海の方角から、心地の良い風が吹いて来る。
そして目の前には、その風を一身に受けて微動だにせず立ち尽くす男の後ろ姿があった。
やや離れて同じ様に草原の真ん中に立っていたカイは、先ほどからその背中に声を掛けようとし、だがしかし言葉を飲み込むという作業を続けている。
―――宇宙世紀0092、十月十四日。
放っておけば一日中でもそのまま草原の中に佇んでいそうなその背中を、カイは苦虫を噛み潰したような顔で睨んでいた。
「……おい」
ついに、控えめに声をかけてみる。しかし背中は全く反応しなかった。
「おい、てめぇ。……聞こえてんのか」
カイは苛々しながら胸元の銃に手をやった。冷たいその温度が、自分を現実に引き戻してくれる。
……大丈夫。大丈夫だ、多分俺はまだ、大丈夫だ。
「人間って……」
人の話なんか聞いちゃいねぇんだろうなあと思っていた相手が言葉を発して、むしろ驚いた。
「……どうして、戦い続けるんでしょうね」
「知るかよ」
カイは即答した。しかし、その言葉に返事は無い。
―――言いたい事を呟いているだけか。俺じゃ話し相手にもならないって事かよ。
確かに相手は次元が違う。それにしたって、やっとこの数ヶ月間ずっと探し続けていた相手に巡り会えたのだ。
「あなた、ここがどういう場所か知ってますか?」
「それも知るかよ」
……カイは実に執念深く、そして彼的には『非常に丁寧』に、返事をした。
旧ヨーロッパ地区、イングランド南東部に一つの街がある。
それはドーバー海峡にほど近い、崩れ落ちた修道院と一面の平原以外には何も無い小さな街だ。しかしその平原は、実に著名な古戦場だった。
平原の名はヘイスティングス、古の戦の名は『ヘイスティングスの戦い』。俗に言う『ノルマンディーコンクエスト(ノルマンディーの征服)』を決した戦いである。
旧世紀、1066年にフランスのノルマンディー公ギョームが当時のイングランド王ハロルド二世をこの戦いで破り、以後の数百年間イギリスはフランスの支配下に置かれる事になった。それだけの話だ、昔々の戦いの話だ。その小さくて古い街は、だが一度聞いたら忘れられない名前を持っている。
その街の名を知らないものはきっと世界に一人もいない……それは「聖書」が英語ではたった一言「ザ・ブック(本)」と呼ばれるのと同じくらい、分かりやすい理由で。
その街の名は、バトル。
「本」と言ったら聖書。
「戦い」と言ったらヘイスティングス。
その街に付けられた適当な名が、その古フランス語の単語が、そして1066年のこの戦いこそが、語源になったのだ。
そう、語源となったのだ。
―――英語で言う、Battle(戦い)の。
「海が見たいな」
「見れば良いじゃねぇの。海が見たいんなら、なんでこんなところにいるんだ」
「海はここから六マイルも離れてますよ」
「じゃあ、連れて行ってやるよ」
「……」
本当に? というような顔で男がやっと振り返る。そして嬉しそうに笑った。
「連れて行ってやるよ、俺が」
「この街ね、バトルって名前なんです」
「知ってるよ、それくらいはさすがに」
「千年以上前の今日……驚いたな、本当に今日だ。ともかく1066年の十月十四日にここで『戦い』があって……でも、だからって街の名前が『戦い』だなんて、ひどく適当だと思いませんか」
「……」
「だけど多分、ここから全ては始まったんだ。『戦い』と呼ばれるものの歴史が。……そして今も人々は、戦うことを止められずにいる」
「……」
「愚かですよね。だって千年以上前からなんだ」
「だがきっとこれからも続く」
カイはこれ以上聞いていられるかと言う気分になって、胸元のホルダーからグロックを引き抜いた。愛用の、使い慣れた銃だ。
「一回しか言わない。……お前を海に連れて行ってやるよ。だから一緒に来い」
銃を向け、標準を合わせても目の前の男は、やはり嬉しそうにどこか微笑んだままだった。
強く風が吹いた。海から草原を駆け抜けて来た風は、目の前の男のやや長めの髪を煽り、カイの横をすり抜け、朽ち果てた修道院の向こうに消えて行く。
「一緒に来い……」
また一陣の風。
「……カミーユ・ビダン」
目の前の男は聖母の様に微笑んで、嬉しそうに両腕を広げた。
カイは一瞬、全てを忘れてその両腕に縋りそうになった。
いや違う。
違う……大丈夫。大丈夫だ、多分俺はまだ、大丈夫だ。
「カミーユ・ビダン」
「行きますよ。……俺が行って、それでどうにかなるって言うんだったら。でも恐らく、どうにもならないでしょうけどね」
「……」
カイはカミーユの手を取った。痛いくらいにその手首を握りしめた、グロックを握る右手ではなく、左手で。
「……海を見せてくれるんですよね。……海に連れて行ってくれるんですよね、あなたが」
……あぁ。
―――宇宙世紀、0092年十月十四日。
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2008.10.09
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