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第三夜****************** |
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伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
−−−−時は、明治八年。
その日、京都は大雪に見舞われていた。まだ薄暗く、家々から朝餉の煙りも立ちはじめたばかりかという時刻に、公(コウ)は出町柳の自分の下宿を出た。・・・と。橋を渡ろうかと鴨川の方へ、通りへ出ようとした時に、ふいにその足が止まる。
「・・・・・・・・?」
公は、雪が今朝がたまで降りしきっていた為真っ白なその家と家の間の路地に、不思議な『かたまり』を見つけた。・・・あれは何だ?・・・そう、ちょうど、人が。人が倒れているくらいの・・・・。
「・・・いや、人だ。」
くらいの、ではない。それは、倒れた人に雪が積もっているのだと確信した公は、駆け寄ろうとしてふいに草履の足を止めた。じんわりと、何かが。その人間からしみ出して、辺りに不思議な模様を作っている。・・・それは、淡い、薄紅色の。
「血だ・・・・・・・」
公は踵を返すと、今出て来たばかりの家に取って返した。大声で妻を呼ぶ。そうして、それを番所まで走らせた。
神戸で生まれ育った公が、この京都の街に出て来て2年程になる。公は神戸の蘭学校を出たのだが、勉強し足りず、この京都に出来たばかりという、英学校に入学していた。それは、まだこの国が鎖国時代に米国へ密航してまで行ったという1人の男が作った学校で、そこでは基督教と英語が学べるのだった。
「・・・全く触っていないのだが。」
妻の連れて来た警吏の人間に、公はそう言った。まあ、それは見れば分かるだろう。死体の上には雪が積もっているが、辺りの雪には近付いた足跡が無い。
「・・・こりゃあ・・・」
近付いて行って雪を払った警吏は言った。
「刀傷だな。・・・こう、首んところをばっさりと。」
「・・・自分は行ってもいいか?」
公がそう言うと、警吏はいいと言った。公は着物の上に巻いていた首巻きを軽く掻き合わせると、妻に家に戻るように言った。そうして、自分はやっと出町柳の橋の上に出た。
・・・その時。
「・・・・・・・・・・・・・・・鬼・・・・・?」
なんだろう。そう見えた。まだ人気の少ない、出町柳の橋の上の、自分が立っているのとは反対側に1人の人物が幻のように立っている。随分と丈の長い、なんと言ったろうか、洋装の外套を羽織って。
「・・・鬼なのか・・・・?」
何年ぶりだろう。五年ぶりか?公は、ある種の感慨を持ってその影を見つめた。朝日が雪に照り返し、時折吹く風もその雪を細かく巻き上げるのでなかなか視界がきかない。・・・しかし、公は走り出した。
「鬼!そうだろう!?鬼なんだろう!!??」
橋の上を駆けてゆく。自分の、雪を踏み締める音だけがその透明に静まり返った世界に、やけに大きく響いていた。・・・消えてしまうのでは無いかと思った。鬼は、また、いつものように。・・・自分が近付いた瞬間に。
「・・・公。」
しかし、鬼は消えなかった。・・・ただ、公が辿り着くのを黙って立って待っていた。
「・・・大きくなったな。」
この台詞を言われるのは何度目だろう。しかし、公は嫌な気はしなかった。
「・・・ああ、鬼もな。」
・・・・そういえば、鬼に。鬼に、太陽の下で合うのが初めてなんだ。公は、そんなこと考えていた。太陽の下で見る鬼は、相変わらず、この世の生き物とは思えない程、鮮烈に美しかった。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
「ふむ・・・実は、世帯を持った。去年、勧められてな。」
「ほお。嫁さんは美人か。」
再会した二人は、近所の開いたばかりの茶屋に上がり込んでいた。・・・もちろん、公には朝早起きをして出掛けなければならない用事が合ったのだが、それは既に鬼に会ったことでどうでも良くなっていた。
「どうだろう・・・良く分からないな。・・・鬼ほど美人じゃあないと思う。」
その公の台詞に、鬼は思わず吹き出した。
「そんな事を嫁さんに言うなよ。」
「言わない。」
店の奥では、店主が物珍しそうに二人を見ていた。いや、正確には鬼を、だろう。鬼、というのは、今公の隣にいる、見た目は異人そのものだが、実は半分日本人の男の事であった。多分、この京の街では、まだ異人は珍しいのだろう。それも、鬼のように日本語が話せる異人は。
「しかし・・・なんで鬼は京にいる?自分は、今学校で学んでいる。・・・まだ、と言うべきか。」
「うむ・・・自分の付いていた宣教師がな。この京に、教会を作ったので、俺も居る。・・・河原町の。」
ああ、と公は頷いた。それは、河原町カソリック教会の事だろう。鬼は、耶蘇の神をまだ開国前から信じていた。
「俺のとは・・・教派が違う。俺は、カナダ系メソジストの学校に通って居るんだ。」
「・・・意外だ。」
その公の言葉に、鬼は目を丸くした。
「貴様が、基督教を勉強するとは思わなかったな・・・」
「うーん・・・基督教を勉強している気は無い。・・・学んでいるのは、英語だ。」
公は答えた。
「適当だぞ?この国の人間は相変わらず。・・・俺の学校は、京都御所の真横に有る・・・天主様の家の真横にだ。基督教の学校がだ。おまけに、敷地は裏の寺から借りていると聞いた。」
「ああ・・・そんなものだろうな。」
そう答える鬼が、五年前よりやつれて見えて公は思わず言った。
「・・・鬼?」
「何だ。」
・・・一瞬。一瞬、消えてしまうのではと・・・・。
「・・・今日な。あの出町柳の、俺の下宿の間近で人斬りがあった。」
「・・・そうか。」
特に、感慨も無い様子で鬼はそう答えた。
「・・・興味が無いならいい。」
「いや・・・・。」
鬼は。鬼は、かつて人斬りをやっていて。更に二人は。・・・二人は、かつて身体を重ねたこともあるような関係だったのだが。
「・・・・・・・・遠い・・・・・・・・・・・・・。」
公のつぶやきを、鬼は聞き逃さなかった。
「・・・何が。」
「・・・・いや・・・・・」
鬼との。鬼との距離が。・・・この五年、公が考え続けたよりずっと。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも美しい。
二人は、茶屋を出た。鬼は、仕事が有るからもう行く、と言った。
「・・・出町柳の人斬りだがな。」
公のそう言う台詞を、鬼は随分と無表情に聞いていた。
「何だ?」
「・・・・鬼じゃ無いのか。殺したのは。」
まっすぐに見上げて来る公の視線を、鬼は暫くの間黙って受けていたが、やがて目を逸らすと言った。
「・・・何故そう思う、公。」
「・・・・・いや・・・・なんとなく・・・・」
「・・・刀傷でそいつは死んでいたのだろう。」
鬼は、その現場を見た訳でも無いのにそう言った。
「そうだ。」
公は答えた。
「・・・普通、誰も考えないだろう?・・・・・異人が、日本刀で人を斬るとは。」
公は、暫く絶句した。
「・・・・・・・・・・・・・・鬼。」
そうして、随分経ってから言った。
「何だ?」
鬼は、疲れた笑顔を公に向けた。
「・・・・俺と・・・・」
もし、言ってしまえたら、もし自分がそんな人間だったら、どんなに話は容易かろうと公は思った。
「・・・何だ?」
鬼がもう一回言った。
「・・・何でも無い。」
「・・・奥方によろしく。」
それで、全てだった。・・・随分と高く登った太陽が、粉雪を二人の周りにまき散らした。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
去ってゆく鬼の後ろ姿に向かって、公は叫んだ。
「・・・鬼!!・・・あんたは・・・それで、いいのか!!」
公は、もう何もかもが分からない子供では無かった。鬼は、人斬りを続けさせられていたのだ。それも、自身が信じた神の教会によって。・・・その矛盾に耐え切れずに、五年前も混乱して公を抱いたのだろう。それはいい。そんなことはもういいから。
「・・・公よ。」
それぞれの道へ歩みを進めた二人の間には、今烏丸通の四辻があった。・・・もう随分と、人が行き来する時間になっていた。
「俺は、何処に行っても異人だ。・・・面白いくらい。・・・この国で愛せたのは・・・・」
その言葉の続きは、公には聞こえなかった。・・・行き交う牛の曳く車の音。人々のざわめき。
「・・・・鬼・・・・!!」
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
その日、公は結局学校にも行かずに家に帰った。妻には、学校は急に休みになったと言っておいた。妻は、間借して居る家の目前で起こった人斬りの事で頭がいっぱいだった・・・公に、最近京では『基督教に批判的な人間ばかりが斬られる』とせわしなげに言った。
「それは・・・」
着物の袖に腕を突っ込んで組んだまま、公は答えた。自分は、すこし父親に似てきたかな、と思う。『基督教に批判的な人間ばかりが斬られる』のは、人々が異人を理解しようとしないからだろう。広い世界を、理解しようとしないからだろう。この国が、中途半端なままだからだろう。しかし、こんな事をこの妻に言ったところで、どれだけ理解してもらえるものか。
「・・・もう寝るといい。」
夕食の後、公はそう言うと、一人夜更けの街に出た。・・・雪が降りそうだった。
鬼よ。・・・貴様は、何をやっている。・・・この国は、確かに相変わらずだ。自分も、どんなに基督教を勉強しても、幼い頃に学んだ儒教や仏教の方が自分には合っているような気がする。・・・しかし。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
公は、知らぬ間に四条のカソリック教会の裏口に来て居た。・・・いつの間にか、辺りには雪が降り出していた。
おそらく、この扉を叩いたところで、鬼は出ては来るまい。だがそれでも、公は扉を叩いた。そうして叫んだ。
「・・・鬼!!俺だ、公だ!!・・・・頼む、出て来てくれ、鬼・・・・・!!!」
雪はどんどん激しく降って来る。公は、その規則的な雪の舞い落ちる様を見ながら、鬼と出会ってから先の十年間の事を思い出していた。・・・信じられないくらい鮮明に、それは思い出された。
初めて出会った時。公は死にかけていた鬼を助けた。鬼は、自分の信じるものを目指して突き進む、とても分かりやすい人間に
見えた。
次に出会った時。鬼は、異人そのものになっていた。公が、この先どうすれば良いのかも分からず思い悩んでいる間も、鬼は自分の信じる神のため、ここまで思いきって生きれるのかと、公はやはり鬼に惹かれた。・・・そうして、二人はまるであまりに違うものが惹かれ合うように、身体を重ねた。
そして、今。
「・・・鬼よ・・・・」
何かしらが分かるようになって、何かしらを失って大人になった公は、扉を叩いていた手を止めた。・・・いや、本当は。あまりに凍えてそれ以上手が上げられなくなったのだ。
「鬼・・・」
ずるり、と手が滑り落ちた。・・・ああ、自分は死ぬのかな、と公は思った。
そうか。
死ぬと言うのは、こんなにも簡単なことか。降り止まない真っ白な雪。白い。どこまでも。・・・自分は、凍死か。
「・・・・・・・・・・・・・・公・・・・・・」
意識を失う寸前に、誰かが扉を開いて公を呼んだ気がした。・・・自分は、基督教は勉強しているが、別にその神は信じてはいない。
「・・・・・・・・・・神様・・・・・?」
しかし、その瞬間、公は確かに何かに向かって願っていた。それは、鬼の価値観でいったら神なのだろう。・・・そう思ったら、言葉は口を突いて出た。
「頼む・・・・神様・・・・鬼を・・・・・。」
・・・どんどんと、激しさを増して舞い散る白い花びら。ああ。・・・自分の事など、どうでもいい。・・・本当に、どうでも。だから、頼む。
「・・・・・・・・・神様、鬼を・・・・・・・・・・・・・・・助けて。」
次の瞬間、暖かいものに公は包まれていた。
鬼は、雪降りしきる中馬を走らせていた。
・・・何処へ?そんなのは知らない。ただ。
「公よ・・・」
ただ。自分の命が消えようかという瞬間、自分の事では無く、他人の幸せを祈ったこの男を助けたいと、鬼はそう思った。・・・自分はもう、人斬りをやるべきでは無い。・・・そんなことは。そんなことは、もっと早くにどうでも良い事だと気付くべきだったんだ。
「死ぬなよ、公・・・・!!」
鬼は、遂に自分の教会を裏切った。全てを捨てた、それまで自分を立たせていたもの、全てを。
「公・・・俺は・・・・お前を愛しているんだ・・・・!!・・・神よりも・・・」
馬の背に、無理矢理自分の手前に乗せている公がやけに小さく見えて、鬼は不安になった。・・・京を出る。もうすぐ、伏見だ。
「神よりも、お前が好きだ・・・!!」
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
伏見の城下町に着いた鬼は、おびえる旅籠の主人をその流暢な日本語で納得させて、無理矢理部屋をとった。・・・とにかく風呂だ。・・・このままでは、自分を受け入れた唯一の人間が死ぬ。
「公・・・・」
風呂を借りて、公を浸けて、更にふとんに寝かせたが公は目を覚まさなかった。
「公・・・頼む・・・!!目を・・・・・・・・」
「・・・・おに・・・・・・?」
その時、遂に公が目を覚ました。
「・・・・そうだ。」
鬼は言った。・・・泣きそうだった。
「・・・・なあ。あんた、幸せか・・・・?」
「・・・・ああ、そうだな。今、何もかもやり直せそうな気がしている。」
「・・・そうか・・・・・」
公がそう言って目を閉じかけると、鬼が慌ててふとんに寝たままの公の肩を掴んだ。
「公!・・・・頼む、死ぬな・・・・・。」
そんな鬼の有り様に、公の方が驚いて鬼の頬を撫でた。
「何だ・・・・・・・鬼、俺は死なないよ・・・。」
「そうか。・・・そうか。・・・良かった・・・・。」
その晩、まだ雪の静かに舞い落ちる中、二人はただ幸せに抱き合って眠った。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
次の日、二人は観月橋から河を下る船に載った。・・・鴨川は、やがて下流で合流し淀川と呼ばれる河になる。
「・・・この国を出る。」
そう言う鬼の言葉を、公は淡々と聞いていた。
「・・・ああ。それが良いと思う。俺達には、それぞれまだやるべきことがあるのだろうと思う。」
冬の河に貼る薄氷を砕きながら、船は下ってゆく。白鷺が、やはり雪に覆われて真っ白な河原を低空で飛んでいた。
「・・・神戸に行こう。大阪にも外国船の着く港はあるが。・・・奥方は良いのか?」
鬼が聞いた。公は、小さく苦笑いした。
「うん・・・子供ではあるまい、大人しく待っているさ。」
「そうか・・・・」
公は思った。まさか、鬼と一緒に外国に行く訳にはいくまい。後少し。二人が一緒にいらるのは、本当に後少し・・・・。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
神戸の街は、相変わらずの雑踏にまみれていた。
「では、公・・・」
鬼が、そう言った。
「うん・・・・」
公も、そう答えた。・・・この街に戻るのは何年ぶりだろう。鬼は、すんなりと外国船に乗せてもらえることになった。それはそうだろう。最後まで自分を異質なものとして扱い、愛さなかったこの国には、到底馴染まない見栄えを鬼はしている。
「・・・・もう、行くが。」
「うん・・・」
鬼を。ここで見送れることを、公は幸せに思った。・・・自分は。
「あの、鬼・・・・・」
「なんだ?」
喧噪に満ちた波止場の中。外国船の乗り込み口に上がろうとする鬼に、声をかけてしまってから公は後悔した。
「・・・何でも無いさ。」
「・・・そうか。」
自分は、鬼を愛していた・・・初めて会った時からきっと。・・・そう言おうとして、公は止めた。一刻も早く鬼はこの国を出なければならない身の上だ。・・・人斬りとして追われ。人斬を強制され。きっと、その秘密を知る者達にも追われ。
「ああ・・・鐘が鳴っている。・・・俺は、本当に行く。」
「うん・・・」
公は、やっとの思いでそれだけ答えた。・・・鬼は、この船に乗って別の国に行く。・・・今度こそ、二人は本当にもう二度と会うことは無いだろう。
・・・何だったのだろう。この、自分の十年間は。
鬼を追い求め、そのようになりたいと願い、この国の混乱に目眩がするほど振り回された、この十年間は。
もう、鬼は船に乗り込んでいた。・・・公は、出港を告げる鐘の音と共に思わず船に向かって走り出した。
「・・・・鬼!鬼、聞こえるか!!!」
外国船の甲板の上で鬼はその公の声を聞いた。・・・何故か、船の桟から身を乗り出している自分の耳に、その声だけが鮮烈に
聞こえて来た。
「・・・お前が好きだ!!」
何の澱みもなく、船を見送る人込みの中から、その声が聞こえた。・・・その声だけが聞こえた。走っている。公が。船が、岸壁を離れる速度においてゆかれないように。
「お前が、好きだ!!聞こえるか、鬼!!・・・お前が!」
・・・この国が。自分を産んで、そうして愛さなかったこの国が遠くなってゆく。・・・おそらく、もう二度と見ることはないだろう。鬼は、公を、そうして公の後ろに広がる神戸の町並みを見つめた。海から急にせり上がる山。入り組んで、その狭い土地に作られている細かな町並み。・・・美しい国だ、ここは。・・・なんて美しい国なんだ。
「・・・公・・・・!!」
鬼の叫んだ声は、きっと公には聞こえなかったことだろう。公は、いま船を追うのを止めて、ぶんぶんと手を降っている。
・・・何故だろう。なぜ、公の声だけがこれほどに透き通って自分の耳に届く?
「・・・愛してる・・・・!!」
公は、桟橋の端に立って、顔をくしゃくしゃにして笑いながらそう叫んでいた。その、公の言葉に、鬼も答えたかった。
「公・・・公!!」
だが、その時船が港を出る合図の大きな汽笛をぼおーっと鳴らした。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
鬼は泣いていた。・・・思い出す限り、それは人生で初めての涙だった。
この国は美しい。・・・・遠ざかる神戸の町並みを見ながら、鬼はもう一度そう思った。
自分を受け入れなかった国。自分を愛してくれなかった国。・・・その中で。愛せたのは、ただ、公だけだ。自分の月色の髪の毛を、その夜空のような色の髪の毛で包み込んだ公だけだ。
鬼は、泣いていた。・・・そんなことで、この想いが振り切れるとはとても思えなかったが。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも儚い。
伝えられなかった想いは、きっと何よりも貴い。
伝えられなかった想いは・・・きっと、何よりも美しい。
もう一度、遠くに消えてゆく神戸の町並みを見る。・・・・いつまでもいつまでも。
涙は流れ続けた。
『月色。』おわり
00/05/17 初出 以後、随時加筆修正。