・・・・・・・・・しゃり。
一陣の風が不用意に開けた口の中に砂粒を運んでくる。ぺっと砂ごと唾を吐き出してもなおざらざらした感触が舌に残る。・・・アフリカ。サバンナを模して作られた観光コロニーではなく、本当の地球上のアフリカ。
大小様々な石が、勝手気ままに転がって、普通に歩くだけなのに歩きにくい。その上段々と足の裏が熱くなってくる。
・・・そうか、地熱か。
燦々と降り注ぐ太陽の光が、あり余るエネルギーとなって、靴を履いていてさえ大地の熱を伝える。昔、熱くなった車のボンネットの上で卵を焼く映像を見たことがあったな、と男は思った。
『灼熱の大地』
・・・ごろごろした、焦げそうな、身にどんよりした風が纏いつき、・・・・・・・・・なんと鬱陶しい。ブーツが編み上げ靴を履いてくるべきだった、と、宇宙暮らしの人間が持つ常識の足りなさに心の中で舌打ちする。
(まぁ構わぬ。この地で過ごすのも今晩限りだ。明日にはオーストラリアに向けて飛ぶ。再びこの地に立つこともあるまい)
男がこれから実行しようとしているオペレーションにおいて、アフリカの大地を再び踏むということは、一部の番狂わせを意味していた。二手目を確保するために、直にオーストラリアではなく、ここアフリカに降下したのだが、それを実際に行なうことは無いと思っていた。いつも己が進むべき最良の道を、男は信じていたのである。
初めての地球。空港で借りたジープを運転してキンバライドまでのドライブ。ここ二年、『茨の園』という限られた空間で暮らしてきた。だから任務の一部であるこのドライブを少しは楽しみにしていた。島3号型のコロニーの最長のものですら45kmほどしかない。このジープなら1時間もかからない距離だ。つまりコロニーや茨の園では、ドライブする、という娯楽は、あり得ないものだったのだ。しかし実際に走ってみると、快適さとは無縁の道行きが続き、男は失望せずにはいられなかった。
なにせひどい道だった。舗装されているのは、町や村の中心らしき場所から前後100メートルといったところか。ドラッグストア(と呼ぶのもおこがましい店構えだが)を兼ねたガスステーションといくつかの店とみやげものを並べた露店が並ぶ、変わり映えのしない小さな町をいくつか通り過ぎた。
ほぼ2時間ごとに、5分ほど車を停めて休む。青々ではなく茶色と緑のまだらな草原を眺めながら、体を伸ばす。この時間もドライブ当初から計算されたものだ。休憩を挟んでもランデブー予定地には、定刻に着けるだろう。キンバライド基地の人間と落ち合って、基地に向かう手筈になっていた。連邦の目からですら三年以上も隠れている基地を、宇宙から来た男が地図のポイント表示だけで見つけ出すのは難しかったからである。
でこぼこ道をそれでも順調に飛ばした。3度目の休憩で、男は少しアフリカの感触を味わってみたくなった。さいわい最終地点までは、あと1時間も走ればよい。まったく渋滞は無かったし、この先も無さそうだ。この分では予定より早くに着いてしまう。ここで調整しても構わないであろうと。
いい加減、尻の肉がかちかちになりそうだった。モビルスーツのシートには比ぶべくもない座り心地だ。最初、スピードの出る車種を、と言ったら、スポーツカータイプを勧めたのはレンタル屋だった。だがサバンナに行くと言ったら、この系統しか貸せないと言ったのもレンタル屋である。たしかにスポーツカーでは、腹をこすりそうな道ばかりであった。
見渡す限り、一台の車も走っていない。右側も左側も赤茶色の地に潅木が点々と立ち、ずっと走ってきた道とこれから走る道だけが、大地を切り裂いた傷痕のように見える。誰も通りそうになかったが、車のエンジンを切りキーを抜いて、男は車から降りた。
向こうにはもっと高くて葉の生い茂った木もあるな。・・・この灼熱の大地に。ここからは見えないが川でもあるのだろうか。
そんなことを考えながら歩いていると、すぐに靴の裏が熱くなった。あまり歩き回るわけには、いかんか。男は早々に散策を切り上げ車に戻ろうと思った。・・・だが、
「ーーーーーーーーーむ!」
(殺気っ?!)
一瞬、空気が凍りついたような気がした。・・・こんな場所で。まさかな、気のせいだ、と。だがこれまでいくつもの戦場で生き残ってきた、最高の武人だけが持つ天性の何かが男に危険を告げていた。そう感じた空間へ視線をやる。そして、男は自分が正しかったことを知った。・・・もしも振り向くのが遅ければ、その一瞬で命を落としていたかもしれない。が、今とてやはり危い。
薄いはしばみ色のガラスでできたような美しい瞳が、しかし鋭くこちらを睨んでいる。低くうねる体。四肢に見てとれる緊張。この黄色と黒の体毛は・・・、
一匹のヒョウが、・・・・・・・・・そこにいた。
地上の星
アナベル・ガトーが、アフリカに降り立ったのは、宇宙世紀0083年10月9日のことだった。茨の園から月へそれからアフリカへ最後に地方便に乗り換えと、手順を踏んでやってきた。計画通りガンダム試作2号機を奪取して宇宙へ戻る際は、コムサイで一気に駆け上がる予定だ。しかし奪取するまでは何より隠密を旨とする。それには一般旅行客に紛れ込むのが良かろう。あまり長く地球にいないこと。いればいるだけ、いらぬ足跡を残すことになる。どこからか身元がばれぬとも限らない。貴重な便である地球行きのシャトルがこちらの都合でおいそれと選べるはずもなく、それでも最良の便を選んだのだった。予定通りなら、明日はオーストラリアに向けて飛ぶ。そして13日には、再び宇宙(そら)に帰る。
・・・だが、今ここで、その計画が潰えてしまうかもしれなかった。身には銃ひとつなく、体を被う布は薄く、生身の力だけでこの野生を前に何ができるだろうか。
しなやかな体。黄に黒の斑点のある大型の猫のような生き物は、・・・ジャガーか、・・・・・・チーターか、・・・・・・・・・ヒョウか。
まずは動かないことだ。視線を外すのもだめだ。照りつける太陽を背に獣と対峙しながら、不用意に車から離れたことを後悔した。目を反らしたら負ける、と見続けていたせいだろうか、やがて色々と見えてくるようになった。まず模様が、・・・黄に黒の斑点だと思っていたが、その黒い斑点のなかにまた黄色っぽい色が見える。たしかチーターではなく、ジャガーやヒョウがこんな模様をしてなかったか?・・・そうだ、それにジャガーはアメリカ大陸の生物だったはず。・・・・・・・・・たぶん、ヒョウだな。
その種類がわかったことで一分(いちぶ)ほど気持ちがすっきりしたように感じたが、まったく気は抜けない。
・・・・・・・・・おや?
まだら模様に混ざる不協和音。よく見れば、左目がない。ケンカの跡だろうか、目の上あたりから頬まで、五条の引っかいたような傷。地肌がむき出しになっているのだ。ちょうど星のような形に見えた。・・・よく見なくても一目でわかるほどの。
・・・なるほど、私もさすがに冷静ではなかった、ということか。
危機的状況に変わりはないが、頭はちゃんと回るようになったらしい。・・・・・・・・・大きな傷。生きている以上、左目を失うほどの『戦い』には勝ったのであろう。
(・・・いや。・・・・・・・・・この私とて、撤退したままこうして生きている)
ヒョウの生きるための戦いの結末を勝手に想像した自分を、ガトーは恥じた。よしんばその戦いに勝ったのだとしても、この大地で片目のヒョウがこれからも生きていける保証はない。ガトーの未来に何の保証もないように。本来、野生の動物が五感の一部を失うということは、死に等しい。その見えない側から敵に襲われたとしたら?
・・・案外、五体満足なヒョウよりも上を行くのかもしれぬな。聴力が発達してるとかで。
傷口には生々しさはなかった。戦いの跡だとしたら、ずいぶんと前のものだろう。このヒョウは、その戦いの後も生き続けてこれたのだ。
(しかし私は餌になる気はないぞ)
こんな場所でひとりヒョウに食い散らかされたら、・・・死体はきれいに骨だけになるだろうし、ドックタグも着けてないから骨だけでは身元がわからないだろう。車から足がつくかもしれないが、そもそもレンタル屋に見せたのは、偽造IDカードである。土地の人間が骨を見つけて弔ってくれるか。あるいは大地に返るまで放っておかれるか。・・・・・・・・・大笑いだ。
ヒョウはまだこちらを見ている。戦闘態勢(とガトーは信じている)も解いていない。とうとう辺りが暗くなってきた。夜行性かもしれない。たぶんそうだ。このままでは、さらに状況が悪くなる。顔をヒョウに向けたまま、少しずつ後ずさって車までたどり着けないだろうか。
だが一歩を足を下げた瞬間に、ヒョウがニ歩前に進み出た。・・・止まるしかなかった。ずっと立ったままで、足も疲れた。だが座ると体が小さく見えて危ないのではないかという気がして、座るに座れない。
・・・・・・・・・そうか。おまえも驚いたのかもしれないな。
とうとう太陽より月がまぶしくなった。月のある夜で良かったと思った。うすぼんやりとしたヒョウのシルエットの中で、その瞳だけが光をはっきりと写している。おかげでまだその瞳を睨んでいられる。
不意に現われた侵入者は自分の方である。土地の人間なら、この辺りをうろつくこともないのかもしれない。お気に入りの草むらの中で、午後のまどろみをむさぼっていたところを私に邪魔された、・・・とか。
(きれいな獣よ。できるならこのまま立ち去ってくれ。戦うなら、私も全力で戦う。おまえを殺したくない)
常識で考えれば、負けるのはガトーの方だ。・・・・・・・・・だからこそガトーは、最良の道のみを揺るがず信じていたのである。数瞬、ガトーの身体から殺気が消えた。
(・・・んっ?)
不意に目の縁を何かが横切る。思わずそちらを見てしまう。・・・・・・・・・満天の星に、・・・流れ星ひとつ。
(抜かった!)
ヒョウから目を反らした自分を悔いつつ、視線を戻す。数メートルのところまで近寄ってきてるかもしれない。心構えと身構えと、・・・しかし、
そこに、ヒョウはいなかった。
「どこだ!どこへいった!!!」
ヒョウと会ってから、初めての大声をあげて辺りを見回したが、きらりと光る瞳は確認できない。
・・・・・・・・・すると私は助かったのか。
「・・・・・・・・・は・・・はははっ・・・・・・・・・・はははははっ!」
気が抜けて、本気で笑った。灼熱の、だがもう冷めた大地に座りこんだ。さっさと車に乗るべきだろうが、なぜかガトーには、あのヒョウはもう戻ってこない、気がしていた。・・・そう信じられた。
足が痛い。寝転がってみた。星が迫るほどに輝く。見なれたはずの星が、やけに眩しい。・・・そうだ。地球から見る星は、汚れた大気のせいで、まさに『瞬いて』見えるのだ。
宇宙では、星は窓を通して見るものだった。地球では、大地を背に自由に見ることができる。地球にだけ許された光景。なのに何故こんなにも美しいのだろうか。
命を拾った夜、星々のきらめきを十分に堪能しながら、もう二度と地上(ここ)から星空を見たくはない、と思った。
・・・・・・・・・結局、予定より4時間近く遅れてキンバライド基地に到着したガトーは、多くを語らなかった。自分の不注意さを話すのも不愉快だったし、何よりあの奇妙な出会いと別れを、あの最後の瞬間を、他人に伝わるように話すことはとてもできないとわかっていたからである。この基地の司令官であるノイエン・ビッター少将にだけ、失礼のない程度に告げた。
「ここに来る途中、ヒョウに会いました。・・・・・・・・ヒョウ、だと思います。私は初めて見たので。」
「ほう。」
ワインの入ったグラスを傾けながら、ビッターが聞いている。閣下の私室は、質素な調度しかないが、落ちついた気持ちのよい部屋だった。壁には歴戦の勇士に相応しく、同胞の写真が何枚も飾ってある。
「片目を怪我していたようで、・・・その模様が星のように見えて、随分と印象的なヒョウでした。」
「・・・少佐は、正しい。」
「は?」
不覚にも、目上の人間に対し疑問形で答えてしまった、・・・とガトーが考えている間に、
「あのヒョウは、その名をエトワールというのだ。」
ビッターの言葉は続く。
「土地の者の話では、あのヒョウは吉兆だそうだ。めったに会えるものではないが、だからこそ、良き事の印だと。・・・良かったな、少佐。」
「はっ。」
・・・・・・・・・ではあのヒョウは、伝説になるほどの時間を、片目で生き抜いてきていたのだ。
翌日、ガトーはアフリカを旅立った。本物の星ではなく、『エトワール』だけを胸に秘め、オーストラリア・連邦トリントン基地を目指して。
・・・・・・・・・宇宙世紀0083年10月13日15:00、『星の屑作戦』は始まる。
+ End +
注:etoiles【エトワール】(仏)星
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