眼鏡






 別に当番でない日でも、この部屋は毎日訪れている。
「……うぅん……」
「……何やってるんですか、先生?」
 その日の放課後人気のない図書室に顔を出すと、書架の合間に奇妙な物体が見えた。……奇妙な、というか見慣れた、というか。それは袴姿の下半身である。
「そっ……その声は久藤君!」
「はい、先生。」
 自分のクラスの担任教師が書架の下に腕を突っ込んで器用に唸っていたのであった。手に持っていた本をカウンターに置き、先生の側に寄って行く。
「絶望しました……」
「そうですか。」
「め、眼鏡を落としてしまったんです、ちょっと転んでしまって、そうしたら眼鏡のヤツが上手い具合に書架の下に!!」
「なるほど。」
 埃だらけの頭を上げて自分の方を見るその顔は、なるほど眼鏡をかけていない。どうかな、と思いつつもとりあえず言ってみた。
「……ちょっと交代して下さい。僕の方が少し身体が小さいですから、手が届くかも。」
「え、拾ってもらえるんですか。」
 嬉しそうな顔をしながら先生はゴン、と後ろの書架に頭をぶつけている。ああ、だって本当に殆ど何も見えないものですから! という言い訳がなんだが面白かった。
「……」
 自分は取りあえず屈んで、書架の下を覗き込んでみる。……なるほど、実に手に取りづらそうな場所に見慣れた眼鏡が滑り込んでいるのが見えた。
「……物差しとかあったらいいんじゃないですか。」
「物差し?」
「……あぁ先生はよく見えてないんでしょう、ちょっとそのままで。」
 ゴンゴンゴンゴン頭をぶつけまくっている担任はそのまま放っておいて、自分は図書室のカウンターの中に物差しを取りに行く。
「……よいしょ。」
「……すいません……」
 先生は反省しているらしいのだがやはり辺りはよく見えないらしく、目をごしごしと擦っている。
「届き……そうなん……ですけど……先生。」
「なんでしょうか、久藤くん。」
 がっ、と物差しの先が眼鏡にひっかかった。
「……そんなに『見えない』んですか。」
「はあ、絶望的に見えないですよ、そりゃ。」
 眼鏡は書架の下を、静かな音を立てて滑り出して来た。……自分はそれを素早く手で隠すと、少し離れたところで待っている先生を振り返る。
「あの、スペアとか無いんですか。……眼鏡。」
「家に帰ったら古い眼鏡がありますよ。……ただこの状態だと、家にまともに帰り着けるかどうか……」


 急に意地悪な気分になった。……どうしてかなんて分からない。


「……先生、」
「はい?」
 出来るだけ落ち着いて、出来るだけさり気なく、僕は先生に言った。
「どうも、この物差しじゃダメみたいですね。なんて言うか挟めるみたい物じゃないとダメですよ。……家にあると思うから、明日僕が持って来ますよ。」
「……そうですか……」
 絶望した、と言わないまでも先生はガックリと肩を落とした。少し心が痛まない訳でも無かったが、自分は取り出した眼鏡を素早く学ランの胸ポケットに隠す。
「……僕、今日はもう帰るんですが、良かったら送って行きますよ。」
「生徒に送って貰う訳に行くものですか!」
 先生は強がったが、図書室すらマトモに出ることが出来ずにまた書架に激突した。
「!! ……痛いです……」
「どうせ帰り道なんですから、気にしないで下さい。」
「……じゃあすいません、職員室から鞄を持って来ないと……」
「はい。」
 夕暮れ時の図書室に、天井の高いその部屋に気づけば随分美しい西日が差し込んでいた。


 街の少し高台にある学校から丘を下ってゆくと、桜並木のある公園に出た。階段の多い帰り道でやはり先生が転びそうになるものだから、僕は途中で強引に先生と手を繋ぐ。
「……生徒に引率してもらわないと家に帰れないだなんて、教師失格です……」
「気にしてませんよ。」
「久藤くんは優しいですね。」
「……」
 いいえ先生。全然優しくなんかないんです。
「……明日には元通りですから、呆れないで下さいね。」
「……はい。」
 先生、全然優しくなんかないんです。……先生と手を繋いで帰りたいが為に眼鏡を隠してしまうくらい、


 僕は優しく無いんです。


「それじゃあ、また明日。」
「はい! スペアの眼鏡、へんなのですけど笑わないで下さいね!」
「じゃ、朝一で図書室に来て下さいよ、僕拾って待ってますから。」
「そんな! ……じゃあそうします。」
 先生の家の前で別れて手を振った。……角を曲がって先生に見えなくなってから、胸ポケットから眼鏡を出した。……先生の眼鏡だ。
「……すごい度。」
 もう日も随分暮れ切ってしまった。面白半分で眼鏡をかけてみた。クラリと世界が回った。……これが先生の見ている世界。本が好きで、沢山読んで絶望したりしている間に、そうして目が悪くなってしまった先生の世界だ。
「……帰ろう。」
 何やってんだろう、と思った。……少し切なくなった。


 ……明日は眼鏡を返さないと。














2007.03.16.










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