「……シャア。」
 その日も……思えば、初めて出会った日からさほど経っていないのかもしれないが、アムロは病室に来てくれた。
「アムロ」
 嬉しくて、つい自分は微笑む。アムロの姿だけは、ゆらゆらとした水の中でもはっきりと見える。するとその日は、自分の頭を撫でながら、アムロがこんな事を言った。
「さあ、行こう。……地球へ行くんだよ。一緒に来てくれるよな?」
 そうして、手を差し伸べられた。……もちろん私は喜んでその手を取った。
 このぼんやりとした世界には、アムロとそれ以外しか無い。



「……カミーユに会って行きたい。」
 車椅子に乗ったシャアと一緒に、病室を出たアムロはそう言った。二人を見送ろうとしていたのは医師ではなく、あの線の細い強化人間の男だった。
「……いいんですか。……どうなるか分かりませんよ。」
「……ああ、分かってる。俺が出来るだけ中和する。」
 そんなことが出来るのかどうか自分でも分からないけど。ともかくアムロがそう言うと、彼は諦めたように頷き、二人をシャアの病室の幾つか先にの、カミーユの個室へと案内してくれた。



 既にアーガマはシャングリラを出港していた。カミーユにずっと付き添っていたファ・ユイリィも、カミーユが気がかりではあっただろうが、艦と共に一時その場を去っていた。
「……凄まじいプレッシャーだな。」
「これでも、アーガマにいた時よりは……つまり、メールシュトロームの直後よりはマシなんですよ。アーガマで一体何があったのかは知らないですが、ここに来た時はプレッシャーが半分くらいになっていて……」
「これで?」
 言いながら、アムロはカミーユの病室に入った。……凄まじい、としか表現しようが無い。此処にいるのは『一人』じゃない。何人分もの意識がここにはある。……こんなもの全てを受け入れて、人がまともであるわけがない。カミーユはベッドの上に起き上がらされていた。しかし、その瞳には何も映っていない。
「……カミーユ。お別れを言いに来た。」
 届かないのは分かっていたが、それでもアムロはそう言った。
「……俺は、シャアと一緒に行く。」
 そう呟いてから、シャアの車椅子を部屋の中に押し入れた。
 ――その時、最初の奇跡が起きた。
「……カミーユ?」
 最初に気づいたのはアムロだった。……カミーユの瞳はまっすぐに病室の壁を見つめたままだったが、しかし彼は静かに泣いていた。
「……おれ、が……」
 誰か! と叫びながら強化人間の男が病室を飛び出して行く。
「俺、が……俺が全て受け入れてしまったから……俺が全て使い果たしてしまったから……っ」
「……カミーユ。」
 何とか慰めたかったが、アムロにも方法が分からなかった。……カミーユはただ泣いている。シャアを見ると分からない風で、ただアムロを見上げていた。
「……だから、大尉は……!」
「……シャア。これはカミーユ。分からなくてもいいんだ、友達だよ。」
 アムロはシャアの手を取ると、カミーユの手に触れさせる。
「……」
 シャアは何か言いたそうに、アムロを見る。
「……そうだな。……暖かい手だね。」
「……」
 カミーユは泣き続けている。その虚ろな瞳はやはり何も映していない。それとも、他の人には見えない何かが見えているとでもいうのだろうか。シャアはアムロを見上げ続けている。ニタ研のメンバーが飛込んで来た。……騒がしくなった病室からから逃げるように、アムロはシャアの車椅子を押して宇宙港へ向かった。



 ぼんやりとした世界の中で、アムロに出会った。
 ゆらゆらと揺れる水の底で、アムロに出会った。
 アムロ、と彼の名前を呼ぶと、心がざわめいた。
 他に何もいらない。他に何もいらない。
 そう思っていたら、彼が来て手を差し伸べてくれた。
 さあ、行こう。……地球へ行くんだよ。一緒に来てくれるよな?
 もちろん。……そう思ってその手を取った。
 アムロがどこかへ自分を連れてゆく。
 その先には、また知らない人間がいた。
 その人は自分の方を見もしないで、ずっと泣いている。
 どうして? と思ってアムロを見た。
 アムロは不思議な顔で微笑んでいた。
 そうして、自分の手を泣いている彼の手に重ねる。
 ……暖かい手だ。そう思った。……アムロの手と同じくらい暖かい手、だと。
 ……だけど彼が誰なのかは、やはり思い出せなかった。



 ハヤトにしばらくカラバに戻れない、と告げたら案の定激怒された。
『どういうことだ! 今がどういう時か分かっているのか!』
「ああ分かってるよ、けどこっちにもこっちの都合ってものがあるんだよ!」
 アムロも思わず怒鳴ってしまった。……すると、しばらく考えた挙げ句にハヤトがこう言う。
『……ベルトーチカはどうするんだよ。』
「自分でちゃんと連絡を入れる。」
『……今何処にいるんだよ!』
「セイラさんのところ。」
『……』
 これには、さすがにハヤトも黙った。……何かあった、ということは察したらしい。
『……後で理由は聞かせてもらえるんだろうな。』
「多分な。……全て無事終わるよう祈っておいてくれ。」
 その後、ベルトーチカとも凄まじいやりとりを交わしたのだが、それについては言明を避ける。あまりに個人的で赤裸々な内容だからだ。ベルトーチカが嫌いな訳では決してない。ただ、今はそれ以上に、シャアの側にいたいだけだ。
 ……馬鹿だな、俺は。アムロは心からそう思った。



 セイラの屋敷はエーゲ海の畔にあった。地中海はある程度内海なので、環境汚染もそれほど進んでおらず明媚な風情だ。気候は温暖で、空気はからりとして心地よい。延々と連なるオリーブ畑の奥深くに、その屋敷はあった。
「どうぞ。」
 先に地球に戻っていたセイラの出迎えは冷ややかなものだった。……分からないでもない。たった一人の兄なのだ。本来なら自分一人で引き取って、あれこれ世話をしたいに違い無い。
「お邪魔します……」
 少し溜め息をつきながら、アムロはその屋敷の門を潜った。……いかにも地中海風の、白い壁と赤い屋根の大きな邸宅があってその向こうには綺麗な海が見える。屋敷の庭にもオリーブの樹が沢山あった。
「……凄いな。」
「そう? ……兄の残した……いえ、父の残した資産のおかげよ。」
「そう。」
 改めて、シャアもセイラも普通の人間では無いのだな、と思い知る。
「……ねぇ。」
 言いながらセイラは、どうやら敷地内にあるゲストハウス……いわゆるコテージに、二人を案内しようとしてくれているらしかった。
「……兄に拒まれたのは辛いわ。だけど、兄がアムロのことしか認識出来ないのなら、仕方ないかなとも思うの。でも、何故? ……何故アムロは、全てを投げ打ってまで兄と一緒に過ごそうとしてくれているの?」
「……」
 核心だな、とアムロは思った。……核心を突いた問いであるが故に、逆に答えづらい。
「……その理由が分からないから、」
「?」
「今ここに、俺はいるんだ、って言ったらセイラさんは怒りますか。」
「……」
 セイラは何も答えなかった。しかしその時、なんとも言えないタイミングで車椅子に乗ったままのシャアが呟く。
「……アムロ」
 嬉しそうな顔をしていた。……そして海を指差す。
「……あれは、海だよ。……う、み。分かるか? 後で行ってみる?」
「アムロ。」
 その様子に、セイラはこれ以上道案内をする気すら失せた様だった。
「まっすぐ行けば、コテージの玄関に着くわ。後はもう、二人で行って。」
「……ありがとうセイラさん。……もう少ししたら、きちんと話すから。」
 セイラから鍵を受け取った。彼女は無言で、屋敷に向かって立ち去って行く。
 アムロはもう一度、深い溜め息をつきながら、コテージの扉を開いた。



 ふわふわと浮くような感覚が合って、ゆらゆらと世界は揺れていて、でも視線を巡らすといつもアムロの顔が隣にあった。目が合うと笑ってくれる。どうした? とその度に聞いてくれるので、嬉しくて仕方なかった。言葉は出ないけれども。ずっと一緒だと思うと、このぼんやりとした世界もそう悪くはないと思えた。何よりアムロだけははっきりと見える。
 気が付くと、大きな水色が見えた。……あれはなんだろう、ここは何処だろう。嬉しくてまたその名前を呼んだ。
「……アムロ」
「……あれは、海だよ。う、み。分かるか? 後で行ってみる?」
 意味は分からなかったがとりあえず頷いた。アムロは困ったように笑う。
 そうして、ずっとアムロと一緒の生活が始まった。



 屋敷が広大なだけあって、その一角に有るコテージもそれなりに広かった。大した量は無かったが荷解きをして、俺とシャアの不思議な生活が始まった。0088の、三月中頃のことだった。
 シャアは相変わらず言葉は話せないようだ。しかし身体の方は、ほぼ元通りに見えた。ここまでは車椅子で運んで来たが、別に歩けないわけでもない。意識が戻ってからしばらくの間は手足が自由に動かなかったようだが、筋力も戻って来ているようだった。
「……アムロ」
 そして、いつしか車椅子から立ってぺたぺたと歩き回るようになった。それも何故か俺のあとに付いて回って。
「……シャア、危ないから……」
 自分よりも年上の、体格も大きな男が自分に付いて回るのは不思議な感覚だったが、もう仕方のないものとして諦めた。しかし、なけなしの腕で料理を作っている時などに背後に寄られると少し恐くなる。
「あそこで待っていて。ほら、あそこのソファ。分かるだろ?」
「……アムロ」
「はいはい、ここに居ますよ。」
 セイラに頼めば使用人に三食用意してもらえることは分かっていたが、これ以上の迷惑をかけたくない。ただでも彼女のプライドをひどく傷つけている。それでも兄と共にいる事を望んだ、彼女の気持ちを無下にはしたく無かった。
「……まあ、いつも似たようなモンで悪いんだけどね。今日のお昼はカペッリーニ。少し暑いから冷製にしたよ。」
 アムロが簡単なパスタと、それからサラダを持ってリビングに入ると、シャアは無心に海を眺めていた。
「……シャア。」
「アムロ」
 嬉しそうに彼が振り返る。……これがもし「アムロ」じゃなくて「アルテイシア」だったら、随分話は簡単だったのにな、とアムロは苦笑いした。
「シャンパンも飲む? ……午後は海に行く? 海が好きだな、シャアは。」
 シャアはテーブルの向側に座って、嬉しそうに食事を食べている。
「で、海に行く?」
 シャアが頷いた。……こちらの言う事はほとんど理解出来るらしいので、余計話せないのは辛いだろうにな、と思う。時々酷く何かを言いたがっているような瞬間があって、紙とペンを渡すと必要な単語だけを書き付けてくる。『どこに行くんだ』『寒い』『あれは何』。
 ……かつて必要以上に分かり合えた相手とはとても思えない。
「……あ、味が薄かった?」
 シャアが塩の小瓶を取ろうとしているのに気づいてアムロがそう言うと、シャアが笑いながら頷いた。……こうしていると、相手が記憶喪失にはとても見えなくてアムロは困る。……というより、記憶喪失にならなかったらそもそもこんな生活はしていない訳だけれど。みると、さっさと昼食を食べ終えたシャアはもう海が気になって気になって仕方ないらしい。コテージの前の坂道を少し下ると、すぐにプライベートビーチに出る。しかもそれは真っ青なエーゲ海だ。食器を食洗機につっこみながら、アムロはまたセイラさんに申し訳なく思った。













2009.01.27.




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