海の方角から、心地の良い風が吹いて来る。
 そして目の前には、その風を一身に受けて微動だにせず立ち尽くす男の後ろ姿があった。
 やや離れて同じ様に草原の真ん中に立っていたカイは、先ほどからその背中に声を掛けようとし、だがしかし言葉を飲み込むという作業を続けている。
 ―――宇宙世紀、0092年十月十七日。



「……好きだったのかよ」
「多分ね」
 だがしかし口から出て来るのは、三日前に全てを卓越した男に掛けたのとは全く違う言葉だった。
「そんなに好きだったのかよ」
「それ、カユいっすよ、カイ・シデンさん。恋愛じゃあるまいし。……多分ね、って俺言った」
「……」
 同じ場所なのに、目の前にいる男は違う。
 今、目の前にいるのはサットン・ウェイン元少尉……除隊届けをブライト・ノアに投げつけるまでは、ロンド・ベル隊でモビルスーツパイロットをしていた男だ。
 彼は盛大に「はああああ」とため息をつくと、草原の中にしゃがみ込んだ。
 古戦場だ。
 三日前にカミーユ・ビダンが語った通りに、千年以上前イングランド軍とフランス軍が戦った、そして「戦闘」の語源になった、ここは古戦場。
「……お前、これからどうするんだよ」
「分からないですね」
 カイが聞くと、それでもサットンは即答した。
「分からないです。……でも、俺の役目はこれで終わったのかな、って気もする」
「……」
 カイが黙っていると、草原にしゃがみ込んだサットン・ウェインが顔だけをこちらに向けて来た。
 三日前、この場所に居たカミーユ・ビダンはそんなことはしなかった。
 彼は夢見る様な手を自分に差し伸べて来たが、しかし座り込んで本当に心から困った目を、縋る様な目をカイに向ける事など無かった。
 その仕草に、カミーユ・ビダンには感じなかった蠱惑を感じてカイは戸惑う。
「……なんだっての、」
「それは俺の台詞です。俺……俺、大してすごい事望んだわけじゃないのに」
「……」
「俺、ただヒューイと仲良くしたかっただけなのに。なんですか、これ。この結論」
「……これからも人生は続くぞ、サットン」
 カイのその返事に、ドーバーから吹く海風に焦げ茶の髪を揺らしながら、サットンが微笑んだ。
「……一年前は新米、としか呼んでくれなかったですよね、俺の事」
「……」
 そういえばそんなこともあった。
 ブライトの命令で、アムロ救出のため決死の地球降下作戦を行った時リガズィを操っていたのが、間違いなく目の前に居るこの男なのだ。後ろ頭を引っ叩いた記憶すらある、大気圏突入の時に。一年前にも若い……そして今も若い、前途あるパイロットだった。
「あれからいろいろあったなぁ……」
 それは俺もだ。カイはうっすらと目の端に映る屋敷を見遣る。幾つかあるのだが、その中の一軒に間違いなかった。
 セイラ・マスの屋敷だ。
 何故、こんな物が見える場所で、俺は今こんな目に。
「……好きならそれでいいじゃねぇか」
 そう答えたカイに、サットンは何とも言えない笑顔を見せた。
「俺だって片思いの相手なんか山ほどいるぞ。……中にはもう二度と会えない相手もいる」
「……そうですね。なにやってんだろ、俺。……ヒューイ以上に面白い友達は今までいなかったし、それが全てだ。じゃあ、そう思ってこの先の人生を生きて行きゃいいのか」
「……だな」
「俺、アムロ大尉がすっげぇ好きだったんです」
「……」
「恋愛感情って意味じゃないですよ。あんまりに格好良かったんで、すげえ憧れてた。だからそれ以上に、気持ちの傾く相手なんてきっと現れないだろうと思って今まで生きてた。……でも、ヒューイのことがあんまりに好きで、大事で、大事で大事で大事になって……」
「……」
 俺、とそこでサットン・ウェインは膝に顔を埋めた。
 ああ、でもな。
 カイは言ってやりたかった。
 ……それがな。
 ……それが、普通の人間の感覚、ってものなんだ。
 人は他人と知り合い。圧倒的他者であるのにそれを愛し。
 例え報われなかったとしても愛し続けてしまう場合がある……自分にとってのそんな人も、あの岬の屋敷にいる。
「忘れるなよ」
「……」
「忘れないで、お前の中で愛し続けりゃいいじゃねぇか。……ヒューイ・ムライを。それが、凡人に出来る全てのことだよ」
「そう思う……?」
 膝から上げられたサットンの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「ああ、そう思う。……それが、人が、生きて行くってことだ」



 平凡な人間が、生きて行く、ってことだ。



 サットン・ウェインがすっと立ち上がった。
「……そっか」
「そうだよ」
 サットンは涙を払い、そして真っ直ぐにカイを見る。
「そうか。……じゃあ、俺、行きます」
「……ああ、行け」
 サットン・ウェインの背中が、草原の中に小さくなってゆく。
 ……三日前と全く同じ場所で、しかし全く違う心境でカイ・シデンはその後ろ姿を見送った。
 『戦闘』という名の街で。その、古戦場である平原で。崩れ果てた修道院の向こうに。
 千年以上前にここから始まった戦いの歴史は……まだ終わらない。



 後に『コロニー制御プログラム連続ウィルス汚染事故』と呼ばれた全ての事件の、これがラストシーンだった。












Biblia Hebrica Sequentia 終り。

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2009.01.04.




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