「……恨むぞ。」
 ホテルを取ろうか、と聞いたのだが「艦でいい」とアムロが言うので、ブライトはアーガマに向けて車を走らせている所だった。実に不機嫌そうに、アムロは助手席で腕を組んでいる。
「何を。」
「……なんでシャアがああなってるって、先に教えてくれなかったんだ。」
「説明出来なかったからだ。」
「……」
 私がそう答えると、アムロはもうそれ以上何も言わなかった。窓の外を少しけばけばしい、シャングリラの夜景が流れてゆく。
「……あれはシャアか。」
 痛いほどの沈黙の後、私がそう聞くと驚いた事にアムロは首を横に振った。
「いや、あれはシャアじゃない。」
「じゃあ、なんだ。」
 よほど考えてからアムロはこう答えた。
「……ぬけがら、かな。」



 何故こんなにも不安になるのか分からなかった。アムロ、呟き続ける自分に、周りの人々が呆れ果てているのを感じる。でも、とても我慢出来ない、心細い。
「……アムロ……」
 ゆらゆらと揺れる世界に、自分の涙が落ちる音を聞く。
 ……水の中のようなのに、何故更に水音がするのだろう。
 他に欲しいものなど何も無い。……ただもう一回、あの声が聞きたい。



「……カイさんに連絡を取ってくれないか。」
 次の日、起き出して来たとたんにアムロがそう言った。ブリッジでそれを聞いたブライトは、どうしたものかと考える。
「何故。」
 アムロが唐突に現れた事で、アーガマはやや浮き足立っていた。殆どは『あのアムロ・レイが補充要員としてエゥーゴに加わるのではないか』という楽観的予測に基づく空騒ぎだったが、そうならないことは当のブライトが一番良く知っている。
「シャアがあの状態である以上……『身内』を呼ぶべきだ。セイラさんにここに来てもらうよう、カイさんに伝言を頼めないか。」
 その言葉を聞いて、アムロがセイラの居場所を知っている訳ではないのだな、とブライトはうっすら思った。
「……分かった。」
 それだけ答え、ブライトはカイ・シデンに向けて連絡を取る。彼ならこのグリプス戦役の間も、頻繁に連絡を取っていたからなんとか捕まえることが出来た。



 アムロは出来うる限りシャアに会いに行った。……周りを、何か言いたげなニタ研の奴らが取り囲んでいることは分かっていたが、そんなことはどうでも良かった。
「……シャア?」
 病室の扉を開くと、シャアが実に嬉しそうに自分を振り返る。そして、上手く動かない身体で、アムロの方に手を伸ばすのだ。
 ――こんなシャアは知らない。
 アムロは何度も思った。これはシャアでは無いのかも知れない。なのに、かつて聞いた事のある間違いないその声で彼は言うのだ。
「……アムロ」
 しかもそれしか言わない。
 ……アムロ、としか話さない。
 ……どうしろと言うんだ。アムロは天を仰いだ。どうしろと言うんだこの生き物を。ニュータイプで無いのは感覚で分かる。しかも、記憶も無いらしい。となると、彼は本当に『からっぽ』だ。そのまっさらな彼が自分の名を呼ぶのだ。
 まるで彼の世界には、自分しか存在しないのだ、とでも言うように。



 アムロ、が病室にやって来てから三日ほど経った日だった。彼が自分を「シャア」と呼ぶから、だから自分はシャアなのだと思った。
 あの声以外欲しく無い。あの声以外に欲しいものなど何も無い。
「……兄さん?」
 なのにその日は、アムロが表れるより先にそんな声が部屋に響いた。また知らない呼び方だな。
「キャスバル兄さん?」
 それでも自分が呼ばれているのかなあ、と思って、私はぼんやりと戸口を見つめた。
 そこには、やはり見知らぬ女性が一人立っていた。



「……お久しぶりね。」
 唐突に呼び出されたセイラが不機嫌そうだ……というのは、ブライトにもアムロにも痛いほど良く分かった。二人して出迎えたシャングリラの宇宙港で、再会の挨拶を交わす。
「久しぶりだな。」
「お久しぶりです、セイラさん。」
 セイラは相変わらず背筋の伸びた、綺麗な立ち姿の女性だった。過去に少なからず彼女に引かれたことのあるアムロは面白いくらいに緊張していたし、今では世帯持ちのブライトも似たようなものだ。あの頃は、皆がセイラに憧れていた。
「……それで。」
 セイラはそんな二人を見て少し溜め息を漏らしたが、毅然とした態度でこう聞いた。
「兄がどうしたの。」
「……記憶喪失になったんだ。」
 アムロは酷く簡潔に、事実だけを伸べた。
「そう。」
 セイラも酷く簡潔に、それに答えた。



 三人はシャアの病室に向かって歩いていた。ニタ研の連中は相変わらず周りにいたが、アムロもブライトも殆ど無視していて、それはセイラも同じだった。しかし病室に向かって歩きながら、セイラは妙な違和感を憶える。
「……ねぇ。」
「なんだ。」
 ブライトが答える。
「……本当にここに、兄が居るの?」
 ああ、やはりセイラにも分かるんだ。ブライトは拳を握りしめた。
「……セイラさん。」
 病室に入る直前に、アムロがそう言ってセイラに声を掛けた。
「なに? アムロ。」
「頼みが有るんだ。セイラさんが許してくれるなら、だけど。……俺はシャアを引き取りたいと思っている。」
 セイラは思わず言葉に詰まった。……もし、兄が記憶喪失に……ブライトとアムロの言うように記憶喪失になっているのだとしても、だとしたら、だからこそそれは、唯一の身内である自分の役目の筈だ。
「……何を言っているの?」
「見てもらえば分かる。」
 アムロはそれだけを言って、セイラから顔を逸らした。
 ……何を言っているの?



「……兄さん?」
 セイラは、ベッドに横になるその人陰に向かって声を掛けた。
「キャスバル兄さん?」
 彼が振り返る。……ああ、間違いない。兄だ。懐かしくも愛おしい顔がそこにはあった。
「……兄さん?」
 しかし、目の前の彼は反応しなかった。小さく、首を傾げたきりだ。
 記憶喪失だとは聞いていた……だからって。
「兄さん? ……まさか、私も分からないの……?」
 彼は困ったように頷いた。……それから何かに助けを求めるように、部屋中を見渡す。
「兄さん……」
 セイラはたまらずに、ベッドの上に身を乗り出して兄の身体を抱きしめた。しかし、反応は無い。困ったように彼の視線は宙を彷徨っている。
「兄さん……っ」
 そのとき、ガラリという音がして病室のドアが開いた。
「……セイラさん。……シャア。」
 アムロだった。それは至極控えめな声だった。……しかし、その声にシャアが反応した。
「……アムロ」
 とたんにセイラの腕をはね除け、シャアはアムロの方に手を伸ばそうとする。
「……アムロ! アムロ、アムロ!」
「シャア、」
「嫌よ何で! ……なんで私が分からないのに、アムロは分かるのよ、兄さん! キャスバル兄さん!」
 ……後は凄まじい修羅場になった。セイラは今にもシャアを絞め殺しそうだったが、この現状を分かってもらわない限り次には進めない。ブライトもアムロも必死でセイラを引き止め、終いにはニタ研の連中も現れて、病室は戦場のような大混乱に陥った。



「……何故かは分からないんだ。」
 病院の……いつか、ニタ研の男とブライトが話したのと同じ病院の中庭のベンチに、セイラを挟んでアムロとブライトは座り込んでいた。セイラは一向に顔を上げる気配が無い。
「何故かは分からないけど、他には何も話さ……いや、話せないんだ。『アムロ』という単語以外。……それがさっき、俺がシャアを引き取りたいと言った理由だよ。」
「……」
 セイラはまだ何も言わなかった。……そりゃそうだよな。アムロは溜め息をついた。あの頃、随分年上で気丈に見えた女性の肩が小さく震えている。それはひどく弱々しく見えた。
「……私の事も何も憶えていない。……同じように辛かったよ。」
 ブライトがそう言った。しかしセイラはまだ返事をしない。
「……アムロが兄と一緒にいたら、兄は元に戻るの?」
「……それは……俺にも分からないけど……」
 たまらずアムロはセイラの肩を抱き寄せる。……ああ、こんなにも細かったんだな。
「……俺は構わないよ。上手く説明出来ないんだけど……軍人なんか続けるより、シャアも俺も隠居生活でもした方が、よっぽど世間の役に立つような気がするんだよ。」
「何よそれ。」
 自嘲的に笑うアムロに、つられてセイラも笑った。
「……分かったわ。」
 しばらくの沈黙の後に、セイラはこう言った。
「アムロが兄さんを引き取るといいわ。……ただし、私の家にね。」
「どういうこと、セイラさん。」
 アムロは驚く。
「だってアムロあなた、仕事はどうするの?」
「仕事って言ったって……カラバは連邦軍の下請けみたいな組織だから……まあ、辞めるよ、退職金も軍人年金も出ないだろうけど、貯えは少しならあるよ。」
「少しってどれくらいよ。何ヶ月持つの。今彼女とか居ないの。」
「居るけど……別れるよ。」
「意味不明ね。」
 これにはブライトが吹き出した。
「アムロ、セイラが言いたいのはこういうことだろう。アムロがシャアを引き取るのは良いが、自分の目の届く範囲に居てくれ、と。そういうことだ。」
「それくらいは分かってるよ、ブライト!」
 辛くて、切なくて、苦しくて。三人とも涙が出そうだった。……ああ、シャアは。
 シャアは何処へ行ってしまったのだろう。
 このままの方が本人は幸せなのだろうか。
 だが、本能が納得していない。
 アムロの名前しか呼ばず、アムロにだけ手を伸ばすシャアなど。
 それはシャアじゃ無い。
 ……シャアは何処へ行ってしまったのだろう。



 問題はニタ研だったが、意外にあっさりとアムロが説得に成功した。ニタ研の興味の対象は、あくまでもニュータイプとしてのシャア・アズナブルである。しかし、今目の前にいるかつてクワトロ・バジーナだった男は、ニュータイプはおろかシャア・アズナブルとしての記憶すらない。
「……俺が研究所に、ある程度の間隔で出向くよ。」
 アムロがそう言うと、ニタ研のメンバーは驚くほどあっさりとシャアの残骸を手放した。「アムロ」としか話さないからっぽの男を、だ。
「シャアはもういない。……データが欲しいのなら、俺で取ればいい。」
 酷く痛々しい言葉なのだが、ニタ研の連中は無条件で喜んでいるようだった。……ただ、強化人間だという線の細い男だけが、複雑な顔をしてそんなアムロを見ていた。













2009.01.22.




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