呪文
ザーン ハッテ ムンゾ ムーア ルウム リーア ノア
地球(北米大陸):オークリー基地:0084.08.15.
おおよそ「文系」と呼ばれるような学問の分野に、自分はずいぶんと縁が無かったのだとコウは改めて実感していた。縁、というよりはもちろん『興味が無かった』の方が正しい。コウが旧ヨーロッパ地区で出た小学校の授業にも中学校の授業にも当然「地理」や「歴史」や「文学」の科目はあったし、それなりには勉強したはずなのだが面白いくらい記憶に無い。例えば、『旧ヨーロッパ地区で』。この一言の台詞にさえもきちんとした意味と由縁があるのだ、ということに長らく気付いて来なかったことに改めて気付いたのであった。
「・・・・本の虫みたい。今からそんなにいろいろ勉強して、いったいどうするの?」
非番の日に、光の溢れる談話室で『分かりやすい世界の歴史』という情けないタイトルの大判の本をしかめつらしく広げていたコウに声をかけたのは外から入って来たらしいニナだった。
「・・・・あれ、ニナ。今日非番だっけ。」
「違うわよ、ちょっと届けないといけない書類があって。・・・大体、私嘱託で来てるんだから軍人じゃないんです、非番も何も無いわよ。」
ここ、オークリー基地に放免されて流れて来たコウが驚いたことには、旧友のキースと艦隊所属だったはずのモーラ、おまけに民間人でルナリアンのはずのニナまでもがここに居た、ということだ。・・・・驚いた。それから、単純に純粋に、嬉しかった。・・・・そうだな、嬉しかった。何やってるんだこいつらは、こんなところで俺を待って。・・・・俺を待って。そう思いたかったし、そう思うくらいは別にそんなに罪じゃ無いことだろう。罪は、見渡す基地周辺の平原にこそ溢れていた。嫌と言うほど毎日毎日、焼け焦げた大地を見なければならない。コロニーの落着の衝撃で、舞い上がった塵が引き起こす不安定な天候の元、誰もが苦しんでいた。・・・俺だけでは無い。うまく農作物を作れない農民の人々も、失った家族の事を思い泣きくらす人々も。それに比べたら、暇そうな諜報部の連中が一人や二人張り付いているくらいの俺の生活の不自由などなんだ。
「・・・・これ、」
コウはニナが仕事の途中だとしったが、それでもちょい、と指を差し招いて自分の広げている本を見せた。ニナはちょっと考えてから後ろに回って来て、なあに、と一緒にその本を覗き込んだ。
「・・・・俺はずいぶん子供だったと気付いた。」
「それはまた唐突ね。・・・・それから、このページにはそんな内容のことは全く書いて無いわね。」
コウが広げていたのは、地図のページであった。それぞれの時代の地図が、幾ページにも渡って書いてある。大きな本だったので、めくるのも大変だったが、コウはそれをメソポタミア文明の頃から順にめくっていった。
「・・・・不便だわ、これ、ディスクにはなって無かったの?」
コウがページをめくる毎にその大きな紙が動くのを避けるために覗き込んでいる体を起こさなくてはならなくなったニナが、少し笑いながらそう言った。もっともな台詞だった。コウは答えた。
「いや、多分・・・・この大きさで見ないと、俺はこういうの苦手だから分からないだろう、と思って。たとえば、機械の設計図みたいのだったら、どんなに小さくても分かるんだけど、地図はこれくらいないと。」
ニナはどう思ったのか少し考えた。大航海時代。・・・・コウは歴史地図をめくり続けてゆく。
「それで、ここ・・・・・ここから、この次のページから、急に変わるんだ。」
そう言って、難しい顔をしてコウが指差しているのは、地球連邦成立、という地図であった。・・・コウはゆっくりと次のページをめくった。
「・・・・・ああ、」
ニナは思わず嘆息した。・・・・そこから、地図の大きさが変わったのである。いや、正確には世界が二倍の広さになって、それまで見て居た部分が世界の半分にも満たなくなったのであった。・・・・コロニーが建設されはじめたのだ。『世界地図』に宇宙が現れたのであった。
「ザーン・・・・これがサイド1のこと。ハッテ、ムンゾ、ムーア。これが、サイド2、3、4。ルウム。・・・ルウム戦役で有名なルウム。これがサイド5。リーアがサイド6。ノアが、サイド7・・・・」
いつ頃に発行された本なのだろう。その本には、ムンゾ<サイド3>の下に小さく『ジオンエンパイア』と書いてあった挙げ句に、ノア、すなわちサイド7に至っては「建設予定」とまで書いてあった。
「・・・・・分からなかったんだよ。」
コウはそこで急にそう呟くと、片手で頭を掻いた。
「・・・・そう言われれば、小学校の授業で覚えさせられた気がする。『ザーン、ハッテ、ムンゾ、ムーア、ルウム、リーア、ノア』・・・呪文みたいだと思った、なんで覚えさせられているのか分からなかったんだ、ただテストに出るから、と思って覚えた。『ザーン、ハッテ、ムンゾ、ムーア、ルウム、リーア、ノア』。・・・それぞれに意味があることに、俺は気付かなかったんだ、だってニナ、分かるか?この七つのサイドのうち、」
コウは急にニナの方を振り返った。
「四つはもう無い。・・・・今はもう残骸なんだ、サイドとして機能していない。・・・・この地図ももう古いんだ。・・・・そういう意味に気付かなかった、気付かないままに俺は宇宙に上がった、何も見えていなかった、そして・・・・・・きちんと分かっていた敵に、この世界地図の意味が分かっていた敵に、宇宙からものを見ることが出来ていた敵に・・・・・・・・めちゃくちゃに負けた!」
ひどい勢いでコウが急にそう叫んだのでニナは焦った。そして、慌てて書類を抱えていない方の片手で、コウの片手を掴んだ。
「・・・・そう、そうね、でも私、もうあなたを子供扱いしてないわ。・・・これからもしないわ。」
それからまだ足りないかと思って、その手を握りしめた。
「・・・・あと、月は昔と変わらずあるわね、良かったわ。」
それでもまだ足りないかと思って、ニナは結局書類を放り出すと、コウのもう片方の手でコウの手をさすった。
「・・・・間に合わないことはないわ。全然無いかと思うわよ!・・・・・人はそれぞれのスピードで、出来る限りのことをするしかないわ。」
子供扱いしない、という台詞と、随分裏腹の行動を取りつつも、ニナは自分自身も何かに気付いて急に顔を上げた。
「・・・・そうだわ、だって、今私は自分が随分大人のような気がしているけれども、十年も経ったら、」
コウはというと、膝に大きな本を載せたままニナの手を掴んでおでこの前あたりに持ってゆくと、ひどく唸っている。・・・・それは実に悔しそうな、腹の奥から湧き出るような唸り声だった。ニナは実に納得して、勝手にこう言った。
「十年も経ったら、きっと今日この日の自分は『ずいぶんと子供だった』と、そう思っているに違い無いもの。・・・・そうやって少しずつゆくしかないわ。」
サイド7(ノア):グリーン・ノア:同0084.08.15.
その十四歳の少年は、ずいぶんとふてくされて居間のソファの上からテーブルに足を投げ出していた。彼はちょうど、『どうしてこの世にはこんなにものの分からない人間が多いんだ』という深い命題について考えていたところであった。きっかけは簡単だった、ただ、学校の決まり事として夏休みだと言うのにプールに行かなければいけない、とかそんなことがあっただけだ。長い夏休みの間に、たった二日だけだが。
「・・・・カミーユー!どうするの、なんで出て来ないの!?」
と、その時家の前の道路から、そう彼を呼ぶ声が聞こえて来た。・・・・聞こえているったら。
「置いてゆくわよー!行かなくって後で怒られたって知らないんだから!」
「・・・・聞こえてるったら!」
カミーユは遂に叫んだ。家の中には、いつもの事だが両親は居なかった、彼等にはそれぞれに、大変に重要らしい研究があるのである、まあ勝手にすれば良い。・・・・のだから、例えば自分もプールに行かない、とか、そんなこと勝手に出来ないものだろうか!
「・・・・置いてゆくからね!」
ファのそう叫ぶ声が聞こえて、なんとかあたりは静かになった。・・・例えば、裸でみんなでプールに入るとか、そんなバカげた事が嫌なのだ、いや、何故人々はこれをバカげたことだと思わないんだ?・・・・子供ばっかだ、ものの分からない、彼は思った、自分の方がずいぶんと回りの人間に比べたら頭が良い、それは確かだ、なんだって人はまあこんなくだらないことをやりたがるのだろうか!!
「・・・・くっそ、」
結局しばらくの間は居間のテーブルの上に足を投げ出したままだったが、ずいぶん経ってから、脇に置いてあったバックを掴むと、カミーユは家を飛び出した。・・・・暑い。・・・・コロニーの気候に夏なんか作るなよ!ほんと・・・バカばっかだ!
何をどうしたいのか、そのいら立ちはどこから来るのか、その意味は何だったのか、何年も経たないと彼には分からない。
サイド1(ザーン):シャングリラ:同0084.08.15.
「・・・・すげえ!」
「すげっ、」
「うおー・・・・・」
瓦礫の街で育った少年達は、その日も宝の山の中で遊んでいた、そうだ、ゴミの山と呼べなくもないが、それを宝の山、と呼んでも悪くはあるまい。ある日街に風が吹いて〜何もかも飛んでった〜、とは、このコロニーで戦後すぐに流行ったとんでもない流行歌の歌詞だが、すなわちこのコロニーは『一週間戦争』と呼ばれるもので穴が空き、それからはゴミ溜めのような状態でそれでも宇宙に浮かんでいるのだった、しかしそんなことは十歳のジュド−達には何の関係も無い。
「・・・・・」
このコロニーは、ときどき気候調節機能すらもおかしくなる。多分、今は夏なのだけれど、体中の体温がさらに何度も上がったような気がして、数人の少年達はさっき発見したばかりのお宝を覗き込んだ。・・・少し唾を飲み込んで。・・・・・エロ本だ!なんて凄いものを瓦礫の中から発見してしまったのだろう!
「・・・・おい、拾えよ。」
「おまえひろえって。」
「えんりょするなよ。」
結局、誰もがそれに手をのばさないので、ビーチャというすこしリーダー格の少年がそれを手にとった。
「うお、」
「うわあー・・・・」
「すごい!」
クラクラしそうなおねーちゃんの裸を前に、固まってしまった少年達に向かって少し離れて立っていた少年がもう一人、慌てて声をかける。
「・・・・まずいよ、だれか来るよ!」
うわー!!!と、全員がいそいで瓦礫の山から飛び下りた。こらぁ!というような叫び声を上げて途中までジャンク屋のオヤジが後を追って来たが、やがて諦めたらしく姿が見えなくなった。一応、危険なので子供は瓦礫には近付いてはいけないことになっている。・・・・でも!
「・・・・・ちょ、ちょっと、」
「大人ってかんじ・・・・?」
「そうだな、おとなってかんじ!?」
「また怒られるよ〜〜〜〜!」
暑い夏だった。誰もが分かっちゃあいなかった。・・・・分かる必要すら無かった。
誰もがいつかは勝手に、大人になるに違い無い。
サイド3(ムンゾ)旧ジオン公国、現ジオン共和国:ズムシティ:同0084.08.15.
誰もが不思議な心持ちだった。・・・・その日を、どう過ごせばよいのか分からなかった。その日は、かつてあった国の建国記念日だった。・・・・今はもう無い国の、建国記念日だった。彼等は負けた。・・・・負けたので、その日を祝うことは出来なくなったのである。祝うべきなのは、休戦協定と言う名の無条件降伏がなされた一月一日、その日になったのであろう。
「・・・・・・」
しかし、誰もが納得は出来なかった。とてつもないものを失ったのである。その日がかつて歴史としてあったことすら、軽々しくは口に出せないようになったのである。・・・・どう忘れればいいというのだろう。きちんと忘れることが出来るのだろうか。・・・・それが、解決なのだろうか。
「・・・・おかあさん?」
正午を知らせる鐘が鳴った。・・・・・誰もが弾かれたようにそらを仰いだ。四歳の少女は、この国がひとつ前の国だった時にはここに生まれていなかった。母親の様子に驚いてそれを呼んだ。そのせいで、手に持っていた風船がその小さな手から離れた。
彼女はどんな地図で世界の歴史を学ぶのだろう。・・・・風船は高く高く登って行った、おとうさんはあそこにいるのよ、と彼女が母親に教えられた、そのそら高く。
再び地球(北米大陸):オークリー基地:0084.08.15.
「ザーン、ハッテ、ムンゾ、ムーア、ルウム、リーア、ノア・・・・」
コウはもう一度、その呪文のような言葉を口にした。・・・・忘れないでおこう。もう、この世にない地名も。無くなってしまったその大地の名も。ちょうど、正午を知らせるサイレンがけたたましく、鳴り終わったところだった。
「・・・・って、きゃあ!困ったわ、私昼休みになってしまう前にこの書類を届けないといけなかったのよ・・・!」
先に、我に返ったようでニナがそう叫んで、ばたばたと放り出した書類を集め出した。
「・・・あー、ごめん・・・・」
「いいわよ!あ、それから久しぶりに四人で食事はどうかしら、キース少尉とモーラも今日は早番で上がりのはずなのよ、」
それじゃあね!と言って挨拶の口付けを軽くコウと交わすと、ニナは慌ただしく駆けてゆく。
・・・・うん、でもニナだって前はあんなんじゃなかった。だから、ニナだって大人になったんだ、少しずつ、自分の力で。・・・・コウはそんなことを考えながらもう一回膝に載せた大きな本を眺め混んだ。・・・・散々たる有り様の、『戦後』の地図を見てみたいものだと思った、しかしこの本にはそこまでは乗っていない。
「・・・・・分かる。今なら、理解出来る。」
コウは呪文を唱えながら全ての場所を指でなぞった。俺は、こういうのは苦手だから、だからこれくらい大きな本で勉強しないと。
「旧ヨーロッパ、旧アジア、旧北米・・・・」
地上から初めて、宇宙へ出た。人はそうやって、ゆっくりとゆっくりと地図を広げて来たのだ。
「・・・ザーン、ハッテ、ムンゾ、ムーア、ルウム、リーア、ノア・・・・それから月。」
分かる。・・・・絶対に理解出来る。やりなおせる。成長出来るはずだ、そうだ、俺も、皆も。・・・そうだ。今世界はどうなっているのか、だから自分は何をしなければならないのか、これ以上間違えないにはどうすればいいのか。・・・・・そんなことは、
ニュータイプじゃ無くてもきっと誰にでも分かる。
そしていざその時が来たら、今度こそ俺はきちんとやる。それまでに、血を吐いてでも理解出来る頭になってやる。・・・・コウは、その本を閉じると次の本を借りようと、図書室へと向かうために椅子から立ち上がった。
2002.08.09.
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