……遠のいてゆく意識の片隅で、カイの声を聞いたような気がした。

 ……カイさん?

 アムロは声に出そうとした。……そして伝えようとした、でも何故だろう声が出ない。

 ……シャアを。

 シャアを助けてやって。

 絶対にそう言おうとした。

 ……でも声が出ない。



「……やっと会えたな。……俺はハンフリー・ボガード。……ボギーと呼んでくれ。」
「……あなたとは会ったことが無い。」
 急に現れ、ウスダの後頭部にコルトマグナムを突き付けたトレンチコートの中年男を、シャアは冷めた目で見つめた。動かないアムロを腕に抱えたまま。
「……アムロ! おい、大丈夫かよ、アムロ!」
 カイが駆け寄り、その腕からアムロを奪い取る。……息は有る。しかし、意識は無いようだった。
「止血! ひよっこ、アムロを殺したく無かったら早くしろ!」
「大尉! ……大尉なんて事だ!」
「喚くな!」
 おろおろする艦隊のパイロットをカイが怒鳴り付けた。
「すぐに三課所属の特殊部隊が到着する。……そのヘリを使って香港宇宙港へ迎え。」
 ボギーが首を振って合図するのとほぼ同時に、新たな黒い装備の男達が突入して来る。
「……ウスダを確保。……他の四課員も急いで確保しろ! それが終了し次第、ラサに帰投。……俺はちょっと野暮用があるんで、後から行くぜ。」
「ラジャー!」
 ……皆が慌ただしく出て行った。……あちこちで火の手が上がり、今にも崩れそうになっている屋敷の小部屋で、残されたシャアとボギーは向かい合った。
「……さてと。さっき、あんたは俺に会ったことが無いと言ったが、」
 ボギーはのんびりとポケットから煙草を取り出すと火をつけた。
「実は会っている。……三十年ほど前に。」
「……」
 シャアは返事をしなかった。……四課に拘束されていた時と同様に、その顔には表情が無かった。ただ、冷たいアイスブルーの瞳でボギーを見つめ続けているだけだ。アムロを奪われた、からっぽの腕を前に差し出したまま。
「……俺は、あんたに『貸し』がある。」
 ボギーはとんとん、と煙草の箱を指で叩きながら続ける。
「……だから、俺は今回あんたを見逃す。……居場所に戻れ。」
 シャアはまだ返事をしなかった。



「……俺がまだ、駆け出しの諜報員だった頃だ。駆け出しだから何しろ、潜入捜査やら何やらを散々やらされる。」
「……それで?」
 やっとシャアが答えた。その声を聞いて、五十絡みの男は苦笑いをした。
「あぁ。……親父さんと同じ声だな。目も良く似てる。」
「……」
 シャアはまた黙った。……ボギーは続けた。
「俺の背負った最初の任務が、サイド3への潜入だった。……サイド3が『ジオン共和国』を名乗り出したばかりの頃だ。あの頃の連邦にしてみれば、『ジオン共和国』は唯一の『敵国』だった。諜報部員には、他に活躍する場所なんて無かったのさ。」
「……」
 屋敷の何処かで、天井の崩れ落ちるような音がした。この部屋にも煙が回り始めている。
「……そうして俺は、一つの計画を察知した。……暗殺計画だ。」
 ここでボギーは煙草を吐き出し、床に足裏で擦り付けて消した。
「……『ジオン・ズム・ダイクン暗殺計画』だ。……ザビ家の陰謀に気づいたのさ。」
 ……シャアは黙って目の前の男が話す、三十年前の『歴史』を聞いていた。



「俺はすぐ上に報告した……マズいと思ったからだ。しかし、上層部はそれを揉み消した。連邦上層部の判断は何故か、ジオン・ズム・ダイクンによる反体制の確立より、ザビ家による陰謀の方を良しとする、だった。……連邦が嫌いになったか?」
「……今まで一度も好きになったことは無い。」
「分りやすい返事だ。」
 ボギーは少し笑った。
「……そういう訳で、俺はあんたに貸しがある。厳密には、三十年前のあんたに、だ。……詫びて済む問題では無いと分かっている。あんたは化け物に育った。三十年前にジオン・ズム・ダイクンというカリスマに怯えた連邦政府は、その暗殺を黙認したことで、今また『シャア』というその息子のカリスマに怯えざるを得なくなっている。……馬鹿げた話だろう。」
「……興味が無い。」
 シャアはそう答えて目を伏せた。……俺では汲めないな、と思った。伏せた瞳の意味が、その名前の重さが、この目の前に立つ男の真意が。……自分では汲めないな、とボギーは思ったのだ。俺はニュータイプではない、前線に共に立つ兵士ですらない、ましてやアムロ・レイとは程遠い。
「構わねぇよ。……だが、俺は俺の意地としてあんたを『生かす』。……今回だけはな。」
「……アムロに……」
 火が足元まで回って来た。……潮時だな、とボギーは思った。俺は凡人なりに、言いたいことは全て伝えたつもりだ。
「アムロに、これを。」
 目の前に立つ端正な顔の男が、胸ポケットから一冊の本を取り出した。……とても小さな、文庫というのだろうか、そういう本だ。
「アムロ・レイ大尉に?」
 ボギーはその皮張りの本を受け取った。……本のタイトルは『クリュニー派とシトー派』だった。一体何の本だろう。中程のページに折り目がつけてある。
「……見ても構わないか。」
「意味が分からないと思う。」
 それでもボギーはページを繰った。……そして、折り目の付けられたページの、傍線の引かれた文章を読んで目を細めた。
「……これを、アムロ・レイに?」
「……それを、アムロ・レイに。」
 ……呆れた。……それでお終いだった、もう本当に屋敷が崩れる。……二人は部屋を飛び出した。



「……カイだ。」
『こちら、ラー・カイラム艦橋。』
「……アムロが撃たれた。このまま香港に運ぶ。ボギーの……三課の手配した小型艇で宇宙に上げるからちゃんと受け取れ。」
『……一緒に来ないのか?』
 香港へ向かう軍用ヘリの中からラー・カイラムに連絡を入れたカイに、驚いたような声でブライトが答えた。砂荒らしの多い画像では細かな表情までは読み取れない。
「あぁ。……俺は地球に残る。……俺には、地球で、」
 カイは脇に横たわるアムロを見つめて呟くように続けた。
「……まだやることが山とあるんだよ。……以上、通信終わり!」



 ……宇宙世紀、0091、九月二十八日。軌道上に待機していたロンド・ベル隊旗艦、ラー・カイラムに一隻の小型艇が接舷し、全ては元通りに納まったかのように、見えた。











2006.08.27.




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