目が覚めたのはアムロの方が早かった。……というより考え込んでしまって、ほとんど眠れなかったのだ。
「……」
キッチンに向かい、水を飲もうとして……考え直して隣にあったシェリーの瓶を手に取った。朝っぱらから酒である。しかし飲まなきゃやってられないと思った。それから、思いついて内線を入れる。
『……アムロ?』
「セイラさん? 良かった、もう起きてた?」
『昨日何か話したいことがあるような口ぶりだったでしょう。……すぐ行くわ。』
聡い女性で助かる。アムロは無言でしばらくリビングのソファに座っていたが、やがて思い直して寝室のシャアの様子を覗きに行った。……良く眠っている。しばらくは起きそうもない。
シャアは元に戻ってなどいなかった。
そんな奇跡のような出来事がそもそもあるわけはないのだが、隣で目覚めた瞬間やはりショックを受けた……記憶、はともかくニュータイプに戻っていたら気配で分かる筈だ。しかし、シャアからは何も感じられなかった。
「アムロ?」
軽くドアがノックされ、セイラが入って来るのが分かった。失礼だ、と思いつつも出迎える元気も無く、アムロは庭を見つめたままソファに座り込んで彼女を待った。
「……朝からお酒なの? 豪勢ね。」
セイラがするり、と隣に座る。顔を見ないで話が出来る事が今は有難かった。
「セイラさん、」
「何があったの?」
二人は同時にそう言った。……そして同じように沈黙した。……セイラに隠し事はしたくない。何より、辿り着いた結論をきちんと伝えないと。そう思って、アムロは深く息を吸い込むと、ハッキリこう告げた。
「――シャアと寝た。」
セイラは一言も答えなかった。そして、息を吸い込んだアムロとは対照的に、大きな溜め息をひとつついた。
「……気持ちの良い話じゃないとは思うけど、聞いて欲しいんだ。昨日の夜、俺はシャアと寝た。……他にもう、何も思いつかなかったんだ。俺は出来る限りの事をしたと思う。時間を割いて一緒にいた。料理も作った。毎日海で遊んだ。パプリカだって一緒に育てた。……でも、もう無理だ。」
「……」
「もう、俺に与えられるものなんて何一つ残っていないと思うんだよ。……シャアと寝たのは他にはもう何も残ってなかったからだ。……でもシャアは元には戻らなかった。」
「アムロ、」
「……限界だ。もう限界なんだよ、こんな生活!」
「……アムロ。」
セイラがそっと頬に触れるまで、アムロは自分が泣いている事に気づかなかった。触れた指先の暖かさに、驚いてセイラに顔を向ける。
何故かセイラは微笑んでいた。
「……ありがとう、アムロ。」
「……何故……?」
自分とシャアが寝たんだぞ。……男の俺とだ、非難こそされるかもしれないが、礼を言われるだなんて考えてもみなかった。
「何故? ……そうね、意外に理由は簡単よ。だってそれは……」
セイラは面白そうに首を竦めた。
「……私には出来ない事だもの。」
ああ。
ストン、と何かが落ちた。……納得した、確かにその通りだ。
気がつけば、セイラに縋り付いて泣いていた。……何をやっていたんだろう、俺達三人は。気がつけばもう七月の最終日である。……何をやっていたんだろう、五ヶ月も、この美しい風景の中で奇妙な三角を描いて。
「……こんな生活は長くは続かない。私もそう思っていたわ。でも、アムロは出来るだけのことをしてくれたのでしょう? 本当に、出来る限りの事を全てやってくれたのでしょう?
その気持ちだけで十分だわ。兄もアムロも、本当はこんな場所に居るべき人じゃないの。それは分かっていたの。でもなにかしら……とても不思議で、不条理で、強引な生活だったけど……どこか楽しかったわ。」
そう言うと、セイラはしっかりとアムロの手を取り、その瞳を見据えた。
「……セイラさん。」
「本当にありがとう。アムロは、良くやったわ。……本当にありがとう。」
おだてないで下さい。……随分昔、彼女に向かってそう答えたことがあったような気がする。もう本当に昔の話だ。
いつ、この屋敷を出て行ってくれても構わないから。……最後にそう囁いて、軽くアムロの鼻の頭にキスをするとセイラはコテージを出て行った。……まだ子供扱いなんだなあ。アムロは薄ぼんやりとそう思いながら部屋の天井を見つめた。……涙が止まらない。
水はもう溜まった。だから世界はもう揺るがない。
あとはコップがひっくり返ったら、きっと元に戻る。
……コップがひっくり返ったら?
そこまで考えてびっくりした、コップをひっくり返すのか、水に揺るがない、水の全て無くなった世界で、じゃあ今度はどうやって生きろっていうんだ!
腕を伸ばすと、自由には伸びない。理由は簡単だ、水の中だから。
もがけばもがくほど、質量が増えて重くなった水が腕に、足に、身体に纏わりつく。
こんな水の中で、何故アムロは軽やかに動けるのだろう。
……いいや違う。コップをひっくりかえすのが怖いのは、それは、
……水の中ではない世界。その世界にもアムロ、アムロはいるのか?
「明日だ。」
『明日!?』
多少無からずミノフスキー粒子の妨害を受け、更に何時敵に傍受されてもおかしく無いような状況下でブライトはハヤトに無理矢理通信を入れていた。
『確かなのか。本当にネオジオン艦隊は……』
「今、目の前に侵攻を始めそうなその艦隊が居るんだよ! 冗談でこんなことを言うものか。」
『しかしここまで早く……』
まだ納得のいかないらしいハヤトを尻目に、ブライトは通信画面の脇に広がるもう一つのパネルを睨んでいた。そこでは、宇宙空間では最後になるだろうネオジオンとエゥーゴの戦闘が繰り広げられている。
――間に合わなかったか。
唐突にそんなことを思った。間に合わなかったか、アムロも、シャアも。……この戦いは、おそらくあの二人とは関わりのないところで決着が着くだろう。
『……無理だ、地球にはとても……』
放っておいたらハヤトの台詞は「とてもネオジオンの侵攻を迎え撃つほどの戦力は無い」などと続いていったのだろうが、その不安気なハヤトの口調に、つい一年戦争の頃を思い出して気づけば怒鳴ってしまっていた。
「……今はもう艦を預かる艦長の身になったんだろうが! ……自信を持て、じゃ、切るぞ。」
『ブライト!』
本当に通信を叩き切ってやった。……不在のシャアとアムロ。その上で進むストーリー。それが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。世界は今、主役を欠いて迷走している。
「……」
ほとんど全てのことに無関心だったカミーユが急に面を上げて空を仰いだので、ファ・ユイリィは一瞬何が起こったのだろうと思った。
「……カミーユ?」
カミーユと二人、地上に降りてからもうどれくらいになるのだろう。……ずいぶんと緯度の高い場所にあるダブリンの街の空は、その日も低く垂れ込める雲に覆われていた。
「……カミーユ?」
もう一度そう聞いた。しかし病院の屋上で、カミーユは空を見上げたまま微動だにしない。
「……何か起こるのね?」
ファはそう聞いた。……返事は期待していなかった。
何か起こるのね。……誰かが来るのね。……そうでなければ、
誰かが行ってしまうのね?
「……アムロ!」
叫び声と共に身を起こすと、隣にアムロがいなかったのでシャア慌てて身を起こす。
「シャア?」
しかしすぐに寝室のドアが開いて、アムロがひょいと顔を出す。
「目は覚めたか? さて、今日の朝食は一体何でしょう……じゃーん。……答えはただのベーグルサンドでしたー。」
そんなことを言いながらアムロは面白そうに部屋に入って来る。
嫌だ、どこにも行かないで。
シャアは言葉にならない言葉と一緒に、アムロに手を伸ばす。すると、そんなシャアを見て一瞬アムロが妙な顔をした。
「……あのね、そんなに足りない?」
「?」
意味が分からなかったので首を傾げる。しかし、掴んだアムロの手首を離す気にとてもなれないようだった。
「……何が欲しかったんだろう、シャアは。……ごめんな、俺じゃ分かってやれなくて……」
お盆にベーグルサンドとペリエと、それから他にも幾つかの料理を載せて入ってきたアムロは、悲しそうに視線を落とした。
「?」
しかし、シャアは分からない、というようにまた首を傾げる。
「……まあいいや、とりあえず服、着たら?」
今日はベッドの上で朝食ということらしい。それからシャアは「服を着たら」という言葉の意味だけは分かったらしく、下着とスェットだけ大急ぎで身につけた。アムロはその様子に笑って、それからだらだらとした朝食を二人で食べた。
もうここを出る。そう決めたら不思議に落ち着いた気分になって、今日はじっくり一日シャアと遊ぶことにした。
「シャア、これはオセロだ。やったことある?」
シャアは目の前で首を傾げている。
「白と黒じゃなくて白と赤なら良かったのになあ。……無いよな、そんなオセロ。まあいいや、凄く簡単だから。チェスやカードゲームより全然。」
昨日帰って来てから、テーブルの上に放り出しっぱなしだったオセロの箱を開く。シャアに遊び方を説明してやると、最初は分からない風だったのが徐々に慣れて来て、飽かずにずっと遊んでいたら最後にはアムロに勝つまでになった。
「……アムロ」
勝つと凄く嬉しそうだ。
「……何だよもう、初めてじゃなかったのかよー。あなた、勝負事となると一歩も引かないんだな、らしいと言えばらしいけど。」
シャアが言葉を話せたら「君が弱すぎるんだよ」とでも言いそうな場面だ。しかし言われなくても、その声は聞こえた気がした。
昼時になったので、いつも通り簡単にパスタを茹でることにする。最後なのでシャアが気に入ってたのにしようかな、と思ってカペッリーニにした。庭からトマトとバジルと摘んで来て、とボウルを渡すと、シャアは意味が分かったらしく庭に飛び出して行った。
「……最後だしな。」
少し悩んだが朝食も軽かったし、と思って鶏肉が載ったサラダや、パセリの浮いたコンソメスープ等も作ってみる。挙げ句にとっておきのワインを昼から空けて、昼食を食べ終えた二人はリビングの床に寝転がり、少し昼寝をした。だらだらと過ごす午後は妙に落ち着いていて楽しかった。目が覚めると、今度は模型飛行機を持って浜辺に向かった。
嵐が通過した後の海は、まだ少し波が高かったが、シャアは平気なようだ。最初は飛ばしてみせるばかりだった模型飛行機も、いつしかシャアはきちんと自分で飛ばせるようになっていた。白い砂浜の上を、飛ばしては走り、追いついてはまた飛ばし、楽しそうに右に左に行き来している。アムロはその様子をぼんやりと眺めながらもう一度考えた。
何が足りなかったんだろうなあ。セイラに言った通り、時間を作り、世話をし、仕舞いには身体までくれてやった。
――ニュータイプは戦うための道具じゃない――
いつしかあのララァの言葉を証明したいと思うようになっていたが、実際にはシャア一人救えないままだ。
何が足りなかったんだろうなあ。
……本当に、何が足りなかったんだろう。あのサイド1の病室で、シャアが『初めて』自分を呼んだときの声を思い出す。アムロ、と。彼は怯えていた。他には何一つ要らないんだと言わんばかりに自分を見た。……そうか、俺はあの時、
嬉しかったんだ。
そうか、そう考えると自分は傲慢で横暴だな。……全てを失った世界で、シャアに選ばれたのが自分だと知った時に、なんとも言えず嬉しかったんだ。だからきっと直せる、って思ってた。分かってみると単純だな。
嬉しかったんだ。……シャアに愛されるのが。
「……アムロ、アムロ!」
「あ、え?」
気づくと何度もシャアは呼んでいたのだろう、いつの間にか模型飛行機を持って、アムロの目の前に心配そうに立っていた。
「……あぁごめん。ちょっと考え事をしてたんだよ。……もう飛行機はいいの?」
少し傾き始めた太陽を背に、素足でズボンの裾をまくり上げたシャアが模型飛行機を片手に立っている。ここはエーゲ海で。白い砂浜で。アムロは立ち上がった。
「……シャア、帰ろうか……」
不思議な光景。……でも、忘れないでおこう。アムロは思った。この、奇妙な時間を。シャアと俺とセイラさんと、海と砂浜しか無かった時間を。
自分からシャアの頬に手を伸ばす。何度か頬を指で撫で、それから首筋に手をやってシャアを屈ませた。
「……アムロ」
そしてゆっくりキスをした。
「シャア……愛してるよ。」
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2009.02.07.
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