その日も、ロンドンは酷い天気だった。もっともこの国は「一日の中に四季がある」と言われるような国だから、十一月にもなったら誰もが天候の事は諦めている。諦めていると言うより慣れっこになっているのだ。
「・・・・・・ああ、」
「ったく。」
 そんな湿気った天候の中を、アールズ・コート駅から飛び出した俺と友人の二人は、とりあえずくたびれた風情でちょうど目の前にあったパブに飛び込んだ・・・・ここは、ヒースロー空港からロンドン市内に入って来た時最初に辿り着く、っていうのが重要な程度の駅であるから、駅前にはさしたる建物も商店街も無い。それでも、パブがあってくれたのは幸いだった。乗り継いで、もうわずかでいいから繁華街の方・・・例えば、ケンジントンなどに向かう気力は、もう俺にも友人にも残ってはいなかった。時間は、夕方五時を回ったばかりの頃。
「・・・・エール半パイント・・・・」
「俺もそれでいい。・・・・あ、いや、やっぱりワインだ。白ならなんでもいい。ホットで。あと、グラスで。」
 俺達は適当な注文をするとグラスとジョッキを受け取って窓際の席に陣取る。・・・・古びたその建物の小さな汚れた窓ガラスには、先程よりよほどひどくなった雨が音を立てて打ち付けていた。外はほとんど真っ暗で、ちょうど帰宅の時間帯なのだろうか、ス−ツ姿のサラリーマンが駅に向かって走ってゆくのが見える。
「・・・・ちょうど良かった。でも、今年は天気に祟られたな。」
「・・・・ああ、まあ。でも年に一回の事だし。」
 俺はそういうと、湯気の立つワインのグラスを口元に持ってゆく目の前に座ったコウの顔を見る。俺達は、二人とも先ほど駅に向かって走って行った人物と同じようにサラリーマンで、本来なら今日は平日で出勤しているはずだった。しかし、毎年この日には休みをとって顔をあわせるのが、そうしてとある場所に行くのが、俺達の習慣になっていたのだ。だから今日は休みを取っていた。
「・・・・そうだな。今年もありがとう、アムロ。」
「・・・・いや、まあ。年に一回の事だし。」
 それだけ言うと、俺も自分のエールのジョッキに口をつけることにした。・・・・おあつらえ向きの天気なのかもなあ。ぼんやりと、そう思う。
「・・・・来年も、一緒に行くか?」
「・・・・まあな、別に俺はいいけど。・・・・お前の気が済むまで付き合うけどさ。」
 ヒースローからの列車が辿り着く駅、にいるからと言って、俺達は別に飛行機で遠くへ行って来た訳では無い。ほんの少し、南東に向かってロンドンの郊外へ出て来たきりだ。用事はというと、墓参りであった。そうして墓は、サリー州にある。




 十一月十三日。・・・・その日に、墓参りをするのが俺とコウの、学生時代からの習慣なのだった。
















くだらない男

















「もう止めるか、って毎年思うんだけどな。」
 しばらく会話も無く、コウはホットワインを、俺はエールを飲み続けていたわけなのだが、急にコウが思い出したようにそう言った。
「・・・・今年で十年だから、止めるにはちょうどいいかな、とも思ったんだけど。」
「・・・・好きにすりゃいいじゃないか。」
 俺はそう答えてから、まてよ、ここで『最後まで』飲むのかな、と少し思った。・・・・そうしたら何か、つまみと、それからもう少し酒を頼んだ方がいいな。・・・・そのあとで、薄情なことに『今の返事は冷たかったかな』ということにやっと気付いた。
「・・・そうだな、結婚でもしたらどうだ。・・・・気分が変わるかもしれないぞ。」
 するとコウは、なんとも言えない顔で俺を見る・・・・先ほど少しだけ雨に濡れた髪は、もうほとんど乾いていたのだが、なんだかコウの頭というのはいつも濡れているように俺には見えるのである。それで、ジッと覗き込まれて俺は少し気前が悪くなった。大体、十年も前からコウの顔は変わっている気がしない。コウというのは東洋系の人間で、そして俺の同窓生で、東洋系というのは若く見えるものだとは聞いていたが、多少童顔を自負している自分と比べても、また別次元で若く見える。まあしかし世の中に童顔は多いからな。有名人で言ったらジャミロクワイとかが凄い童顔だよな。それだから、ジャミロクワイは鬚を生やしているんだ。俺も、たまには鬚でも生やしてみるかな・・・・と、そのあたりまで考えてあまりに明後日の方向に考えが飛んで行っているのに気付いてやめた。そこで、またコウに声をかけた。
「・・・・適当なこと言って悪かったな。」
「いや、適当でも無い。それは確かに、凄い解決策だろうと思うけどさ。・・・・実現出来たらな。」
 コウはそう答えると、アムロが手を上げるより先に手を上げて、カウンターの向こうに叫ぶ。
「エールをあとジョッキ二つ、半パイントづつ!・・・・ところで、ここ食い物は何かあるのか。」
「ジャガイモと豆くらいはあるだろうよ、パブなんだから。」
 俺はそう答えてカウンターの上に掛けられている黒板に目をやった・・・そして、そこに書いてあったメニューの中から初物らしいカキとプディングとカレーを頼む。
「・・・・アムロこそ結婚しないのか。」
「うちには穀潰しがいるからな。」
「・・・・ああ、シャアさんまだ一緒なのか?・・・・んじゃ、シャアさんと結婚しないのか。」
「法律変わったっけ?・・・え、この国も、男同士でも結婚出来るようになったっけ。」
 シャア、というのはこれまた俺が十年も前から一緒に暮らしている、いわゆるパートナーの男だ。正確に言うと知り合ったのは十年以上前なる。ちなみに、俺も男である。平たく言うとゲイなのだ。妙にまじめに答えた俺が面白かったらしく、コウはその返事を聞いて笑い出した。その日初めて見る、コウの笑い顔だった。
「あぁ・・・・結婚しちゃえばいいのに。」
「そんな感じでもないんだ。」
「そんな感じじゃ無いって、今さら。」
「いや、なんていうか面倒臭いんだ。」
 その返事がまた面白かったらしく、コウは更に笑い続ける。・・・保守的なこの国の良心ある人々が聞いたら眉をしかめそうな会話の内容だったが、別に俺は隠してもいなかったし、コウも大昔から、つまるところ十年前、学生時代からそのことは知っていた。・・・・何より、今日この日に毎年待ち合わせをして、そして墓参りにゆく、というその行動そのものが、実はこのゲイ話と関係があったのである。
「・・・・・面倒臭いだなんて、ひどく贅沢な台詞だ。」
 その時料理が出来上がってきたので、それを二人して黙々としばらく食べたあとに、何を言い出すかと思ったら、コウはそんなことをボソリと呟いた。・・・・まあな、贅沢って言ったらたしかに贅沢かもしれないが。
「・・・・・やべぇな。『この日に』雨降り、ってのが、初めてだったんだ、この十年間で。そうじゃないか?」
 すると続けて、コウはそんなことを言ってもうほとんど真っ暗になってしまった窓の外を睨む。・・・そう言われればそうだな。雨が降ったのは、初めてだったかもしれない。この『墓参りの日』に。
「・・・・・雨だな。」
「すごく雨だ。」
 それだけ言って、またコウが黙り込んでしまったので、俺はいろいろと考えざるを得なくなった・・・・そして最後には、まるっきり全部思い出してしまった、そう、そうなんだ、雨が降るのはあまり良く無い。・・・だって、十年前のこの日も雨だったんだ。
「・・・・・十年前のこの日も雨だった。」
 結局、コウが俺が考えていたのと全く同じ台詞を言って、俺は初物のカキを吸い上げながら(何故ならそれは、殻付きのまま出て来たからである、北東部からの直送品に違い無かった。)遠い学生時代の事を思い出すこととなった。・・・・最初に説明すると、ケンブリッジという大学はロンドンの真上、北の方に少し行ったあたりにある。









 ケンブリッジは、ウェセックスの上、サフォーク州とノーフォーク州の左隣にある。俺がケンブリッジに入った理由は簡単である。オックスフォードよりケンブリッジの方が理系に強かったからだ。いや、両方とも遅れていると言えば遅れているのだが、まだケンブリッジの方が良かった。なにしろ、ニュートンの出た大学である。このあたりは微妙だ。素直に工科系の大学に入っても良かったが、まあどうせなら行けるんだから行っておけ、とA試験を受ける前に俺では無く先生が俺の進路を決めた。どのみち、この国は、神学とやらを重んずるばかりに、理工系は立ち後れた国である。さてその大学で俺はコウという人物と出会った。彼は、東洋系のハーフの人間で(母親が香港人と聞いた、)同い年の人間だった。
 面白かったのは、彼が実に伝統的な『オックスブリッジ』(*オックスフォードやケンブリッジの学生の学生の事をまとめてこう呼び、大体においては保守的でブルジョア的な意味を指す。)的な人間だったのに対して、純粋にイングランド人の俺の方がよっぽど俗っぽかった点だ。コウというのは、どこか品の良い人間だった。実際、彼はトリニティの学寮などに住んでいた。俺は大学の外に下宿を借りていて、そのあたりは留学生と変わらないくらいのレベルだったのだが、コウはきっちりケンブリッジの伝統の中に住んでいる人間だったのである。
 しかし俺達は何故か仲良くなった。幾つかの教授の授業を共に受けていたし、つまるところ勉強していた内容が、興味の対象が似通っていたのだ。物理学の『光の速度』に関する学問は完全に行き詰まった状態で十年前と今でもあまり変わりは無いと思っているが、まあ二人ともそのあたりをつつき回して勉強していた。顔を会わせる機会が多ければ、やはり仲良くなる。俺は今でも覚えているが、その頃すでにシャアと一緒に生活をしていたので「自分はゲイなのだけど。」と言った時のコウの驚いた顔は今でも忘れられない。つまり、そのあたりが彼はオックスブリッジっぽかったのであって、ゲイ以前に、なんだか女とも付き合ったことがなさそうな、妙に朴訥(ぼくとつ)とした、だが憎めない人間がコウ、という存在であった。もちろんコウは、俺がゲイと知ったからと言って友人を止めるようなやつでも無かった。








 そんなコウがある日突然恋をした・・・・という表現で通じるだろうか。
「・・・・・まあ聞いてくれ、アムロ。」
 その日コウは見るからにおかしく、つまり魂の抜けてしまったような顔で町中にある俺の家を尋ねて来たので、俺は奥の部屋を見遣ってから家のドアを開いた・・・・前にも書いたようにコウは学内にある昔ながらの寮に住んでいて、俺は下宿を借りていたのである。当時から俺のパートナーであったシャアという男は、四つほど年上だったのだが親の遺産があるとかいうことで職にはついておらず、その頃から穀潰し、と俺はやつを呼んでんでいた、本人は「自分は小説家だ」と言い張っていた。まあ、それはいい。小説家と穀潰しの間には大差がないからである。
「・・・・なんだってんだ。」
 奥の部屋に隠っているシャアは出てくる気配が無かったし、まあシャアとコウは全く顔を会わせたことが無かったわけでもないので俺はコウをそうして部屋に入れた、そして適当な椅子に座らせると聞いた。
「どうしたっていうんだ。」
 コウは普段のコウらしくない非常にそわそわとした態度をとっていたが、やがて思いきったように話し出した。
「新学期が始まって、それで、俺は・・・・・」
 ああそうだ、確かに新学期が、『ミカエル祭学期(ターム)』が、十月になって始まったばかりの、それはそんな季節のことだった。
「・・・ああうん、始まったな。それがどうかしたか?」
 つまらない授業でも新学期に取ったのか。だったらやめてしまえよ、と言おうかと思っていた俺は、次のコウの台詞を聞いてぶったまげた。
「・・・・・好きな人が出来た。」
 思わず、一応煎れてやろうかと思っていたコーヒーのカップとポットを、派手にテーブルの上でぶつけて大きな音を鳴らしてしまったほどだ。その音に、さすがに気が付いたらしく奥の部屋からシャアが顔を出す。そして、無言でしばらく俺とコウを眺めていたが、やがて出て来ると「まあ私がコーヒーくらい煎れてやろう」と言って俺の手からポットを取った。
「・・・・・それはちょっと驚いたけど、そんなに大変なことか?」
 コウは几帳面に椅子から一回立ち上がって、シャアに小さくおじぎをしてまた座り込んだところだったが、俺はどっかりと椅子に座り込みながら聞いた、見るとコウはそれだけの話をしただけでどうしようもなく顔が真っ赤になっている。・・・・・・いやまて、俺も思わずつられて驚いてしまったが、まてまて、そんなにとんでもないことか?男が十九歳になろうというのだ、誰とどこで恋をしようと勝手だろうが。
「・・・・いや、大変とかそういう問題では無くて・・・・」
 シャアはさっさと三人分のコーヒーを煎れると、何故か自分の分の椅子まで引っ張って来てそ知らぬ顔で俺達の脇に陣取った、まったく抜け目が無かった。
「分かった、じゃあ順番に聞こう。・・・・・コウは、そういうのが初めてだからどうすればいいか分からなくて困ってしまって俺のところに来たんだろう。」
 忘れもしない、それは十月十三日のことだった。コウは、ほっとしたように何度も頷いた。シャアは面白気に煙草に火をつけた。
「よし、それは分かった。・・・・で、相手の名前は。何処であったんだ?」
「名前は・・・・・名前はアナベル・ガトー・・・・」
「可憐だ!花の名前だな、おまけにフランス風だよ、君、それは気が利いてる。」
 横から口を挟んで来たシャアの足を俺は思いきり蹴飛ばす。コウは困ってしまったようで、少しシャアの顔を見てなんともいえない表情を浮かべたが、続けて答えた。
「それで、大学で、留学してきて・・・・」
 大体の事情は分かったものの、俺にはアドバイスのしようもなかった。友達甲斐のない、と我ながら思った。・・・・・しかし、やはりそんなに大変なことか?普通に、友達になって、仲良くなって、それから・・・それからそうだな、告白とかすればいいだろう。
「えー・・・・・・えーっと。そうだな、それじゃ順番としては・・・・」
 俺が恋愛を指南する状況が面白かったらしく、シャアはニヤニヤしながら俺の顔を見ている。俺は非常にやり辛かったのだが、それでも何か言ってやらないとコウが可哀想だと思って続けた。
「・・・・・そうだな、まず仲良くなって・・・・待てよ、女の子だろ、女の子をデートに誘うには・・・・っていうか、その子はどこのコレッジ?・・・・理系だよな、サマヴィル?」
 俺がそこまで言った時に、急にコウは椅子から立ち上がった。・・・・・俺とシャアはさすがにビビった。何ごとだ?すると、コウは絞り出すように、一言だけこう言ったのであった。
「・・・・・・違うんだ!」
「・・・・・・な、何が?」
 コウは、もう赤いのだか青いのだか分からないくらいの顔で頭をぶんぶんと振っていた。
「・・・・・・違うんだ!だから、あの・・・・・・!!!」
 と、急に俺とシャアが半ば呆れつつ自分を眺めているのに気付いたようで、慌てて椅子に座り直す。それから額の汗を拭うと、絞り出すようにこう言った。
「あの、名前はアナベル・ガトーなんだけど・・・・・その・・・・・・」
「その?」
 俺より、シャアの方が先にピンときたらしい。やけに優し気な声で、いや、やつは便利にもそういう声をたくさん持っていたのだが、そのなかの一つで、コウにゆっくりとそう聞いた。コウは、息も絶え絶えな感じで答えた。
「・・・・・・・・男なんだ。」




 忘れもしない。・・・・十年前の、十月十三日のことだった。









 なるほど、アナベル・ガトーという『可憐な』名前の男は、実に見栄えのする男であった。
「あ、今チャペルから出て来た・・・・ほら、あの銀色の。」
「どれどれ・・・・」
 次の日、授業に出ていった俺はコウにひきずられて、その男を見に行くこととなった。コウ曰く、別に自分が説明しなくたってあと何日か大学に来続けていたら絶対に分かっただろう、という話だったが、俺はそんな言葉を信じていなかった。コウは、たまたまその男に、器用に『一目惚れ』をしただけのことである。だから、そんなことを言うのだ。すれ違った瞬間に誰もが振り返るような人物が、そうこの世にいるものか。そう思っていた。
「−−−−−−−・・・・・・・、」
 が、本人を見て、さすがに俺は言葉を失った。・・・・すげえ。なんかすげえ。





 そいつは、身の丈が軽く六フィート半ほどもあって、更に目の覚めるような銀髪だった。長身のやつには猫背が多いが、そんなこともなく背筋をのばし、風を切り、颯爽と秋風の中を歩いてゆく。
「・・・・な、凄いだろ、なんか。」
「・・・・ああ、うん、凄いな。」
 俺はそれだけを言って、とりあえずコウと二人でその男を追いかけた・・・・コウは少し尻込みしたが、それでも俺はそんなコウを引きずってガトーの真後ろまで出た。アナベル・ガトー。・・・・名前だけは分かっている、それだけでも何かのきっかけになるはずだ。
「・・・・・アナベル・ガトー!」
 俺は容赦なく、ばらばらと枯れ葉の舞い散る秋のトリニティコレッジの中庭でガトーの背中にそう声を掛けた。彼は立ち止まり、そして振り向いた。・・・・・その動きすらも何処か役者地味て堂々としていた。
「・・・・・誰か、」
 彼はそう言った。・・・・その声を聞いて俺はまたたまげた、これは出来過ぎである。俺はあまり姿形の見栄えのする方ではない。コウもそれは同じだ。なのに、何故この世にはこんな人間もいるのだ。・・・・たとえば、どんな著名なハリウッド俳優に生で出会ったってこんなに圧倒されはしないのだろうな、というそれは声色だった。・・・・・・出来過ぎである。
「・・・・ほら。」
 俺は慌ててコウを肩肘でつついた。可哀想に、コウは特大の鱈(キングサイズハドック)のように口をぱくぱくさせて大変な顔になっていたが、やがてハッキリと一言だけこう言った。
「・・・・・・あの、僕は、パターソン教授の授業で一緒のっ・・・・・」
 ・・・・馬鹿かよ、自分の名前とかをそこで言えよ!・・・・と、俺は思ったものの、ガトーは少し考える気になってくれたらしかった、そこで彼は俺では無くコウを見た。しみじみと見た。見てからこう言った。
「・・・・・・ああ。・・・・・・居たっけ?」
 絶望的だ!・・・・・俺は思った。浅はかなことに俺のルームメイトを、そうだパートナーのあの穀潰しの男を、少し連れてくれば良かったかな、と思ったのは確かだ。やつは、人と懇意になるのに長けている性質がある。それは、どんなタイプの人間であろうとも、だ。
「・・・ええまあ、居たんです。それでね、あの、ちょうど見かけたものだから、お茶でも一緒にどうかと思って。」
 俺は結局、出来るだけ他意の無さそうな、そうして害もなさそうな台詞を言ってみた。俺がこの手の事が得意かというとそうでもない、ただコウのように壊滅的に出来ないワケではないだけのことだ。
「・・・・・・残念だが、」
 すると、ガトーは訝し気に俺達二人を見下ろし、特に死にそうな顔になっているコウの方を見下ろし、それからこう言った。
「私は用事があるので。・・・・また機会があったら、ということで。」
 そんな機会は二度と来るまい!・・・・俺は本能でそう感じた、そこで遠ざかってゆこうとしているガトーの背中に向かって一世一代の賭けに出た。
「・・・・・ジェイン・オースティンの!」
 唐突であった。・・・ただ、俺には自分は小説家だ、と言い張る穀潰しのパートナーが一人居て、有り難いことにその手の空気を読み取る力と、中途半端な知識があっただけの事である。というか、オックスブリッジに留学してくる学生の半分以上が、絶対にそんな間違った世界観をイメージしてこのイギリスに来るのは間違いのないことだろうと俺は思っていた。
「・・・・・ジェイン・オースティンの『エマ』について、もしくはトロロープ、エリオット、ブロンテ姉妹・・・・・このさいどれでも構わない、是非あなたと・・・・・あなたと!そのあたりについて話がしてみたかったのだけれど!!」
 自分で言っていて大笑いである。今は何世紀だ。二十世紀だ。しかし、その時は絶対に、アナベル・ガトーはこの『十九世紀的古き良きイングランド』のような話題に、ノッてくる人間だろう、という確信があった。
「・・・・・・・・・・」
 事実、彼は振り返った。コウは、俺が吐き出した台詞の半分も意味が分からずに目を白黒させていた・・・・が、思っていた。アムロってすごいな!だって、ガトーが立ち止まったじゃあないか!
「・・・・・そのあたりの話を?」
「ええ、『そのあたりの話』を、ガトー。・・・・だって俺はともかく、彼は、つまりこのコウはね、『マナー(荘園)』と呼ばれるような屋敷が実家の人間だものだから、きっと貴方の興味にそぐっているに違いないと思って。」
 コウが、正確にはコウの父親が結構な有産階級で、その実家がお屋敷であることを俺は運良く知っていた。・・・・古き良きイングランド、ではもはやないものの、この国は階級主義の生きている社会である。良くも悪くも。事実、俺の話す英語とコウの話す英語は微妙にアクセントが違った。
「・・・・・面白い、では『エマ』の話をしよう・・・・・あの時代の実に浅はかな、衣装の話でも構わないが。」
 ジェイン・オースティンの時代の女性は確かに身体の線をくっきりと出す為に、下着を水に浸して着ていたという。・・・・ああ、あの穀潰しの、役に立たない同居人から聞いた古典小説の官能的な知識が、こんなところで役に立つとは!









 さて、話してみるとガトーと言う男は、別にそう取っ付きづらい人間でもなくて、コウの勘違いもあったのだが、留学生ですらなくて自宅がサリー州にある、ということだった。彼は、コウが香港人とのハーフであるように、フランス人とのハーフで、これまではフランスで生活して居ただけのことだったのである。それだけではない、イギリスの南東部に実家のあるフランス風の姓を持つ人間・・・・というのは、
「そりゃ凄いね、皇太子后の実家並みに古い家柄に違いない。」
 案の定、その夜ベットで俺が事後報告をしてやると、嬉しそうにシャアはそう言って口笛を吹いたのであった。・・・・皇太子后というのはダイアナ妃のことである、その頃ダイアナ妃はまだ存命中だった。
「いや、それより俺はコウに感動したなあ・・・・・」
 何故イングランドの南東部に住むフランス姓の人間が古い家柄の人間になるのか、というと1066年にノルマンディーコンクエスト(ノルマンディーの征服)というのがあったから、である。イングランドというのは、一度フランス人に占領された国なのだ。フランス姓を持つ、というのはその時代にイングランドに根付いた、古くから続く(おそらくはその出生をフランスに持つ、)家柄の人間、ということになる。ちなみに、ダイアナ妃の実家のスペンサー家というのも実を言うと、たかだか二、三百年の歴史しかない現在の王家(ハノーヴァー家)よりもよほど古い家柄なのだった。
「感動したって、なんでまた。」
 シャアは適当に煙草をふかし、眼鏡をかけ、裸のままで重そうな本を抱えながらそう言った。
「・・・・え、だって、『恋をしている目』なんだし。・・・・・俺はそんなコウ見たこと無かったし、」
 ・・・・そこで俺は言葉を切った。・・・・そうだ、俺は、そんなコウは見たことが無かったし、なにより重要なことに、俺自身もそんなに情熱的に誰かを愛したことが無かった。・・・・が、そんなことは言わない方がいいだろう。特にこの男に対しては。
「・・・・君、アムロ君、今私が何を読んでいるか実に気になることだろう?これはね・・・・つまり古本だよ、十九世紀の『貴族年鑑』だ。正確には1865年のね、」
 シャアは分かっているのか分かっていないのかそんなことをつぶやきながらそのカビ臭い本をまだ眺めていたが、やがて目的の項目に行き当たったようで嬉しそうな声を上げた。
「・・・・・あった!ほぼ間違いは無いと思うね、サリー州ウェストサザランド、チャタートンホール・・・・サー・ガスコイニュゼール・デ・デア・ガトー・・・何代前だろうね、曾祖父くらいかな、もう一つくらい前かな。・・・・・・君と友人が出会った『ガトー』の御先祖様だよ。・・・・ふうむ、階級はそんなにでもないね、大佐、って書いてある、ガーズホース(イギリス軍、ガーズホースはアメリカで言うとペンタゴン、くらいの意。)の軍人だね、そうだ軍人だ、実に興味深い。」
 興味深くもねぇよ。・・・・・アムロはそう思ったものの言葉には出さなかった。問題はそんなことじゃないんだ。・・・・俺はその日の夕刻、やっと一緒にお茶を飲めることになったガトーを、とてつもない敬愛の眼差しで見つめるような、そんなコウを見たことが無かったというそういうところに話題をもってゆきたかったのであった、しかしこの男は百年も前の古本の中に話題をもって行きやがった。・・・・・俺はため息をつきそうになった、でもつかなかった。そして変わりに、シャアが手に持っていたその前世紀の遺物を蹴り飛ばした。
「・・・・・君、何をする!」
「・・・あー、悪かったね、足下が狂って!!」
 ・・・・・俺は知らなかったのだが、その日、俺とガトーと軽い会話をして別れて後、コウは本屋に直行し、ペンギンブックスの十九世紀文学を山ほど買い込んで読み漁っていたのであった・・・・ジェイン・オースティン、トマス・エリオット、ブロンテ姉妹、チャールズ・ディッケンズ・・・・・それは必死に。
 ・・・・・・・必死に。そうしたら、自分も相手に興味のある範囲内で同じような内容の会話が出来ると分かったからである。ガトーにとって自分が興味ある話し相手になれると分かったからである。とことん理系の、自分と一緒に光の速度について考えているのが常日頃のコウがそれをしているのかと思うと笑える。しかし、だけれどもそうではない必死さが、




 その愛にはあった。・・・・だが、俺はそんな思いをしたことも無かったことに気付いた。相変わらず、蹴り飛ばした床から拾い上げてシャアは十九世紀の『貴族年鑑』を読んでいる。・・・・・ああ!




 なんで俺はこんな男と付き合っているんだ。つくづくにそう思ったけれど、その日も快楽を怠惰に貪って、そうして自分も同じように裸でベットに寝転がっている状態だったのでそれ以上の事を考えるのを俺はやめた。コウを見て、何かを感じかけたのだがやはりやめた。・・・・そうして、楽しそうに過去に浸るシャアは放っておいて勝手に掛け布団に包まって眠ることにした。









 コウは凄まじかった・・・・・、としか、この際言い様がない。
「つまりね、ネリがもう少し差し出がましい口を利いていたら、キャサリンはエドガー・リントンとなぞ結婚せずに、ヒースクリフと結婚したと僕は思うのだけれど!」」
 その後、半月ほどの間に、どうやったら人はここまで集中して『十九世紀文学』になど・・・・・よしんば、十九世紀文学になど、だ!!・・・・浸れるのだろう、という勢いで『ガトーの為に』、会話の材料を貯えていった。
「それには異論がある。・・・・・何故って、幽霊になってまで話が続くようなラブストーリーは前にも先にも『嵐が丘』だけだからであって・・・・おまけに、十九世紀の家政婦、つまりネリには、そんな権利、雇い主の恋愛に口を挟むような権利はない。だから、あれほどの情念を込めるにはキャサリンとヒースクリフは上手くゆくわけにはいかなかったのだし、問題の晩に、立ち聞きのままヒースクリフが出て行ったのは、あれはあれで正論なのだ。」
「そんな意見は勝手だ!」
 最初のうちこそコウが『文学的』会話に詰まっては可哀想だ、と思って俺は顔を出していたのだが、半月も経つ頃にはまったく俺が不必要なほどに、コウは実際詳しくなっていた・・・・十九世紀文学の世界にも、ガトーにも、である。俺はもはや、おまけでくっついているような有り様だった。そして実際、圧倒されていた。・・・・恋とは、愛とは、それが男同士だから云々はこの際置いておくにしても、『本来こういうものであるのだ』。
 コウは別に文学者の様に語った訳でも、ましてや愛読者のように語った訳でもない。そんなことはとうにガトーは気付いていたことだろうと思う。・・・ただ必死で、あいするひとの為に変わろうとした。その結果がこれだ。人は、時々そう言うことをする。好きになった人の数だけ、大きく生まれ変わることができる。コウはそれらを『初めて読んで』、思ったままの感想をガトーにぶつける、という表現をもってした・・・・・・つまりは、小説の感想などを述べる、という行動をもってだ。
 まず重要なことは、コウはガトーと話をしたい、と思わなければ一生十九世紀文学なんか読まなかっただろう、という一点である。この事実については俺は自信満々でそうだろう、と言える。俺とコウは大学の理系の教授の元で出会っており、コウは絶対にそんな性質の、文学なんかに興味のある人間では無かった。
 それから、モノを感じる、ということにはそれぞれの人物の人格と、それから感性というものが実に盛大に影響する、という問題である。それを、分かってか知らずか、コウはあからさまに素人な感想を、自分が必死に小説を読んだ感想を丸ごとガトーにぶつけていたし、それをガトーはコウという人間の性格として面白がっているように俺には見えた。・・・・・それは稚拙であり、だがしかしなんらかの魂だった。取り繕いようのない自分の心、である。
「・・・・じゃあ、本当にガトーはキャサリンがエドガーと結婚したって良かったっていうんだ、それはそういう話だからって・・・・!!!」
 コウはもう泣きそうになりながらそう自分の不満を訴えていた。・・・・・いやだ、キャサリンがヒースクリフとじゃなくて、エドガーと結婚するだなんて!!・・・・気のせいじゃなければ、そこはケンブリッジ大学の校地のまっただ中において、であったのだが、コウというのはそういう場所でも、自分の本心を実に素直にさらけだすような人間だった。・・・・・・ガトーはさすがに言葉に詰まって俺を見た。・・・・・エミリ・ブロンテの『嵐が丘』を読んで、キャサリンとエドガーが結婚することに納得する人間なんかいないって!!・・・・俺もそう思ったのだが、しかたがないので頷いた、ええ、でもそういう性格なんです、コウって。いや、俺も改めて知って、今感動しているんですけれど。
「・・・・・・・・いや、まあ、だから私も納得はしていないが・・・・・・」
「・・・・・本当か!?」
 ついにそう呟くガトーの同意を得て、とたんにコウは元気になった。・・・・・ああ、そうなんだよ。・・・・無邪気なまでのコウの情熱に、何もかもが巻き込まれてゆく。例えば、俺が敢えて冷めて、なし崩しにこれからも送ってゆこうと思っていたような、そういう男同士が付き合う、という状況であるとか。そういうこと、全て全部。・・・・・・・真正直なコウの去就のせいで。・・・・ああ!









 そうして二十日ほどが経ったある日。・・・・コウは素人にありがちな、情熱だけを持ったあからさまな態度の挙げ句に、性急な告白をガトーにしたのだった。・・・・・・・・・・あいしている、と。









 初まりが唐突だっただけのことはあり、その終わりもまた、唐突であった。コウの恋の話である。コウに告白されたガトーは、もちろん大変丁重に、それを断った。
「・・・・・ワケが分からん。」
 当然コウは、ガトーと二人きりの時にその告白をしたのだが、ガトーが大変に落ち着いた人間であったため、彼はすぐさまにコウの首根っこを掴むと俺のところへ連れて来た。その時のコウの状態はというと・・・おそらく走って逃げ出して、一人でわんわん泣きたいような心境だったのじゃないかと思うのだが、逃げ出す前にガトーに捕まってしまったようで、泣くのを通り過ぎて憤慨したような赤い顔で押し黙っていた。
「・・・・・はあ、なるほど。」
 図書館の前でそんなコウを受け取った俺は、ガトーにどう言ったものかと思い悩んだ。コウには悪いが、実にまったく予想通りの展開であった。しかし、不思議とこんなときに人は話すべき言葉を思い付かないものだ。すると、やはりガトーの方が大人のようで付け加えるようにこう言った。
「忘れてやる。何を間抜けなことをいっているのだ、今まで通りに付き合うし、別に軽蔑もしないから正気に戻れとアムロから説明してやれ。」
 ・・・・・・まったくとりつくしまの無い冷たい台詞だが、簡潔で分かりやすい。俺はもう無言で頷くと、コウを連れて、そう、一人にしておくのは不安だったので俺の家に連れてゆくことにした。・・・・十月も明日で終わり、という日の事だった。









 俺達がケンブリッジの町を横切って下宿に戻ると、シャアは珍しく夕食の準備をしているところだった。彼は、かわりばんこに俺と、それからコウの顔をじっくりと見た。手に、スパゲティ用のトングを持ったまま。部屋には、ラジオが流れていてそれはバナナラマの『ビーナス』だった。この頃は、ユーロビートの最盛期だったのである。
「・・・・・で、まあ座りたまえ。上手くいかなかったわけだろう。」
 コウは、一人にしておいて欲しい訳でも一緒にヤケ酒を飲みたい訳でもどっちでも無かったらしく、どう表現すればいいのだろうか、つまり『どうでもいい』心境に陥ってしまっているようだった・・・・それで、俺が用意した台所の椅子に、素直に座った。俺もそうしようかと思い、大学のノートなんかを寝室に放り込んで、襟を緩めてもう一回出て来たが、シャアは相変わらず作りつけの小さなキッチンで、スパゲティを茹でているところだった。
「・・・・・誰か来るのか?俺達、いて大丈夫か?」
「・・・・・や、まあね、その予定だったんだがちょっとした手違いで怒らせてしまい・・・・」
 言い忘れたが、俺は確かにゲイでこの穀潰しと一緒に暮らしているのだが、シャアという男自体はバイなのである。なんで俺がそんなことを言い出すのかというとアレである、シャアは女がこの家に来る時くらいしか料理をしないからだ。シャアの台詞から総合すると、誰かがこの家に来る予定で、(もしくは来たのだが、)その相手は俺達と入れ違いに帰ってしまったと言う話らしい。さて、俺はそんな生活に慣れっこだったがコウがギョっとしたかな、と思ってその顔を覗き込むと、なんとも無表情で、話など聞いていない様子だった。俺は、少しため息をつきながら冷蔵庫のところまで行って、水を出そうかと思い・・・・しかしそれはやめてワインにすることにする。シャアのパスタは茹で上がったようで、やつはザルに上げたパスタに盛大にオリーブオイルをぶっかけているところだった。
「・・・・・・コウ君、コウ君。」
 どうしたものだ、とまだ俺とコウが押し黙っていると、シャアが急にコウに声をかけた。コウは、弾かれるように椅子に座り直す。
「・・・・え?はい?」
 シャアはアンチョビーの缶詰めを開きながら、座っている俺達の方を向き直る。俺は、例の優しそうな声をかけているシャアなんぞ放っておいて、そこらのグラスにワインをどぷどぷ注いだ。ちなみに、めちゃくちゃ安いテーブルワインである。コウが、ビールよりワインが好きなのは知っていた。
「君ね、コウ君。・・・・・男と付き合いたかったのかい?これは重要な問題なんだよ。言っている意味が分かるかな。だから、告白なんてしたのかい?・・・・・男を好きになるのと、男と付き合うのは、ぜんぜんベツモノなんだ。」
「・・・・・・・・・・」
 コウは意味が分からなかったようでたっぷりと沈黙した。それから、目の前に俺の差し出した、良く冷えたワインのコップに手を出した。
「・・・・・うん、付き合いたかったと思う。」
「そりゃ、ウソだな。」
 シャアは意外に冷たくそう言い放つと、恐ろしいことにアンチョビーの缶詰めの中身もパスタの上にぶっかけた。それからめちゃくちゃにトングで混ぜた。
「ウソって!」
 コウはさすがに怒ったらしく、少し血管を浮かせてシャアを見た。・・・・俺はというと、そう言えば、と変なことに思い至っていた。
「・・・・例えばだ。」
 シャアは大皿にパスタを丸ごと全部のせると、脇にあったパセリを掴む。そうして、それを手で適当にちぎって皿の上に撒きはじめた。
「例えば、俺とシャアは付き合っているけれども、告白なんかした記憶がないな。」
 シャアが言う前に、俺がそう言った。・・・・そうだ!そんな感傷的なことは何一つやらなかったように思うな。すると、コウが驚いた顔をした。
「・・・・え?二人は付き合ってるのに?」
「その辺が君が分かって無い辺だよ、コウ君。・・・・いいかい、男と付き合う男なんてのは、そうざらざらこの世には居ないものなんだよ。男を好きになる男は色んな意味で多いかもしれないけどね。男と付き合ったり寝たり、ってのはね、ケツの穴を舐めあうってことなんだ、君、男同士がどうやってセックスするかも知らないだろう、それよりもなによりも先に、この世には美しくもないものが大量に満ちあふれていることも、人には欲望があることも、人は成功ばかりで生きてはゆけないのだと言うことも、何もかも・・・・」
「その辺にしておけよ!・・・・コウは俺の友達だ!」
 俺は遂に怒鳴った。男同士が真実どのようにして寝るのかをコウに知られて恥ずかしい思いをするのが今さら嫌だったからではない。このあたりについては上手く説明出来ない。シャアはというと、飄々とした顔でトマトの缶詰めを今度は開けているところだった。それを開けてから、それがペーストではなくてホ−ルトマトだということに気付いたらしい。やつは舌打ちをすると、縦四つくらいにその細長いトマトを切って、皿の上に最終的に飾った。
「・・・・・出来上がりだ。さて、では食べようか。・・・・・・コウ君がいるから、皿からこのまま、っていうワケにも今日はいかないな。」
 コウは汗の滲み出した怒ったような絶望したような顔でシャアの話を聞いていたのだが、ワインを飲み干すと、とりあえず差し出された小皿に取ってそのパスタは食ってくれた。不思議なものだが、適当な作り方にもかかわらず、シャアのパスタはいつも不味くはなかったのである。









 その後の数日間、コウはいろいろな事を考えていたようだったが、それほど取り乱した風でもなく、俺は安心していた。ガトーを交えて、三人で一度昼食を共に食べたこともあったくらいだ。ガトーは、本人が宣言した通りに実際に『無きもの』としてコウの告白を取り扱っていてくれたし、俺もこれで良かったのかな、などと思い初めていた矢先のことだった。
「・・・・男を好きになるのと、男と付き合うって言うのは、だからそんなに違うのだろうか。」
 コウときたら、ガトーがせっかく『忘れてやる』とまで言ってくれたのに、だから、そんなことをぽつりと食後のコーヒーを飲みながら話し出したのであった。俺とガトーは思わず顔を見合わせた。しかし、コウは自分の事に話を限定している訳では無いから、無理矢理に話を変える訳にもゆくまい。
「・・・・・それは違うだろう、何故なら、好きになるのは一人でも出来るが、付き合うという行動は人間が二人、同意をしないと出来ないからだ。」
 結局、ガトーが言葉を選んでそう答えてくれた。俺は頭を働かせた、どうしようここはまた、十九世紀文学の話にでも話題を持っていった方がいいだろうか。ゲイっつったら誰だ、オスカー・ワイルド、ダメだ、俺が『ドリアン・グレイの肖像』を読んで無い、それならヴェルレーヌとランボー。・・・・・これもダメだ、コウはフランス十九世紀文学は読んで無いだろう。ガトーならともかく。
「・・・・・・俺が何故ゲイになったかというと、」
 考えあぐねた結果、俺は『自分自身の』話をしてみることにした。これは、初めての試みだった。思えば、コウは俺がゲイであることを知っているが(その内状を詳しく知らないのはともかくとして、)ガトーはこの話を聞くのは初めてだったはずだ。案の定彼は少しだけ右の眉をしかめた。・・・・綺麗に、だ。だが、それだけだった、そこで俺は話を続けることにした。
「・・・・ゲイになったかというと、『何にも考えていなかった』からだ・・・・と思う。俺は、最初に性交渉をした相手が男だったんだよ。シャアだ。十五の時かな?だから、そのまま何も考えずに未だにやつと一緒に暮らしている。」
 コウは驚いて俺を見た。
「え、そうだったのか?・・・・でも、シャアさんは他にも恋人がいるんだろう、俺よく知らないのだけれど。」
 ガトーは、全般的に会話を無視することに決めたらしい。彼は楡の枯れ葉舞い散るキャンパスを独り眺めていることにしたらしいので、俺は首をすくめながら自分の話を続けた。
「そうそう。・・・・だから、いまだに『何も考えていない』わけだと思うよ、シャアはその時点で既に男とも女とも付き合う男だった訳だけれど、俺は男でスタートしたのでそのままだ。・・・・それだけ。これが、現実社会に照らし合わせてみてどれくらい希有で稀な例であるか、コウにも分かるだろう。」
 コウは考え込んだらしかった。ガトーは枯れ葉をまだ楽しんでいた。・・・・俺は自分の発した台詞に、自分のこれまでの生きざまを思い、そして我ながら嘆かわしくなった。・・・・だから俺には分からない、恋愛がどうであるとか。勢い余って、愛やら恋やらを語るであるとか。・・・・好きになった人間の為に、心から変わろうとするであるとか。
「・・・・・・・・鐘だ。さて、午後の授業に行こう。」
 よほど経ってから、ガトーが気が付いたようにそう言って、その日の昼食はそれで終わりになった。三人三様に、妙に考え込みながら。









 それから更に、数日が過ぎた午後の事だったと思う。・・・・俺は、次の授業がコウと同じフェローであったので、学内を急いで突っ切り、別の建物に向かっているところだった・・・・そう急ぐほどの事もなかったらしく、余裕でとある教室の前に着いた。早すぎたくらいだ。
「・・・・・・・ど・・・!」
 と、そこで、俺は気付いてドアの前で足を止めた。教室の内から声がする、それも気のせいで無ければ聞き知った声だ。・・・・・正確にはコウだ。
「・・・・断る。」
 と、続いてさすがに腹を立てたような、これまた知った声が聞こえて来た。・・・・・・ガトーだ。ということは、教室の中にはガトーとコウがいるのだ、俺は立ち止まると言うよりまったく中に入れなくなった。・・・なんだ、何をやっている!俺は足下がくらり、と回るような気がした、俺は細心の注意をコウに促した、ガトーも忘れてくれると親切なことを言った、それをなにか!なにか、コウはまだなにかやろうというのか!
「いいじゃないかそれくらい・・・・!」
 続けて、コウの悲鳴のような叫び声が聞こえて来た。会話は勝手にどんどん進んだ。
「良くは無い、アムロも言っただろう、男を好きになるのと男と付き合うのはまったく違う、と!その意味をお前は分かっていないのだ、だからそんな事を言うんだ!」
「だって・・・関係ないだろう、いいじゃないかキスくらいさせてくれても!」
 俺は頭を抱えそうになった。いや、実際部屋に入れないものだから抱えた。外の廊下で。何百年も前から立っているのだろうそのケンブリッジの校舎の中で、俺は『モーリス』も真っ青の恋愛喜劇の直中(ただなか)に自分が放り込まれていると感じた。
「断る!」
「でも、ガトーとキスがしたい!」
「だから、断る!」
「いいじゃないかそれくらい・・・・!!」
 ではなんだろう、コウは『男を好きになる』ではなくて、『男と付き合う』の方がやはりやりたかったのか?俺は抱えた頭の中でぐるぐると考えた、これはまとまる話もまとまらなくなる、だってガトーのそれは圧倒的な拒絶だ、彼はきっぱりと断った、自分は違うのだと宣言した!そうして彼は言った。
「・・・・『それくらい』のことならば、私とキスが出来なくても別に構わないだろうが!!・・・・なんだ、そんなに貴様は私を怒らせたいのか、キス一つ出来ないからって死ぬわけじゃなかろうし・・・・!!」
 そのガトーの台詞に対するコウの台詞を、俺は、十年経った今でも忘れる事がない。
「・・・・・・・いいや、」
 コウもまた言った。・・・・・宣言した。









「いいや、俺は死ぬ・・・・・・ガトーとキス出来なかったら俺は今ここで死ぬ!」









(『嵐が丘』のような、激しく、鮮烈で、・・・・・・それは綺麗な、)









 ・・・・俺の方が聞いていて死にそうになった。・・・・・キス出来なかっただけで死ねるのである!!
 『嵐が丘』のような。そんな台詞が頭の中を瞬時に過った。・・・・『嵐が丘』というのは十九世紀のエミリ・ブロンテという女流作家が書いた、愛、というより情念の物語、である。・・・・・現世で結ばれ無かった恋人同士が、幽霊となってその舞台である吹き荒ぶ荒野を二人して彷徨うような話。・・・・・・・・・・・あぁ!さすがに、この台詞にはただならないものを感じたらしく、ガトーも台詞に詰まったようだった。部屋の中は沈黙に包まれ、外で頭を抱えている俺には想像も出来ないような二人の睨み合が続いた・・・・・ことだろう。いや、何しろ俺は外側にいた人間であるのでそれ以上の事は分からない。大体、愛の話をしているのに睨み合いってどうなんだ。
「・・・・・・・・・・断る、」
 それでもそのうち、そう呟くガトーの声が聞こえて来た。・・・・・・それはやはり拒絶だった。その時、俺以外の学生が、この教室に近付いてくる物音が響いて来て、そこで会話は終わった・・・・ガトーは教室の外に出ようと思ったらしかった。彼は次の授業を取っていなかったからだ。慌ただしく部屋を出て来た彼と、俺は目があった。
「・・・・・・・・・・」
 ガトーは不思議な顔をしていた。彼の事だから、俺が二人の話を立ち聞きしていたことには気がついたことだろうと思う。しかし、彼は何も言わなかった。・・・・・多分、俺の方が凄い顔をしていたのだ。・・・・それはつまり、




 『じゃあ愛ってなんなんだ』、というような。









 物語の終わりは、かなり唐突に、そしてあっけなく訪れた。・・・・・俺がコウとガトーの言い争いを聞いて、更に数日経った、それくらいの頃だったろうと思う。
 ・・・・・・・・ガトーが、死んだのだった。
「・・・・・・・それで、だからちょっと来てもらえると・・・・・・・」
 俺はその報告を、コウから聞いた。ガトーが死んだ。あの、背筋を伸ばして颯爽と歩く、背の高い人物が、である、俺には実感が湧かなかった。おそらく、俺の家に飛び込んで来たコウにも、その実感は無かったのではないかと思う。ともかくガトーは死んだ。たった一ヶ月間の、忘れられない印象を俺達に残して。彼は、ケンブリッジの町中をコウと歩いている途中で、車に轢かれそうな少女を目にしたのであった。そこで行動した・・・・かわりに、少女を助けるかわりに、ガトーが車の下敷きとなったのである。
「・・・・おい、」
 部屋に駆け込んで来たコウより、よほど俺の方が倒れそう有り様だったらしく、そう言ってシャアに身体を支えられるまで俺は事態を認識出来ずに混乱していた。・・・・だって、昨日までガトーは元気だったじゃあないか。
「実家に・・・・・サリー州だって聞いたな、実家に連絡と・・・大学と、それから・・・・」
 コウの方が、よほどマトモなことを話していた。素早く黒いスーツにだけ着替えたシャアと、俺は病院に急いだ。まだ、ケンブリッジに来て一ヶ月ほどしかたたないガトーに、俺やコウ以上の友人もいなかった。それは、不思議な感覚であった・・・・・居なくなった。逝った。ガトーが消えたのである、それはもう、鮮烈に美しい印象をコウと俺に残したままで。驚くくらいコウは取り乱さなかった、告白した直後よりよほどまっすぐに地に立っていた、たとえばガトーとシャアが出会うのはこれが初めてのはずだった。・・・・・俺を支えながら、シャアは病院の地下まで歩いてゆき、そうしてモノを言わなくなったガトーと初めて会った。シャアは妙に納得したように頷いた、
「・・・・ああ、男と恋愛するような顔の男じゃあない。」














「・・・雨の日だったからさ、ガトーが死んだのは。」
 俺はその言葉で、フッと今現在のロンドンの、アールズ・コートのパブに意識を引き戻された。外には、相変わらず雨の打ち付けている音が聞こえて、どうしようもなく世界は閉息している。
「・・・まぁそうだったな、雨の日だったな。」
 あの日、俺達はシャアを病院の霊安室に残して、駅でガトーの両親がやってくるのを待った。その頃にはようやっと、事件を聞き付けた大学の教授なども、病院に訪れはじめていた。十一月十三日、雨の降る夕刻だった。誰も、今日ガトーが死ぬだなんて思ってもいなかった。当たり前だ。
「・・・・・・・なあ。」
 何で人ってあっけなく死ぬんだろう。俺は、忘れることができるだろうか。・・・・・・その、十年前と、まったく変わらない台詞をコウが口にするのを、俺はカキの殻を手にしたままぼんやりと聞いていた・・・・プディングなどは既に冷えきってしまっていた。
「俺、この先、ガトーを忘れて・・・・・・」
 両親は当然の悲しみに暮れた顔をして、ガトーの遺体を引き取りにきた。俺達は、それにくっついて南へ、サリー州へ向かった。友人として、葬式が執り行われるまでそのガトーの実家に滞在した。彼には、小さな妹がいた。俺は薄情なことにその時初めて知ったのだが、ガトーはまだたった二十五歳だった。
「・・・・・・・・生きてゆけるだろうか、ちゃんと。」
 その台詞すらも、十年前となんら変わってはいなかった。・・・・まあ、落ち着けよ。俺は思う。・・・・・それから、一人で部屋に帰るコウを思う。一人の部屋に帰るコウを思う。そこで彼はあれからずっと、考えているはずだ、たった一ヵ月間の自分の恋について。・・・・・もう二度と戻らないやりようのない変えようのない事柄について。・・・・・雨の降っていたあの日について。どんな気持ちで、たった一人の部屋で、




 ・・・・・・・・・そして雨で。














 今年も、俺はそうやってコウとその日を過ごし、そして今はロンドン郊外の町に構えている自分の家へと戻って来た。アールズ・コートのパブを出たあたりで、そうしてチューブを郊外に向けて乗る為に駅でコウと別れたあたりで、雨はすっかり止んでいたのだが、自宅周辺の小道も、何もかも、冷たい雨に一度打たれた風情で俺を出迎えた。俺は大学を出て、そして理系らしくとある企業の技術者となった。シャアはと言ったら、相変わらず食えない男のままに、俺の家で穀潰しの生活を送っている。・・・・・自分の部屋に辿り着く直前に、俺はまさにその部屋から出てきたらしい女とすれ違った。
「・・・・・・・・誰だっけ、今の、レコア・・・・・」
「君、何年前の女の話をしているんだ?・・・・今のはナナイだよ、最近付き合ってるのは彼女だ、だって小説を書くのに実体験が少し必要でね・・・・・・」
 玄関端のドアを少し開いたまま、女を見送る為だか、俺を出迎える為だか知らないが、そう答えて待っていたこの男に対して俺は思った。





 ・・・・・殺せる。





「・・・・・てめぇ、」
 いや、今なら殺せる。・・・・この男を蹴りたい、そして蹴り殺してやりたい、手など使うものか、土足で蹴り飛ばしてやりたい、ズタズタに、心行くまで!!
「・・・・・・・ふざけんなぁっ・・・・・・・!!」









 コウの事を思う。毎年、この日にコウと会う。愛する人が死んだ日を、彼はどうやって過ごしているのだろうと思う。・・・・・・・・・・・・俺と別れたあと、たった一人で、青白いあかりのきっと照らす部屋で、そこで!!・・・・・十年前の事を。・・・・・ああ、コウは、それを永久にくり返しているのだ、そして時々「結婚出来たらね、そんなことが出来たらね」と呟いている。さて、俺の目の前の男は、今日も別の人間と寝ていた。









 くだらない男と恋をして、くだらない人生を、くだらないままダラダラと送る。・・・・・・そんな風に、人は思うのだろうなというような人生をこれまで送ってきた。それは事実だ。初めて寝た相手が男だったからまあいいやって感じで気が付いたらゲイになっていた。しかも相手は男女問わずで、慢性的に遊んでる。俺はと言ったら、それすらもいいや、って感じで放っておいている。・・・・・・くだらねぇ。腹のそこから、ヘドが出そうだった、あぁくだらねぇ。本当にくだらねぇ俺の人生!
「・・・・・アムロ?」
 ドアの真ん前でまったく動かなくなってしまった俺がそれでもさすがに気になったようで、シャアが遂にそう言った、俺はどうしようかと思った。・・・・・ちっくしょう、てめぇなんか死んでしまえ、今すぐ死んでしまえ、そうだ消えてしまえよ目の前から!!!
「俺の名前なんか呼ぶなよ、ふざけんな・・・・・!!」
 ・・・・・・たとえばコウのように、何かに本当に必死になって(美しいままに)、何かを本当に求めて(美しいままに)、何かそのもののような人生なんて(十年も!)俺にはきっと送れないに決まっている。・・・・ああそうだよ、だからこそ、それほどまでに何もかもが違うからこそ、俺は毎年そ知らぬ顔をして、コウの横で墓参りが出来るのだ。・・・・・それが性格の違いというものだ。
「しかし、別の名前は君には無いし・・・・」
 目の前では、本当に目の前の真ん前では、実にあたりまえでこれまたくだらない台詞をシャアが呟いたところだった。・・・・・そういう意味で言ってんじゃねぇよ!
「・・・・・・・・・・あんたはどうせ女に言う別の名前が山ほどあるんだろうが・・・・・・っ」
 死にそうな顔のコウの横で、墓参りが出来るのだ。・・・・・コウは今頃、一人住まいの家に辿り着いたところだろうか、死にそうな顔のままだろうか、しかしコウは死なない、思い出を抱えたままで生きてゆく方を選んだ。・・・・そういうコウのことを思った。それから、視線は目の前の男に戻った。・・・・・くだらない男だ。
「・・・・なんで今日に限ってそんなにつっかかるんだ。」
「うるさいな!」
 呆れたように肩をすくめて、そうしてシャアは手を伸ばした。・・・・俺の手を掴んだ。・・・・・くだらない。だけど、俺はその瞬間に、自分がくだらなくてもこの男を選んだ理由を知った。思わずその手を掴み返した。力が強かったらしくて、シャアは痛そうに眉をひそめた、でも俺は手を離さなかった。・・・・そうだ。理由を知った。














 ・・・・・・人は。



















 人は愛が無いと生きてゆけないからだ。




















2002.08.18、20、22.










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