれなかった。……どうして自分は話せないのだろう? それが辛かった。思わず、水の中で立ち尽くした。
「……シャア?」
 急に動かなくなった自分に驚いたらしく、アムロが水の中まで入って来る。
「シャア、どうした? どこか具合が悪いのか。……シャア?」
 アムロが目の前まで来た。自分より少し背の低いアムロが、心配そうに見上げている。
「……アムロ」
「どうした。ほら、動けるか?」
 アムロが腕に触れた。次の瞬間、私はその腕を自分からきつく掴み直していた。
「……シャア?」
 良く分からない。……良く分からない、でも行かないで欲しい。
 ……気づけば、必死でアムロにしがみついていた。
「……シャア……?」
「……アムロ……」
 それだけしか言えない。……だからそれだけ言った、心を込めて。



 三日に一度、アムロが兄を夕食に連れてくる。……それは別にセイラが強いたわけではないのだが、アムロは生真面目に夕食時になるとコテージからやって来て、本宅の扉をノックするのだった。
 ……アムロが嫌いなわけではない。むしろ、どちらかと言ったら好いている。まして、兄を嫌いなわけがない。
 ただ、どうして今、自分達がこうなっているのか分からない。
 目の前には、鮮烈に美しいエーゲ海の海原が広がっている。
「……では、本日の御夕食はフレンチでよろしいでしょうか。」
「……えぇ。」
 気が付けば使用人に何か問われていた。セイラは辛うじて返事をした。
 ……目の前には、鮮烈に美しいエーゲ海の海原が広がっている。浜辺が見える。そしてその浜辺の片隅で、兄がアムロを抱き締めているのが見えた。
 ……何故、今、こうなっているのか分からない。……セイラはゆっくり瞳を閉じた。



 午後の散歩で何故かシャアに強く抱き締められた。……アムロは混乱していた。確かにシャアは、自分と離れるのを極端に嫌がる。料理をしていても、風呂に入ろうとしても、隙有らば自分に付いてこようとする。……どうしてだろう。何故なんだろう。
 何故なんだろう。……何故、全てを忘れたシャアは自分を選んだのだろう。
 それが、アムロには分からなかった。カミーユでも良かったように思う。もちろんブライトでも、セイラさんでも。なのに何故か自分だ。
 海に入ったので身体が汐臭かった。それでシャワーを浴びようとしたのだが、やはりシャアが一緒に入りたがる。今日は、三日に一度のセイラさんと夕食を共に食べる日だ。アムロ、アムロ、と言い続けるシャアをとりあえず待たせて、先にシャワーを浴びた。浴室から出ると、信じられないことにシャアが膝を抱えて戸口に座って待って居た。
「……アムロ……」
「泣く事はないだろう。……ほら、シャアもシャワーを浴びろよ。」
 嫌だ、というようにシャアが首を横に振った。
 ……何故なんだろう。何故、全てを忘れたシャアは自分を選んだのだろう。
 ……何故アムロは、全てを投げ打ってまで兄と一緒に過ごそうとしてくれているの?
 ここに来た日、セイラに言われたことを唐突に思い出す。……本当に何故。それは、俺が自分で導き出さなければならない結論だ。頭の奥底で、妙にひっかかっている何かはあった。しかし、それが上手く思い出せない。遥か昔、一年戦争の頃にシャアと交わした会話の破片だったような気がする。そこまでは分かっている、思い出している。……しかしそれが本当に解決の糸口なのか、その自信が無いままに、戸惑っている自分がいる。
 正確にはシャアは泣いていなかった。泣きそうな顔で戸口にいただけだ。腰にタオルを巻いただけのアムロは、仕方が無いのでシャアの服を脱がせてもう一回浴室に入った。
「……なあ、我が儘を言うなよ頼むから。」
「……アムロ」
 埒があかないな。
 強引にシャアにシャワーを浴びさせると、本宅の夕食に間に合うギリギリの時間に、コテージを飛び出した。



 ただアムロがいればいいと思っている。他には何も入らない、だけどそれを伝える言葉が無い。
 何故かアムロ以外の人と、食事を食べないといけない時がある。
 でも、私はアムロしか見ない。ゆらゆらと揺れる世界で、そこだけ揺るがないからだ。
 兄さん、と自分の事を呼ぶこの女性はなんなのだろう。とりあえずその呼び方はこの人間しかしない。
 でも、アムロ以外に興味が無い。
 だから自分は適当に返す。頷いたり、首を振ったり。
 ゆらゆらゆら。
 その人は少し遠くから、自分達を奇妙に見つめている。
 ……私とアムロしか居ないこの世界はそんなに奇妙か?



「……今日は?」
「あぁ。シャアを引き取ると言った手前、ニタ研のモルモットになりに行かないといけない日だ。後はよろしく。」
「……よろしく言われても、兄は泣き叫ぶわよ。」
「珍しくていいんじゃない、泣き叫ぶシャア・アズナブルとかって!」
 アムロは陽気に片手を上げて邸宅の表門を出て行ったが、セイラは週に一度のこの日が苦痛でならなかった。
 兄がアムロしか求め無いのは確かに辛い。そして、それになんとか答えようと、自分の身を軍の研究材料として捧げたアムロはむしろ痛い。
 ……痛いのよ。誰か何とかして。今もきっと、世界中で戦争が続いているというのに、達は奇妙な三角形を描いて、いったいここで何をしているのだろう。
「……兄さん。」
 アムロに捨ておかれた兄は非常に不機嫌に見えた。表門の脇で膝を抱えていじけている。
「……アムロ……」
「アムロは出かけたけど、夕方には戻るから。……ね、家に戻りましょう。」
 しかし兄は子どものように、アムロが出て行った門を睨み続けて動かない。
 ……私は仕方なく、レジャーシートとサンパラソルと仕事の道具……つまり、金融関係、投資に関わる全ての書類を兄の脇に持ってくるとそこで広げた。
「……」
 兄は何ごとだと思ったらしく、自分の方を覗き込む。
「ここでアムロを待ちましょうね、一緒に。……夕方には戻ってくるから。」
 ここで、と言っても庭先だ。使用人達にはさぞ奇妙に見えた事だろう。しかしそう言うと、兄は安心したらしく、レジャーシートの上にごろりと横になる。
 ……こんな生活を始めてもう一ヶ月になる。
 自分達は、どこに行こうとしているのだろう。……隣に横たわっていた兄が本当に眠り込んでいることに気づいて、地中海の日射しを避けられるように私はタオルケットを上に広げた。……ああ、馬鹿みたい。
 馬鹿みたいに兄が好きなのね、私達。……そう思うでしょう、アムロ。



 アムロがいなくなる日がある。
 どうしてかわからないけど、アムロはその日になると門を出てゆくのだ。私はそれが嫌でしょうがなかった。揺れる世界にはもう慣れた。だがアムロが居ないと、その揺れに耐えられないのだ。
 その日もアムロが居なくなる日だった。
 私の事を兄さんと呼ぶ女性が、ここで待ちましょうね、というので仕方なく待とうかと思った。
 それで、瞳を閉じた。……薄れていく意識の中で、誰かが自分にタオルケットを掛けてくれるのを感じた。
 ……何故? 薄ぼんやりとした世界は相変わらずだったが、さすがに自分に問いかけた。
 ……何故? 自分は、酷く周りの人間を傷つけているのでは無いか……?



「……うっわ、何で二人ともここで寝てんの……?」
 ニタ研の拘束から解き放たれて戻って来たアムロが見たのは、信じられない光景だった。
 屋敷の門を潜ったすぐの所で、非常に見目麗しい兄妹が眠りこけている。……それだけで十分だった。それだけで、自分が実験体として今日扱われた事実など何処かへ消え去る。
「……シャア……セイラさん。起きてってば。」
「……ぅん……」
 セイラさんの方が幾分か先に目を覚す。
「……あら。おかえりなさいアムロ、寝てしまっていたのよ……」
「それは見れば分かるけど。」
「……アムロ!」
 次の瞬間には、シャアも目覚めた。そして、嬉しそうにアムロに抱き付いてくる。苦笑いしながらアムロも返した。
「……ただいま。」
「……ねえ、二人とも、今日は約束の日じゃないけど夕食にらっしゃいな。来なきゃ怒るわよ。」
「はい、セイラさん。」
 アムロは苦笑いしながらそう答えた。……四月のエーゲ海の風はことさらに心地よかった。



 二ヶ月ほどシャアと一緒に過ごして、幾つか気づいたことがある。
 まず、シャアは素足で歩くのが好きだ。室内だけでなく、浜辺でもすぐに靴を脱ぎたがるから昔からそうだったのかな、と思ってアムロは聞いてみた。
「……そんな記憶は無いわね。」
 首を捻りつつセイラはそう答える。地中海に降り注ぐ太陽の、少し日射しがきつくなり始めた五月の事だった。
「記憶に有る限り、兄はいつもきちんとしていたわ。……ズムシティに居た頃も、地球に身を寄せていたころも。一年戦争の最中に久しぶりに会ったのだけれど、その時にもそのままの印象だったわ。……周りの人間に隙を見せない人、というのかしら。そういう感じよ。」
 しかし実際、今もシャアは裸足でぺたぺたと、自分とセイラの座るソファの周りを歩き回っている。セイラの好きな時にいつでも、コテージを訪れるよう言ったのはアムロだ。セイラはどこか遠慮していたが、たとえ自分の事しか分からないシャアであっても、たった一人の兄なのだろうから会いたい時に会って欲しかった。
「……アムロ」
 すると、セイラとばかり話をしているアムロに苛立ったのだろうか、ソファの後ろからシャアが抱きついてくる。
「……あと、やたら俺に触りたがるんだけど。そういうスキンシップ過多な感じはあった?」
「そういう記憶も無いわね。……非の打ちどころなく、一人で立っている人間が兄、と私は思っていたの。でも思ったのだけど……兄はそんな子供の頃に、出来なかった事を今、全てやっているのでは無いかしら。」
「……子供の頃に出来なかった事?」
 アムロが不思議そうにそう聞くと、セイラは言葉を選ぶようにこう答えた。
「……父が……父が生きていた時は、跡継ぎとして子供らしい生活などまるで出来なかったんだと思うわ。裸足で家の中を歩き回るとか。ささいな我が儘を言うとか。」
「……」
「父が亡くなったあとは、もっと出来なかったと思うの。……誰かに頼り、甘えることなんて。ザビ家打倒しか考えていなかった兄は、自分の弱さについて考える余裕すら無かったと思うわ。でも今は、そんなしがらみは何一つ無いでしょう。」
「……」
 アムロは黙って、セイラの言う事を聞いていた。首にシャアの腕を巻き付けたまま。
「……だから兄は、今、本当にやりたい事をしているように見えるの、私には。」
「セイラさん……」
 それで、その選択の果てに選んだのが自分では申し訳なさすぎる。……そう思ってアムロはセイラに声を掛けたのだが、セイラは分かってるわよ、と言わんばかりに笑ってみせた。強い女性だ。
「今日はもう帰るわね。……ねえアムロ、兄を許してやってちょうだい。」
 許すって。……許すってなんだ。別にこれまで特別に虐げられた記憶も無い。戦場では敵同士だったが、互いの所属上仕方の無い事だった。その関係性に疑問を抱いた事もない。たった今、シャアにひらすら請われるている自分というのは確かに不思議な感覚だったが。むしろシャアに許しを請うべきなのは自分では無いのか。ララァを殺してしまったのだから。
 ……ララァか。そうだな、ララァだったら何故今こんなことになっているのか分かるのかも。
「……アムロ?」
「シャア。」
 黙り込んでしまったアムロにシャアはしがみつき、そして頬をすり寄せて来た。……馬鹿、男同士は普通こんなことしやしないんだよ。アムロは苦笑いしながらシャアの髪を撫でる。
 そんな二人の頭を両方優しく撫でてから、セイラは静かに部屋を出て行った。



 アムロがコテージの軒先の土を掘り起こし、様々な植物の苗を植えるのを不思議な気持ちで見つめていた。
 ……ゆらゆらゆら。相変わらず世界は揺れているが、アムロが目に入ればそれも落ち着く。
「……家庭菜園とかって、シャア、やったことある?」
「……」
 私は首を横に振った。『家庭菜園』が何なのかも分からない。しかし泥まみれの顔で庭の土を掘り返すアムロは見ていて面白かった。
「実は俺もやったことはない。だからこれはかなりの冒険だ。地球で無いと出来ない贅沢な事とも言えるな。……あのね、ここで苗を育てるんだ。トマトとかズッキーニとかパプリカとか。ハーブも植えようかな、バジルとかミントとか。そうしたらね、数カ月後にはいろいろ収穫出来る予定なんだ。理論上はね。あくまで理論だ。モビルスーツの設計のようにはいかないだろうと思うよ。でもそれでさ。自分たちが育てたもので御飯が作れたら凄いと思わない? まあたいしたもん作れないから、また多分パスタだろうけどさ。」
「……」
 分からなかったが今度は首を縦に振った。アムロが凄いというからには、凄い事なのだろう。
「……シャア、本当に凄いと思ってる?」
「……」
 私はもう一回頷いた。アムロは苦笑いをした。
 ……なんで。そんな風に笑って欲しかったわけじゃないのに。
 ゆらゆらゆら。……揺れる世界には私達しかいない。
 少なくとも、自分にはアムロしか見えない。
「……なあ。どうして元に戻らないの……」
 アムロが珍しく、自分から手を伸ばして私に触れて来た。……苦しそうに、その両腕を自分に回す。
 ……ゆらゆらゆら。
「……アムロ」
「……うん、分かった。午後は海に行こうな。」
 そう言って、アムロの身体が自分から離れていく。
 嫌だ、と思った。海には確かに行きたかった。それより、アムロと離れたく無いのに、それを伝えられない自分が嫌だった。……何故。
 ……何故自分は言葉を失ってしまったのだろう。他に、どうにかして思いを伝える術はあっただろうか。













2009.01.28.




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