その店は花屋の地下にある。
花屋の軒先にはひな壇が出され、小さな花束が無数に飾ってあった。その脇にあるブラックボードにはおすすめの花についての解説が色とりどりのマーカーで描かれており、若くてセンスの良い店員がこの店に勤めていることを思わせる。
小さな花束は、さり気ない日常の土産物として人気があるらしかった。
それはそうだ、花を送られて嫌な気持ちになる女性は居まい……それがどんな場面でも。
彼はそんなことを思いながら、その花屋の軒先に立った。
ーーー夕暮れ時だった。
夕暮れ時、と言ってもコロニーである以上それは演出された夕暮れ時だ。ともかくミラーが傾いて街並がオレンジに染まる中、彼は花屋の軒先でしばらく考え込んだ。それから口を開いた。
「これをひとつ」
「はい」
彼が小振りデイジーを中心に、周囲に青い花とグリーンのあしらわれた一つのブーケを指差すと、店員は愛想良く値段を告げる。
彼はそれを持って、金を払い、閉店間際の花屋から脇にある階段に目を向けた。
その店は花屋の地下にある。
……辿り着いたな、ここまで。
花屋の脇の階段を数歩下るとその店の入り口があった。
「……いらっしゃい」
「どうも」
重く重厚な、おそらく天然の樫材を利用したのだろうその店の扉を開くと、中に居たバーテンダーが驚いた様な表情で振り返った。
あぁ、まだ開いていなかったのか? しかし『花屋の地下』とアムロには聞いていたし、入ってしまったからには待たせてもらおう。実際扉は開いた。
「まだだった?」
「いえ、既に。……何になさいますか」
「ああそうか。それじゃミントジュレップを」
「ミントジュレップ?」
バーテンダーがまた変な顔をした。何だろう。そう立て続けに変な顔をされるとこちらの方が居心地悪くなってくる。
「俺は何か間違えてるのか?」
「いえ全く。ミントジュレップですよね、辛うじて酒です。しばらくお待ちを」
彼がカウンターの隅に花屋で買って来たばかりの花束を置いて、困ったような顔をすると、バーテンダーはもっと困ったような顔で苦笑いした。
「本当にすいません。ちょっと、普段いらっしゃるお客様とあまりに毛色が違ったものですから」
「毛色……?」
彼はわからずに考え込む。バーテンダーは逆に持ち直したようで、グラスを用意するとそこにミントの葉を数枚と、それから砂糖とソーダ水を入れた。それを軽く潰して、次には山ほどクラッシュドアイスを入れ、最後に申し訳程度にバーボンを注いでステアする。
「はい、お待たせしました。珍しいですね、この季節にミントジュレップ。十一月ですよ」
「そうか? 甘くて俺は好きだけど……」
「は……確かに。甘いですね。大変甘いです。そうか、季節の問題じゃないのか……」
「あの?」
何だかよくわからないが、目の前のバーテンダーは考え込んでしまった様だ。
薄暗いバーの照明の中で、目を伏せて考え込む金髪、長身のバーテンダーは、特にその白い頬に落ちる長い睫毛の影は、とても美しく見えた。
そこで彼は気づいた。
「あれ。あの……あなた誰かに似ているって、よく言われないか」
そう声を掛けられたバーテンダーが、三度驚いたような顔で彼を見た。
「誰かにそう言われましたか」
「……」
「いや、質問を変えます……誰の紹介でこの店に?」
「……ええっと」
正直に『アムロの紹介で』と言ってしまってよいものか彼は悩んだ。
ここはロンデニオン、アムロを知る人も多く居るだろうし何より彼が指定して来た店なのだが、アムロの名前は有名すぎる。
無意味に小さなブーケを手に取り、握り直す。
それから手を放して、ミントジュレップのグラスに口をつけてから思い直した様にこう言った。
「その、赤毛の……連邦の士官の紹介で来たんだけど」
店にはスティーブン・タイラーのダミ声が低く流れていた。
「あぁ」
急にストンと納得がいったようで、バーテンダーは悪戯っぽく瞳を輝かせて彼を見た。
「なるほどね、それじゃ私のことを……シャア・アズナブルに似てる、って思ったんでしょう?」
「確かにその通りだ」
客である彼は素直に答えた。甘い甘い飲み物を飲みながら。
「はー、それじゃお客様も軍人? このコロニーには何故? 左手の薬指に指輪してるから既婚者なのかな? 私は好みのタイプ?」
「はぁ?」
立て続けの質問に客である彼は絶句した。
アムロの知り合いだとわかった瞬間にこの有様だ。特に最後の質問は何だ。
「えーと……俺は確かに軍人だけど今は育児休暇中。このコロニーに来たのは、大学の方で嫁が客員として講演会をするように頼まれたから。つまり結婚はしている……で、好みのタイプって一体何?」
「あぁ、それは説明させて頂きましょう。私はバイなんです。だからお店にいらっしゃるお客様は一通り口説くことにしているので、お客様にも一応お聞きしてみたわけです。私と恋に落ちてくださいますか? と」
安心してください、既婚者はさすがに口説きませんよ、と言いつつも、彼は全く笑っていなかった。
「で、奥様が大学の方で講演会を?」
「あぁ。それで俺は一緒にくっついて来ただけだ。ここは軍港のある街だが……学園都市でもあるだろう」
「確かに。そうですね、ロンデニオンはそういう街だ。それで貴方はシャア・アズナブル本人に会ったことは? 私はそんなに似ています?」
「どうだろうなあ、俺も画像で見たことがあるきりだよ……でも、雰囲気が似ているような気がする」
「私がもう少し頑張ったら、大尉はなびいてくれますかね」
「それは無理じゃないかなぁ……俺にはよくわからないけど、あの二人の間にあるものは普通じゃないからな。なに、アムロ狙いなの?」
「……」
素直に客がそう答えると、バーテンダーは実に不満げに頬を膨らませた。
「貴方達は、ほんと、そんなのばっかりですね! 連邦の軍人とかっていうのは!」
「えぇ!? 俺に当るなよ……俺はニュータイプとかそんなものじゃない。どちらかって言うと被害者の方だろうが……!」
言われてバーテンダーは、目の前にいる実に開店したてのバーに、似つかわない男を見直した。
黒い髪に、黒い目だ。
身長はアムロ大尉よりやや高いだろう。体格も実に良く、ひどく軍人らしいのに、子どもじみた顔のせいで損をしているタイプに思える。
挙げ句の果てに、頼んだ酒が『ミントジュレップ』だ。
夏の日の子どものおやつのような酒だ。
それはもう、驚きもしてしまうというものだろう。
どこの御曹司がこの曰く付きのバーに紛れ込んで来たものかと最初は思った。
女性に送るのだろう花束と一緒に、待ち合わせまでの時間潰しの為だけに訪れて来たかの様に思えたのだ。
「いや、ごめんなさいね……既婚者ならではの誠実さもいいな、とか今思ってしまったな。その、貴方は実をいうとそんなに好みのタイプではないんですが……ちょっと口説きたくなったな」
「勘弁してくれよ」
彼は本当に嫌そうな顔をして、だがミントジュレップの次にはカルーアミルクを注文して……ある意味バーテンダーを満足させた。女の頼むような甘い酒ばかり注文する人物。ある意味予想通りだ。
開店直後から二時間ほど、それでもその『品の良い男』は粘って、スティーブン・タイラーやエアロスミス、それから何故かストーンズやシド・ビシャスについてまでバーテンダーと語った。思った以上にそれは楽しい時間だった。
ストーンズはともかく、ピストルズのシド・ビシャスが出て来た辺り、予想以上に熱い男なのかも知れなかった。もしくは彼自身が、二十歳前後で忘れられない経験をして、そこで彼の人生は終わったようなものなのかと。
バーテンダーはそう思った。
しかし、二時間粘って誰も店に訪れなかった時点で、彼は遂に諦めたようだった。
「帰るよ、嫁と生まれたばかりの赤ん坊がホテルで待ってるからね」
「あら、残念。……良かったらまたいらしてくださいね」
バーテンダーが営業上の愛想も込めてそう笑顔返すと、本当になんとも言えない顔で彼は笑った。
「どうだろうね。また来ても良いと……キャスティングされたら来るだろうけど」
「……」
歴戦の飲み屋の勇士、バーテンダーが驚いたことには、彼は女性への……つまり彼の場合は嫁に当るだろう人に対する土産だとばかり思っていた花束を、その小さなブーケを、店に置いて行くと言い出したのだった。
「その、この花束は……『赤毛の連邦士官』が今日のうちにこの店を訪れたら渡してくれ。なんか黒髪の奴が置いていった、って言えば通じると思う」
「……ずるい」
「は?」
バーテンダーは涙目で彼を見送った。
「ずるい、やっぱり大尉狙いなんですか……花束なんてポイント高い!」
「はぁあああ!?」
コウは花屋の地下にあるバーから足を踏み出し、ニナの待つホテルに向けて数ブロック歩いてから……それから、自分が店の名前を知らないことに気づいた。
その、バーの名を。
「……ま、いいか」
大体アムロも、店を『名前』では指定して来なかったのだ。
『近々、ロンデニオンに行くけど会える? 十一月末。嫁が学会に行くついでなんだ』
『ああ、○○通りに贔屓にしてるバーがある。花屋の地下なんだ、それじゃあ十一月三十日の午後六時はどう?』
メールで交わされたのは、その程度のやりとりだった。
そのやりとりすらも、非常な緊張の中で交わされたことを理解している。
連邦を騙し、民間企業であるアナハイムを経由しての『友人を演出した会話』をするにも限界があった。
「届けば……いいけどな」
全く酔っていなかった。コウはそれなりに酒が強い。狙ってふざけた酒ばかりを選んだ。あのバーテンダーは気づいたことだろうか。あの、シャア・アズナブルにどこか面影の似たバーテンダーは。アムロが贔屓にもするはずだ。
小さな花束の中に、更に小さなチップを隠した。
今日中にアムロがあの店にたどり着かなければ、アムロとシャア・アズナブルを繋ぐ為に自分がした全ての裏工作は無駄になるだろう。
―――それでもいい。
コウは妙に笑顔で、日の暮れ切ったロンデニオンの街をしばらく歩き、それからタクシーを呼ぶ為に片手を上げた。
宇宙世紀0092、十一月三十日。
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2010.06.04.
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