耳元で硝子のような何かが砕ける感触がした。
音は聞こえず、『感触』だけを感じたのだ。
夕日の眩しさに瞳を閉じていたアムロはゆっくりと目蓋を開いた。
まるで世界が変わって見えた。
「……何をした。」
「何の話だ。」
「俺に何をした。」
「何もしていない、ただ話をしていただけだ。」
目の前で今度は、シャアが本を立てていた。皮張りの立派な本だものだから、どれも机の上に立つ。シャアはまるで積み木で遊ぶ子どものようにそれを並べて笑っていた。
「それも下らない話を。」
「……」
硝子など何処にも無かったのに、一体何が砕けたというのだろう。
「これは三つの宗教に渡って、一つの『本』が読み継がれた事実を示す良い例だ。同じ本であるのに、人々は違う解釈をした。しかもこの本を『使って』いるのはこの三つ宗教だけではない。イスラム教にもヒンズー教にも『旧約聖書』は影響を与えている。……しかし見方が違った。解釈が違った。呼び名が違った。」
うっすらと、何かが分りかけてきた。
「……私はね、アムロ。」
バン、とシャアが端にある『ビブリアヘブライカ』を軽く叩いた。本は倒れた。積み木が倒れるように三冊順番に。
「……『シャア・アズナブル』も同じものだと思っている。……元は同じだ。だが人々が勝手に解釈した、」
……ああ、ひょっとして砕けたのはこの世界を包む硝子か?
「……それも自分に都合の良い様に。」
「……全艦隊の進路変更には。」
「あと三分ほどかかります。」
「人員の召集は。」
「三十分以内に特殊部隊の経験のある志願者五名が旗艦モビルスーツデッキに到着します。」
「……急がせろ!」
同時刻、ラー・カイラムでは慌ただしく作戦行動の準備が行われていた。カイの掴んだ『四課』の情報は衝撃的だった。……そして、艦隊には一刻の有余も無いことが分かったのである。
アムロは軽く眉間に手を当てて数回頭を振った。それから、シャアに言った。
「……何となく分かって来た。」
「本当か。」
少し馬鹿にしたような顔で、窓辺に立つシャアは椅子に座るアムロを見下ろしている。……相変わらず夕日の中に逆光で立っている。
「じゃあ説明して見せたまえ。」
シャアはそう言うと、机を指差した。そこにはぱたりと倒れた三冊の本があった。
「……つまり、」
アムロは『タナク』を手に取った。
「これが『エドワウ・マス』。」
「それで?」
次にアムロは『オールドテスタメント』を手に取った。
「これが『クワトロ・バジーナ』。」
「それで?」
……机の上には『ビブリアヘブライカ』だけが残った。アムロは何故か息が苦しくなった。……硝子は砕けたはずなのに。……世界を包む硝子は砕けたはずなのに、なんだ、これは。
「……そしてこれが『シャア・アズナブル』……ってことだろう。」
シャアは何も言わずに『ビブリアヘブライカ』を手に取った。……苦しい。分る。
「……そうだ。君はなかなか優秀だな。……そして、違う名前が付いていながら、中身はただの……」
どうして。
「ただの『キャスバル・レム・ダイクン』だとしたら?」
次の瞬間、彼は手に取った『ビブリアヘブライカ』を思いきり床に投げ捨てた。その感情的で唐突な行動にアムロは驚いた。
「……下らないと思わないか。」
そう低く囁くシャアの夕日に染まった顔は、とても冷静に見えた。「聖書」を床に投げ捨て、踏みつぶしそうな勢いでありながらその顔にはもはや表情が無かったのである。……それはとても病的に思えた。辛かったら辛いと言えば良いのだ。だからアムロは思った。
「世界がまったく、生きると言うことがまったく、下らないと思わないか。」
鬱病の人間の言いそうな台詞だ。
硝子が砕けた感触があった。俺は、世界の何らかの真実を知った。砕音は今も耳に残っている。だから。
……なあ、もしも『神』がいるなら。神とやらがいるのなら。
この世界の平和などどうでもいいから、
……この男を救ってやってくれないか。
『……この屋敷の持ち主が政府高官だってことはさっき言った。が、調べて行くうちにその『政府高官』こそが、ウスダだと分かったんだ。『ウスダ』と言うのはもちろんコードネームで本名はマシュウ・リー。十二使徒の一人の名前だな。「マタイ」だ。……チベットのこの屋敷は彼が幼い頃を過ごした場所なんだ。彼の父親は聖書考古学者で、そしてかなりの変人だった。こんな場所に、広大なビクトリア調の屋敷を建てるくらいには。』
ブライトは艦橋の壁面に表示してある大きな時計に目をやった。……宇宙時間九月二十五日午前十一時半、地球時間で九月二十五日午後四時半。
『奴は育って、連邦政府に就職した。大統領調査室だ。優秀な人間だった。ところが、グリプス戦役が起きた。軍はティターンズとエゥーゴに分かれて内紛を起し、連邦政府の内部もあの頃はめちゃくちゃだった。……そんな頃、驚いたことにティターンズのヤツらがウスダに接触したんだ。その理由がなかなかイカレてる。』
「時間が無いので簡単に説明する。……命の保証は出来ない。」
ブライトはラー・カイラムのMS格納庫に集まった兵達を眺めてそう言った。パイロット達は直立不動の体勢でその言葉を聞いていた。……アムロがここにいたら、ひどく怒ったことだろう。集まった兵は皆、彼が親身になって育てた兵士ばかりだ。
「本来モビルスーツ乗りである君達に、この任務が過酷であることは分かっている。……が、他に方法がない。明朝、ゼロキューフタマルに我が艦隊は地球、チベットに向けて特秘の降下作戦を行う。」
「……」
緊張が走った。
「極秘である性質上、地球降下艇は使えない。四課に気づかれるからだ。大気圏ギリギリまでこの艦で近付いて、モビルスーツを三機だけ地上に降ろすことになる。」
……まるで特攻だ。
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2006.08.07.
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