……その通信を受けたのは、グリプス2の崩壊からちょうど一週間経った日の事だった。
元々は地球連邦軍内の派閥争いだった戦いに、アクシズから戻ったネオジオン軍が加わる事で三つ巴の様相を呈したその紛争は、ようやく一区切りを迎えていた。全てが終わった訳ではない。エゥーゴとティターンズの決着は着いたが、ハマーン・カーン率いるネオジオン軍は地球圏に留まっており、これからはその相手にする事になるのだろう。ティターンズの残党がネオジオン側に加勢する事も考えられる。連邦軍内の誰もがそれを分かっていた。
「……久しぶりだな。」
アムロの通信相手は、宇宙にいるブライト・ノアだった。
『ああ、久しぶりだなアムロ。……そちらは忙しいか。』
忙しいに決まっている。
「カラバは正規軍では無いとは言え、地上軍もティターンズ崩壊の影響で混乱極まりないからな。それなりに忙しい。」
『そうか。』
世間話をする為にこのミノフスキー粒子下、超長距離通信をしてきた訳でもないだろうに。妙に本題を言い淀むブライトに、アムロは少しイライラした。
「……用が無いのなら切るぞ?」
『……こちらの状況は知っているか。』
「なんだって?」
アムロはつい聞き直す。
『単刀直入で悪いのだが、宇宙に来てもらえないか、アムロ。』
……単刀直入過ぎる。そのブライトの言葉に、アムロは暫し考えた。
「……宇宙の状況はある程度なら知っているつもりだ。」
対ティターンズの最終作戦となったメールシュトローム作戦でかなりの戦力と人員を失い、エゥーゴの主力艦であるアーガマはサイド1の某コロニーにとりあえず身を寄せている。そうハヤトに聞いていた。
「……が、戦力不足はこちらも一緒だ。混乱もまだまだ続くだろう。パイロットが足りないなら他をあたってく……」
『パイロットとして来て欲しいわけじゃないんだ。』
「……なんだって?」
思わずもう一回聞き直してしまった。
『三日……いや、一日でもいいんだ。なんとか来てもらえないか。……サイド1に。』
思えばこの時、キッパリと断れば良かったのだ。
「……理由は。」
『……今は言えん。』
「……分かったよ。」
それでも、長い付き合いである。ブライトがこんな事を唐突に、理由も無く言うような人間でないことは分かっていたので、アムロはしぶしぶと頷くと通信を切った。
……何かある。もしくは、何かがあったんだ。……宇宙で。
真っ黒になった端末のインターフェィスをしばらく睨み付けていたのだが、やがて溜め息をつきつつ椅子に座り直す。そしてハヤトに、数日間宇宙に行く事を告げるため再度パネルを立ち上げた。
――宇宙世紀0088、三月一日。
ゆらゆら揺らめくと水の底に沈んでいるようだった。
その水の底から、ゆっくりと意識が浮び上がってゆく。……目蓋を開くとそこは、恐ろしいほどの光に満ちた空間だった。
「……! ………!」
ふいに目の前に見知らぬ顔が現れ、ああ、自分は横になっているのだなと思う。上から覗き込まれたからだ。しかし何故だろう、皆が何を言っているのか良く分からない。声は聞こえるのだが内容が理解出来ない。ぼんやりとしたままだ。
「……起き上がれますか?」
それが初めて理解出来た言葉だった。私は何も答えなかったのだがふいに背中に手を回され、勝手に身を起こされる。
「……気分はどうですか。……どこか痛いところなどは?」
目の前の人間にそう問われ、私は小さく首を振った。……痛い箇所など無かった。いや、強いて言えば目が痛い。目が痛いかな。そう思って私は自分の両目に掌をやった。……眩しい。光が刺すように痛い。
「……誰かカーテンを閉めて。眩しいですか? 角膜かな……他にどこか痛いところはありますか、クワトロ大尉。」
私は首をかしげた。……クワトロ大尉? それは誰だろう。
「初めまして。私は医者で、あなたを担当している○○と言います。……クワトロ大尉?」
私はもう一度首を傾げた。……カーテンの閉められた部屋は先ほどより薄暗く、刺すような痛みはもう感じられなかった。辺りを見渡す。自分の周りには医者だと名乗る男と、それから数人の看護士らしき人々がいて、その誰もが見知らぬ人だった。医者がいるからには確かにここは病院で、病室なのだろう……、
「……クワトロ大尉?」
ゆらゆらゆら。妙に、世界は揺らいでいる。
三度呼ばれてやっと、ひょっとしたらそれが自分の名前なのだろうかと思い至った。分からないながらも目の前の男を見る。ぼんやりとした視界はどうしても真実を映してくれない。それはまるで目に見えない何か透明なものに、包まれているかのような感覚だった。
「……ちょっと確認させて下さいね。……ここが何処だかわかりますか?」
私は首を横に振った。
「……自分が誰だか分かりますか?」
この問いにも、私は首を横に振るしか無かった。ゆうら、ゆら。世界は相変わらず揺れている。
「……あれ、ひょっとして……」
「……」
何故か男が自分の顎に手をかける。不快に感じたので少し身を捩って逃げようとしたが、上手く身体が動かなかった。
「……話せますか? ……声を出してみて。」
最後にゆっくりとそう聞かれて、私は口を開いた。……話そうとした。でも、言葉は出てこなかった。
「……」
「……あまりにいろいろな事を一度には無理ですからね。……今日はもう、休んだ方がいいですね。」
「……」
そしてまたベッドに横たえられる。なんとも言えない微笑みを残して、医者は部屋を出て行った。……小さな部屋だ。何の変哲も無い、おそらくは病室、なのだろう。ゆらゆらゆら。認識は出来るのだが全ての光景が揺れて見える。部屋には自分の居るベッドの他には、小さなチェストと右手に窓があるきりだった。自分から起き上がろうという気持ちにはなれない。……私はそのまま目を閉じた。
……ゆらゆらと、世界は揺れ続けている。
「……クワトロ大尉の意識が戻ったそうですよ!」
ブリッジに入ったとたんにそう言われて、ブライトは思わずオペレーターを凝視した。
「本当か。」
「はい、ついさっき病院から連絡がありました。」
「……カミーユの方は。」
「まだです。目は覚めているんですが、反応は無いままで……でも、クワトロ大尉は受け答えが出来るそうですよ!」
ちょっと病院に行ってくる……と咽まで出そうになってグッとこらえた。
「……ファ軍曹は。」
「カミーユのところです。」
当然の反応が帰って来る。となるとやはり、自分まで艦を空けるのはまずい。ブライトはそう思い、艦長席に座ろうとしたところで、妙にニヤニヤとした視線が自分に注がれていることに気づいた。
「……何だ。」
「……気になるんでしょう。行って来てくださいよ!」
「そうですよ、どっちみちアーガマは身動き出来ないんだし。少しくらいなら、俺達だけでもなんとかなりますよ!」
「しかし……」
「艦長が行ったら、クワトロ大尉もきっと喜びます。……俺達を代表して行って来て下さい。」
「……」
そうまで言われると、ブライトも心が動く。この一週間ほど、この艦には明るい話題など一つも無かった。そんな中、初めてとも言える吉報が、クワトロ大尉の意識回復だったのだ。
「……分かった。恩に着る。」
それだけ答えるとブライトは足早にブリッジを出た。……まさかこの先に、とんでもない不幸が待ち構えているとは思いもせずに。
エゥーゴ、ティターンズ、そしてアクシズ艦隊の三つ巴となった艦隊戦はかなり激しく、終わってみればエゥーゴは戦力のほぼ半分を失っていた。物的なものだけではなく、人的にもである。Zガンダムと百式は半壊状態で回収されたが、それに機乗していた二人のパイロット……カミーユ・ビダンとクワトロ・バジーナは瀕死の重傷で、共に意識が無かった。ともかくどこかのコロニーに身を寄せなければならない。そこでブライトは、最寄りにあったサイド1、シャングリラという名のコロニーに艦を運んだ。あまり治安の良いコロニーでは無かったが、贅沢も言えない。
設備の良い病院に二人を移したい。そう思っていた矢先、艦に驚くべき来訪者があった。ニタ研である。ニュータイプ研究所の人間が、何故か先回りしてシャングリラに居た。そこでブライトは改めて、カミーユ・ビダンとクワトロ・バジーナという二人のパイロットが非常に注目される際立ったニュータイプだということを実感して苦々しい気持ちになった。こちらは一刻も早く、落ち着いた場所で彼らを休ませたいというのに!
もっとも、ニタ研の人々も気持ちは同じだったらしく、研究者だけではなく医師も含めてシャングリラには送り込まれており、すぐに入院と移送の手筈は整った。この移送の時に艦内に忍び込んでいた民間人の少年のおかげで、実は一悶着あったのだがそれはまあ別の物語だろう。
無事病院に二人を送り届け、艦に戻ろうとしたときブライトは急に引き止められた。それは、ニタ研のメンバーなのだろうが少し独特の雰囲気を持った男で……線が細く、神経質そうで、軍人にも医師にも見えなかったがカウンセラーか何かだろうとブライトは勝手に判断した……ともかく彼はこう言った。
「あれは本当にクワトロ・バジーナですか?」
「……どういう意味だ。」
ブライトが分からずにそう聞くと、男の方も少し困ったような顔をした。
「あれは……本当にクワトロ・バジーナで、シャア・アズナブルで、赤い彗星だった男ですか?」
「……」
質問の意味が全く分からない。しかし、青白い顔でベットに横になる彼の顔を思い出しながらブライトは頷いた。
「……彼そのものに見えるが。」
「……そうですか。」
それだけ言うと、その男は引き止めたことを詫びて、病院の中に戻って行く。ブライトは首を捻りつつも、その時はそれだけで艦に戻った。
誰かに肩を揺すられている。……それで、私は瞳を開いた。カーテンは閉まっている。おかげで目は痛く無い。
「……眩しく無いですか?」
目の前に誰かが居る。私はゆっくりと頷いた。
「少し角膜が傷付いているようです。すぐに良くなりますよ、安心して。もともと光に目が弱いのかもしれませんね。……起こしますよ。」
この前と同じようにベッドの上に起こされた。辺りを見渡せば同じ部屋で、同じように看護士らしき人々が数人いるばかりだ。
「……大尉が目覚めたと聞いてね、ブライト大佐が来ましたよ。」
「……」
周りの人々が何を言っているのかよく理解出来なかったが、とりあえず頷いた。
「じゃあ、お呼びしますね。……ちょっと待っていて。」
しばらくすると左手のドアが開いて、一人の男が部屋に入って来た。
「……クワトロ大尉。……意識が戻って良かった……。」
彼は近くまで来てそう言ったが、私は放っておいた。見知らぬ人間だったからだ。見知らぬ人間で、見知らぬ服を着ている。
「……大尉?」
彼が肩に手を乗せたので、私は彼の方を向いた。目が合った。……しかし、やはり知らない男だ。そして誰もがそう呼ぶのだから、自分の名前はやっぱり『クワトロ大尉』だったのかもしれないと、そう思った。
「……シャア?」
「……」
ところが何故か、彼は次には私のことを『シャア』呼ぶ。……おかげで一気に分からなくなった。私は首を傾げる。
……ゆらゆらと世界が揺れている。目の前の男も揺れている。
「……」
声は出せないので黙っているしか無い。彼も黙って私をジッと見て居た。……よほど経ってから、彼は小さくこう呟いた。
「……私が誰だか分かるか?」
私は素直に首を振った。……分からないものは仕方ない。というより、この世界に知っている人間が誰一人居ないのだ。それから急に思い立って、右手を上げた。文字を書く真似をしてみせる。声は出ないが、意識はあることを相手に伝えたいと思ったのだ。……彼はしばらく考え込んでいたが、やがて私のしたい事に気が付いたらしく近くに立って居た看護士に「紙とペンを」と告げた。すぐにそれは持ってこられた。私はペンを持ってみた。手に力が入らず、何度もペンはシーツの上に転げ落ちた。しかしようやっと、紙にこれだけ書き付ける事が出来た。
(――あなたは誰?)
「……」
それを見た男は、なんとも言えない様子で紙を掴んだまま動かなかった。続けて私は書いた。
(――私は誰?)
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2009.01.21.
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