『思想』が世界を隔てていた時代があった。
『西』と『東』、『北』と『南』、『資本』と『共産』、『米』『ソ』。さまざまに比喩されるがともかくは思想が隔たりの根本であった時代が。
そういった時代はとうに過ぎ去った筈だった。どの単語も旧世紀の産物で、宇宙世紀になってからは歴史の授業でしかお目にかかれないものの筈だった。
しかし、実際にはどうだ。
通信が自由になった旧世紀末、確かに世界の主役は『思想』ではなくなった。
経済はグローバル化し、国境は有って無きものと成り果て、先物取り引きが世界中の物価を一気に吊り上げ、情報など皆が共有して当たり前のものと化した。
そんな時代に『思想』もなにも無かった。
ーーーしかし、実際にはどうだ。
ミノフスキー粒子、そのたった一つが発見されたおかげで、世界は数百年分後戻りだ。
情報が共有出来ない、不自由だ、ワールド・ワイド・ウェブが無い。
それだけの理由で『思想』がまた重要になった。
……戦争が、モビルスーツという名の疑似白兵戦に後戻りせざるを得なくなったのと同じ様に。
だからこそ『カミーユ・ノート』が支持されているのだ。
有り得ないほどに。
『……俺もね、こんなことになっちゃうなんて本当、思って無かったんですよブライト艦長』
「逆探知!」
「やってます!」
「発信箇所は地球、旧ヨーロッパ、D1から4の間……」
同じ行動は北米のオークリー基地、欧州に居るカイの端末、それからサイド4、そして連邦はまだ知らぬネオジオン本拠地のコロニー・スイートウォーターでも試みられていた。
「……」
名指しで来た。ブライト艦長、と。ブライトは固まったまま画面を見つめ続けていた。
『ちっとも俺の頭なんか、正常じゃないと思っていたんでしょう、勝手に? だけどね、俺はいつも普通だったし、まともだった。勝手に勘違いしたのはみんなの方だ』
カミーユは笑顔で続ける。
……地球圏全体の通信をハッキングして、同じ情報を流せる男。
ゼータタイプと呼ばれるモビルスーツの根幹を、設計してみせた男。
いいや、充分普通じゃない。
普通じゃないだろうが!
「カミーユ!」
ブライトは叫んだ。それを何故か、アムロが後ろから押しとどめる。
「何が目的だ、どうしてコロニーを止める!」
同じ画像が今現在、地球圏全体に流れ渡っている筈だった。そんなことすらもはやどうでもいい。
『あぁ、俺の声はまだ届くんだ。それどころか、今、ブライト艦長の返事が聞こえたような気がしたな。……カミーユ・ノートが俺の本体ではないんですよ、そんなのは勝手に誰かが付けた名前だ』
「知っている」
『そこが分かっているなら話しやすい。……残念ながらコロニーを次々に止めているのは俺じゃないですよ』
「なに……?」
『俺はただ、勝手に逃げ出しただけだ。さっさと逃げ出して、上からものを見下ろしているだけ』
「だから……!」
なんなんだ、カミーユ・ノートは。今回の、一件にどう関係しているというんだ! ブライトはただただ叫んだ、事実を知りたかったから。
画面の向こうでは、未曾有のハッキングをやらかした男が、まだ男にしては美し過ぎる笑顔で微笑んでいる。
『そんなに辿り着きたければ、俺に辿り着けばいいじゃないですか』
「出来ないから呼んでいる」
ふとブライトは、ひょっとして自分の音声も全地球圏に届いてしまっているのでは、と思った。
全地球圏に届いてしまっているのでは。カミーユの声が今聞こえる様に。
……まあ、いいか。
『もう一度言いますよ。信じてもらえないかもしれませんが、コロニーを止めているのは俺ではないです。……それから「カミーユ・ノート」を作り上げたのもね。俺じゃないんです、笑える事に。なんで俺の名前なんて使ったんでしょうね?』
「……」
『人々はひどく飢えていますよね、カリスマに』
「……」
『強い人間が一人いて、全ての責任を負ってくれて。……そうしてそれに縋って、その人間の言う通りに生きて行けたら、随分楽だろうなと無意識下で思っている。そういう世界だと楽だろうなと思っている。何が起こっても自分の責任じゃない。それは全てカリスマの責任だ。なら、と思って俺は、ただ人々の希望に応えたきりだ。……どうせ「二人」もこの画像を見ているんでしょう? そうして黙り込んでいるんでしょう。だったら話は早い。俺が本当に話したいのはブライト艦長じゃない。その「二人」だ』
「……」
ブライトは無言でアムロに自分のインカムを手渡した。後ろに立っていたアムロが、当然のようにそのインカムを受け取る。
「カミーユ」
『アムロ・レイ大尉? ……お久しぶりですね。あなたは……いや、あなた達は戦ってさえいれば幸せだって言うんでしょう? ……だったら、俺が言いたい放題の事を言っていたとしても、何処に問題があるって言うんだ。俺だって、自分の言いたい事を言っているだけだ……あなた達が好き勝手戦っているのと同じ様に』
「……そうだな」
アムロは静かにそう答えた。
カミーユが、本当は何を言いたいのか、痛い程分かる。
分かるからこそ、黙り込む以外の何も出来ない。
「……」
ヒューイは目を見開いて自分の端末を見つめていた。……何が起こったっていうんだろう、急に画面がブラックアウトし、かと思ったら見た事も無い優男が画面に顔を現した。
現象として、分かったのはこれがハッキングであるという事くらいだ。
宇宙世紀0092、日付が回って八月四日。
「……すげ」
意味不明な、それでも余裕の有る笑顔を地球圏中にまき散らす男を、ヒューイはじっと見つめていた。
これが『カミーユ・ビダン』か。名前を名乗られて妙に納得した。カミーユ・ノートを書いた伝説のカリスマ、稀代の天才。
父であり、連邦の技術士官であったフランクリン・ビダンの跡を継いで、ゼータタイプの根幹を作った男。もちろん技術者なら誰でも知っているし、その手に寄るコードは今もアナハイム社の最高機密になっている。
就業時刻はとうに終り、月のフォン・ブラウンで自室に引きこもり趣味を兼ねたネットワークの探索に乗り出していた時だった。全てがカミーユ一色に塗りつぶされたのは。
「マジ、すげ……」
自身もプログラミングにかけては人より秀でている自覚がある。しかし地球圏全部に同じ情報を、それもリアルタイムで流せるかって言われたらちょっとなあ。
……なんて言った? カミーユ・ビダンは。
ああそう、こんなことを言っていた。誰が聞いているかも分からないのに。
『あなたは……いや、あなた達は戦ってさえいれば幸せだって言うんでしょう? ……だったら、俺が言いたい放題の事を言っていたとしても、何処に問題があるって言うんだ。俺だって、自分の言いたい事を言っているだけだ……あなた達が好き勝手戦っているのと同じ様に』
かなり遅い夕食を士官食堂で食べていたサットン・ウェインは、食堂のモニターでその画面を見るなり、ぶはっとかなり汚く口の中の物を机にぶちまけた。
「何これ……」
「ってか、お前が何だ! サットン!」
一緒に食事を摂っていたアストナージ・メドッソが白い目で自分を睨みつけて来る。いや、それどころじゃネェだろコレ!
「なんだコレ……リアルタイムか」
「ハッキングだろ。……カミーユなら出来る。俺分かるぜ、一年間同じ艦に乗ったことがある。……カミーユなら出来る」
やけに冷静にそう返すアストナージの横顔が若いサットンには苦々しかった。
「今、私は呼ばれたか?」
「返事なんてしないで下さいね。……冗談じゃない」
シャアの執務室で、デスクの上に載る端末を見つめながらシャアとナナイが小声で会話を交わしている。
宇宙世紀0092、八月四日。
ギュネイは部屋の隅で、そんなシャアとナナイを冷めた目で見ていた。
……恐らくは、あの画面に映った『カミーユ・ビダン』と同じくらい冷めた目で。
「場所の特定は!」
「まだです!」
「旧ヨーロッパ、D……4? いや7か? イントラ欧州2か3の……」
「ポジションで言え!」
「無理だ! あ、今切れた」
「くそったれが!」
「ボガード大佐。……一つだけ聞きたい。今のは本物の『カミーユ・ビダン』か?」
「……あァ、」
そのとおりに見えたが、とボギーは頷いた。目の前のカムリは、通常の画面に戻った端末を覗き込んで黙り込んでいる。
「……不思議だ」
その背景では、三課員達が復活した通信の後始末に追われていた……時間にして三十秒程度。三十秒程度とはいえ、全く連邦の意に反した画像が地球圏中に流れ渡ったのだ。
「何が」
ボギーが新しい煙草を一本くわえながらそう聞くと、容赦なくカムリはその煙草を奪い取った。そして床に投げ捨てて、更に踏んだ。
「煙草は嫌いだって言ったでしょう!」
……既に『ここは禁煙です』ですらねぇよ! ついに自分の好みを押し付けやがった! 怖ぇよ今度の嫁!
「不思議だ、ちっとも生きている気がしない」
「……誰が」
「カミーユ・ビダン……孤高の詩人が」
そう呟いて、カムリが顔を上げる。そしてボギーをじっと見て、これだけ言った。
「……シャア・アズナブルやアムロ・レイは、あんなにも人間だと思ったのに、いや、人間臭かったのに」
「………」
『あなたは……いや、あなた達は戦ってさえいれば幸せだって言うんでしょう? ……だったら、俺が言いたい放題の事を言っていたとしても、何処に問題があるって言うんだ。俺だって、自分の言いたい事を言っているだけだ……あなた達が好き勝手戦っているのと同じ様に』
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2008.11.15.
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