「……少しお時間を頂いてもいいですか。」
「……」
 クワトロ大尉の病室から出て来たブライトに声をかけたのは、医師ではなく以前この病院に来た際に話しかけてきた線の細い男だった。同意したわけではないのだが、彼が黙って病院の中庭へと向かうのでブライトも仕方なく付いてゆく。中庭のベンチに並んで腰を掛け、大の大人二人が背中を丸めているのは少し滑稽な風景だった。
「……以前、あなたが『あれは本当にシャア・アズナブルか』と聞いたのは……こういうことか。」
「いえ、違います。」
 驚いた事に彼はそう答えた。
「……少し、感覚的な話になるのですが聞いて頂けますか。」
「……あぁ。」
 ブライトはとにかくショックを受けていた。こんなことなら、クワトロ大尉の意識など戻らなければ良かったのに、と不謹慎なことを考えた程だ。あれは確かにクワトロ大尉なのだが、クワトロ大尉とは言えない。
「記憶の喪失というものは、外的要因でも内的要因でも起こります。その程度も様々で、時間の経過と共に回復する人も多いです。だから諦めないで。……しかし、私があなたに『あれは本当にシャア・アズナブルか』と聞いたのはそういう意味ではありません。」
「……と、言うと。」
 ブライトが先を促すと、彼は無表情のまま続ける。
「上手く説明出来るか分かりませんが……私は『分かる』能力を持って居ます。ニュータイプではありませんが、いわゆる……強化人間です。」
「……あぁ、それで。」
「それで、今回このチームに加えられたのはそういう人間が一人くらい居た方が便利だろうと、そういうことで……ですが、『感じ』ませんでした。」
「……」
 良く分からないがブライトは頷いておいた。
「つまりですね。仮にクワトロ大尉が意識不明でも、記憶喪失になっていたとしても、本来ならニュータイプであるので、ある程度その気配を『感じ』ることが出来るはずなんです。能力は低いと言っても私も端くれです。ニュータイプ同士は、近くにニュータイプが居れば『感応』するものなんです。……この説明で分かりますか。」
「……なんとなく。」
「現に、意識の戻って居ないカミーユ・ビダンからは凄まじい気配を……『プレッシャー』と私達は言うのですが、それを感じます。もう、気味が悪いほどに。何人分かの能力が一人の身体の中に宿っているんじゃないかというくらい、それは強烈な気配です。」
「……で。」
「けれど、初めてクワトロ大尉をアーガマの医療室で見た時に思った。……全く、気配がないんです。」
「それはつまり……」
「えぇ。……あの病室で記憶喪失になっている人は、ニュータイプではありません。ただの人間です。……だから私は聞いたのです。『あれは本当にシャア・アズナブルか』と。」
「……」
 ブライトには返事のしようが無かった。……ニュータイプでは無い。そして人としての記憶もない。……じゃあ一体。
「……どうなるんだ。」
「それは私にも分かりません。」
「ニュータイプだった人間が……ニュータイプ能力を失う、なんてことはあり得るのか。」
「それも私には分かりません。……私は所詮作り物ですから。こういう事例も、かつて聞いた事はありません。」
 それだけ言うと、線の細い男はベンチから立ち上がる。……どうしたらいいんだ。のろのろと、その後をついてブライトも立ち上がった。……どうしたらいいんだ。
「……カミーユに会わせてみたらどうだ。」
「それで、二人共が更に悪化したらどうするんですか。」
「……」
 そう言われてしまっては、もうこれ以上何も出来ないような気がした……どうしたらいいんだ。



 薄ぼんやりとした光が満ちていて、夕暮れ時なのだろうかと思った。夕暮れならば部屋は赤い。なのにゆらゆらと、ここは水の底のような色に染まっている。
「……」
 見渡してみるが部屋には誰もいない。別に構わなかった。知っている人間は誰もいない。とくに何もしたいこともない。起き上がっても良いが起き上がれなくても構わない。
 ……薄ぼんやりとしているのは光じゃない、この世界だ。それに気づいた。



「……どうでした、クワトロ大尉は! 外傷はそれほどでもないんですよね、元気でしたか!」
 艦に戻るなりオペレーター連中にそう聞かれたが、ブライトはまともに返事をする気力も無かった。……どうしたらいいんだ。とりあえず、事実だけを伝えた。
「……戦線復帰はしばらく無理だろうな。……あまり体調が良いとは言えない。」
 そうですか……と皆が沈む中、言い様のない焦りを感じて居た。……どうしたらいいんだ。誰か、答えを知っているものは居ないのか。
「……長! 艦長、カラバから通信です! アウドムラのコバヤシ艦長ですよ、ちょっと艦長!」
 はっ、とブライトは顔を上げた。……待て、一人いる。自分の知っているニュータイプはもう一人いるじゃないか!
「……ハヤト。」
『ブライトか。忙しいところを済まないな。』
「いや、お互い様だろう……どうした。」
『情報交換だよ。宇宙はどうだ。』
 しばらく地球にいるハヤトと事務的会話を交わしたあと、ブライトは切り出してみた。
「……なあ、ハヤト。アムロは今、何処にいる?」
『アムロか? ……今はダカールだな、アフリカ方面を任せてる、急ぎの用事か?』
「ああ、ちょっと。連絡先を教えてもらえるか。」
『分かったよ。』
 ハヤトは苦笑いしながらも、それ以上深くは聞かずに連絡先を教えてくれた。……ブライトは藁にもすがる思いでアムロに通信を入れた。



 アムロがサイド1、シャングリラに到着したのはそれから二日後の事だった。0088、三月三日。
「……本当に、補充でパイロットをしろというんじゃないんだな?」
 宇宙港で再会したブライトに、訝し気にアムロが聞く。
「そんなものは現地徴用でなんとかする。」
「また子どもを使うのか……」
 アムロはひどく機嫌を損ねたらしかったが、それでも出迎えの車に乗ってくれた。そしてそのまま、病院のある市街地に向かう。思えば、こうして生身で顔を合わせるのは一年戦争以来なのだから、もう少し落ち着いて思い出話でも出来れば良かったのだが、事態が事態なのでそうも言ってはいられない。
「……これから何があっても、驚かないで欲しいんだ。」
「なんだよ改まって。」
 前置きをしてから、ブライトはこれまでの事をかいつまんでアムロに説明した。メールシュトロームの最終作戦で、エゥーゴは戦力の半分を失った事。その中には、Zガンダムと百式も含まれる事。意識不明でカミーユとクワトロの二名が収容された事。
「……で。」
 アムロはじっと黙って聞いていたが、それだけをブライトに聞いた。
「……カミーユはまだだが、クワトロ大尉は意識が戻っている。……彼に会って欲しいんだ。」
「俺がシャアに会ってどうする。」
 アムロの台詞ももっともだった。ブライトですらそう思う。……会って、会わせてどうする。
「……他にもう、何も思い付かなかったんだ。」
「……」
 ブライトが唸るようにそう言うと、アムロもそれ以上は何も聞かなかった。小さな溜め息が漏れる。そして車は、滑るように病院の入口に到着した。



「……ブライト。」
「何だ。」
「……本当に、ここにシャアが居るのか?」
 車を降りたアムロの第一声はそれだった。……あぁ、やっぱり分かるのか。ブライトはそう思ったが、返事のしようが無い。
「……アムロ・レイだ。」
 その時、ニタ研のメンバーが病院の扉から飛び出してくるのが見えた。先頭は強化人間だと言う、あの線の細い男である。
「どうしてここへ……」
「私が呼んだ。」
 ブライトはそれだけ説明して、病院の中へ入った。ニタ研かよ……とアムロは舌打ちしている。彼らとは長く付き合いがあったからだ。しかし、カラバへ参加してからは連邦軍内のしがらみとは切れている。むしろ連邦軍の方が、あまりに混乱してアムロ・レイを拘束する力を失ったと言っていい。
「……本物だ。」
 すれ違う時、線の細い彼が少しだけ震えているのにブライトは気づく。しかしアムロは興味が無い様子で、さっさと病院の中に入って行った。
「ブライト。」
「あぁ、三階だ。」
 エレベーターのドアが閉じる瞬間に、ニタ研の連中も慌てて隣のエレベーターに飛び乗るのが見えた。三階に着き、病院内の通路を歩き出す。……すると、アムロがもう一回同じ言葉を繰り返した。
「……ブライト。本当にここに、シャアが居るのか。」
「……あぁ。」
 後ろから近付いてくるバタバタという足音は気にもせずに、ブライトは一つの病室のドアを開いた。



 ドアの開く音がした。……まだ昼間らしく、カーテンが閉められている。窓の方を向いて横になっていたから後ろの扉から誰が入って来たのかは分からない。分からないけど別に構わない。知っている人など誰一人この世には居ないのだから。
「……シャア?」
 今までに聞いた事の無い声が聞こえた。医者でも無い。看護士でもない。……この間来た見知らぬ服を着た男でも無い。聞いた事の無い、だけど甘い声。優しそうな声だな、とぼんやりと思った。
「……シャア? 寝ているのか?」
 誰だろう、肩を揺すられる。それで、やっとそちらを向いてみた。
「……」
 やっぱり知らない男だ。……だけど、その声が心地よい。何故だろう。
「……」
 相手は何を思ったのか知らないが、横たわる自分をじっと見たまま、それ以上何も言わない。なので、私もずっと彼を見ていた。やがて、ふっと彼が静かに笑い、肩に触れた手が離れてゆく。
「……っ」
 その瞬間、自分でも驚くくらいの勢いで彼の服の裾を掴んでいた。
「……シャア?」
 相手も驚いたようで、向こうを向きかけていたのが振り返る。何時の間にか部屋には沢山の人がいて、何故かひそひそ呟き合っていた。
 ……ああ、頭が重い。なんだろう、これは。世界は相変わらず揺れている。私は初めて、それをもどかしく思った。
「……」
 目の前の男はしばらく考え込んでいたようだが、ゆっくりと手を添えて私の手を自分の服から離す。そして代わりに、手をしっかりと握ってくれた。そうしたまま、足で適当に脇にあった椅子を引き寄せている。
「……あなた、起きれる?」
 私は頷いた。この声がもっと聞きたいと思った。何故そんな気持ちになるのかは分からないが。甘くて、少し鼻にかかっていて、そうして優しそうな声だ。私は起きようとしたが、身体はうまく動かなかった。するとこの間来た男と、一人の看護士が手助けをして私を抱き起こしてくれる。
「……シャア、俺が誰だか分かる?」
「……」
 彼は椅子に座り、目線の高さを私と同じにしてからゆっくりとそう聞いた。私は首を横に振った。  
 ……この世界に知っている人は一人も居ないのだ。揺れるこの世界に。
「……そうか。」
 すると彼はじっと私の目を見つめたまま、こんなことを言った。
「初めまして、シャア。……俺はアムロ・レイ。アムロ、だよ。」
「……ア…ムロ…」
 その瞬間、急に世界の焦点が合った。いや正確には、彼に焦点が合ったのだ。相変わらず世界は揺れている。しかし彼だけが、水の中なのに歪まず見える。咽から勝手に一つの言葉がこぼれ落ち、部屋中にどよめきが走った。
 ……何故かなんて知らない、しかし彼の名前だけは話すことが出来る。
「……アムロ……アムロ、アムロ……」
 なに? と彼は聞いてくれていたが、それに返事は出来なかった。他の言葉は話せないからだ。私はひどくもどかしく思って、何度も『アムロ』と繰り返し、彼はその度になに? と答え続けてくれたが、やがて帰らないといけない時間になったようだった。部屋を出てゆく彼に私は付いてゆきたかった。しかし、身体はまったく自由にならず、ベッドから降りようとして私はそのまま床に転げ落ちる。
「……アムロっ」
「明日、また来るから。」
 なんとも言えない表情で、彼は看護士と一緒に私をベッドに戻らせた。
「……アムロ!」
「おやすみ、シャア。」
 一瞬だけ振り返り、優しく微笑んで彼がそのまま出て行く。……私はひどく心細くなった。













2009.01.21.




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