*以下の文章は直接的な性表現を含みます。十八歳未満の方、及びその手のものがあまりお好みで無い方は御注意下さい*









エルニーニョ [完全版]
















 私の仕事は端的に言うと警備兵である。この国境に近い占領地に駐屯し始めてから三年になる。
「……!」
 この国の人々は朴訥(ぼくとつ)としていて、皆一様に黒い髪に黒い目に黄色い肌で、そしてなにより気性はやわらかで、占領がそうし辛いわけでは無かった。文明の有無についてここで語るのは止そう。むしろ彼等がそういう状態だったので仕事はひどくし易かったと言うべきだ。彼等を蔑んでいたのか? と聞かれればそうかもしれないが自分を弁護させてもらえるなら、それは占領軍としてはあくまで自然なごく一般的な行動だったのである。その日まで私もトラブルらしいトラブルに巻き込まれる事も無く、日々を過ごしていた。……三年の日々を。
 さてその日私がいつも通りに、警備隊の隊長としてその駐屯基地敷地周辺を見回っていると、一人の人物に急に掴みかかられた……というより縋りつかれた、というべきか。
「……! …!! ……!!」
 彼は何かを、私に訴えていたのだが、残念な事に私は彼らの言葉が理解出来無かった……そうだ、言葉は通じ無かったのだ。ここは重要だ。
「……何だ?」
 私は言った。しかしその人物、まだ少年に見える男の子だったのだが、彼はやけに必死に私に話かけてくる。本当に必死だった。標準的なこの占領地あたりの民間人の服装をした、少し痩せた少年である。背だけはひょろりと高かった。私は、十代の半ば頃だろうかと勝手に思った。
「……!」
「だから、意味が分からんと言っているだろう!」
 私は思わず語気を強めた。彼はビクっと身を竦ませて身体を離す。それから、私が肩から掛けている銃を見ながらこう言った。
「……ん、おとうさ…ん……ちがうから、たすけて……!」
 すると、今度は私達の言葉を使って話しかけてきた。片言だ。彼の目には炎が宿っていた。私はそんな彼等を初めて見た。ああ彼等も確かに生きている人間だったのだなと、初めて思ったくらいだ。もちろん、私は彼等の言葉になど興味も示さず生活して来たので、駐屯して三年になるというのにその言葉は一言も話せない。しかし、彼は僅かながらも私達の言葉が話せるようだった。
「……何? もっときちんと話せ。」
「おとうさん……つれてゆかれて……でも、ちがう、から、たすけて、おとうさんをたすけて!」
 しつこいようだが彼は必死だった。そして熱かった。どうやら彼の父親が何かの間違いで占領軍に連れてゆかれたと言う事らしい。反乱分子と勘違いでもされたのか。もちろんそういう人々が全く居ないわけでもなかった、だからこそ自分はこの場所に、警備兵として駐屯しているのだ。
「待て、分かった、調べて来るから待て。」
 ……私の言葉が通じたのかどうかは分からないが、私はその燃え盛る若者をおいて、一度駐屯基地の内部に戻った。彼は全く綺麗に燃えていた。……これも妙な表現だが。驚くくらい純粋に怒りたっていたのである。私は、とりあえず彼が言っていた名前を調べた。……ああ。




「……おい?」
 私が戻って来ると、基地の正面に座り込んでいた少年は驚いたように顔を上げた。私が戻ってくるとは思って居なかったらしい。彼の瞳は相変らず燃えていた。私は憎しみというものを知った、彼等、私達が占領しているこの土地の人々、つまるところ民俗そのものはやはり朴訥としてそう激しい反乱こそ無かったのだが、しかしその人々の根底にはとてつもない情念がほとばしっているのを知った。私はどうしようかと思ったが、隠しだてしてもしかたないので調べて来たそのままを彼に伝えてやった。
「……もうダメだ。間に合わなかった、今朝処刑された。」
「……?」
 私は難しい言葉を使っただろうか。ともかく彼には良く分からなかったらしい。そこで私はもう一回ゆっくりとくり返した。
「死んだ。……罪状自体は間違いだったのかもしれないが、もう、死んでいる、お前の父親は、だから助けられない。」
 ……彼は燃えるような瞳で私を見ていた。彼はじっくりと考えた。処刑という言葉は分からなくても、死ぬ、という言葉は彼にも分かったらしかった。黒い石のような瞳が下を向いた。……普段の彼等からは、占領地の住民からは、想像もつかないくらいの熱い何かを私にぶつけて来ていたくせに、彼は思いきり下を向いた。……考えているようだった。食って掛かってきていたその何かが消えた。彼は泣き出しそうだった。……大きな涙の粒がその瞳から溢れて、今にもこぼれ落ちそうにその縁に溜まった。
「……おい、」
 私は心配になって声をかけた。しかし彼は顔を上げ無かった。私は遂に彼の肩に手をかけてゆすった。抵抗もされなかった。ようやっと彼は私の方を見た。……先程までの炎のような勢いはどこへやら、全くの抜け殻のような有り様だった。魂が消えてしまっていた。
「……おい……」
「……おとうさ、……」
 彼はそれだけしか言わなかった。ぼんやりと宙をただよう彼の視線を見ていて私は急に妙な悪戯ごころと、それから『ものたりなさ』が沸き上がって来た。



 ……だって、さっきまではあんなにも憎々し気に、私を睨み付けていたじゃあないか!



「……!?」
 思い付いて急に彼の腕を取ると基地の壁に叩き付けた。……何故自分がそこまでも意地悪な気持ちになれるのか、自分でもその理由が分からなかった。
「なに……!」
 彼が叫んだ、しかし私は止めなかった、だってこんなことは誰もがやっているじゃあないか。私はそれを、急にやってみたくなった、自分自身でもやってみたくなったのである。壁に叩き付けて、そしてキスするだけでとりあえずはとどめた。それから、その抜け殻のようになった彼を、基地の中の自分の部屋に引きずっていった。



 本当に彼と寝たかったのか、と聞かれるとかなり考え込まざるを得ない。しかし私は燃え盛るように反抗的な瞳を見た。それを見て単純に『負けるものか』と思ったのである。……軍を志した当初を思い出した。純粋な本能を見た。彼は最初から不利であった。しかしそれでも私に挑んで来てそうして負けたのだ。負けた人間は、何をされようとも文句は言えないはずだ。
「……っ、いやだ……やだ……っ!」
 私は一度彼の望みを聞いてやった。熱く飛びかかって来たその言葉を汲んで、彼の父親の安否を調べてやったのである。それでもう十分だろう、と思った。そこで抜け殻のようになった彼が泣いて、力無く悲しむのなんかをまったく無視して、
「いやだ……いやだ!」
 彼を抱いた。通じない言葉で慰めるよりその方がよっぽど理に適っているようにその時の私には思えた。……よほど後の方になって、彼の瞳にはまた憎しみの炎が宿った。……あぁ。
 それを見て、私はおもわずにやりと笑った、そうだ、そうなんだその目が。
 その目が自分を睨んで。……深い憎しみと共に。
 私は満足をした。私自身が任務で遂行している占領という活動にすら、本当は大した理由など無いのだ、戦争とはそういうものだ……ああそうだ、戦争とはそういうものだ……彼は私を憎むだろう、心から憎んでそして永久に忘れないことだろう! ……私は憎しみを一つ手に入れた、それは光り輝くとびきりの憎しみだ。彼は私を追ってくるだろう、そして今日の屈辱を一生忘れないことだろう。相容れない育ちと、燃え盛る瞳とともに。



 数日後、私は辞令を受け取りその国境の町を後にした、しかし……その先のめくるめく人生の事を思って、
(あの日見たあの少年のあの瞳のことを思って、)



 甘美な目眩が止まらなかった。……それは間違い無く戦いのはじまりだったのだ。















 三年程が経った。国境の街に駐屯する任務を解かれた私は、首都で近衛兵として働くようになっていた。それなりの出世だった。
 驚いたことに戦いはまだ続いていた。辺境の未開な国は、黒い髪に黒い瞳の人々が暮らす国は占領され続けても一向に挫ける気配が無かったのである。占領し続けてはいるが完全に帝国に組み込むことも出来ない。そんな状態が続いていた。
「お帰りですか、大尉。」
「ああ……冷え込みそうだな。」
「お疲れさまです。」
 職場である総統官邸の門を出た私は、随分と雪が積もっていることに気づいた。階級が上がったので狭苦しい寮からは解放され、市内に小さな部屋を借りていた。
 空を見上げたが雪は当分降り止みそうにない。傘をさすような柄でもない私は、少しだけ急ぎ足になって部屋への道を急いだ。
 ……あの国では雪など降らなかった。
 ふと、三年程前まで居た辺境の占領地を思い出す。あの国は大陸の南の端にあった。首都は逆に北の端にある。だから植物も、人の色合いも、空気も全てが違うのだった。
 どうしても思い出す。
 それは罪悪感を伴うものではなかったが、しかし何度も思い出し続けている。自分は気まぐれとは言え何故あんなことをしたのだろう。親を失って悲しんでいる子どもを無理矢理に手篭めるであるとか。思い返しても自分でもよく分からなかった、それ以外はかなり堅実に軍人として生きて来た。なのにあの時には他のことなど全てがどうでも良くなってしまった。しかし占領地でその土地の人民を犯すことなどこの強大な軍事国家ではありがちな出来事で、自分がそれで罪に問われることも無かった。……罪に問われていたらもう少し罪悪感が産まれていたのかもしれない。
「……」
 もうすぐそこが自分の部屋だ。私は石畳の歩道の角を曲がり、街灯の下に立った。……そのときだ。
「……っ」
 脇の暗がりから、急に何かが飛び出して来た。自分に向かって猛然と飛びかかって来た様に見えたので身を翻して逃げた。自分は軍人である、そのくらいのことは出来る。
 飛び出して来たのはどうやら人のようだった。狙われる理由も分からないのだが私が避けたのでその人物は体勢を崩し、石畳に突っ伏した。サク、と妙に籠った音がして相手の持っていたらしい刃物が雪の積もった歩道の上に刺さる。……それを見て、さすがに私は身の危険を感じた。
「……何者だ、」
 そう言いながら首根っこを掴み、腕は後ろでねじり上げた。
「……」
 それは男のようだった。色あせた、このあたりではあまり見ない柄の外套を頭からすっぽり被り、彼は唸り声を上げている。私は外套のフードを外した。
「……」
 すぐに、分かった。……あまりのことに最初言葉が出なかった。それは忘れる筈も無い、占領地で会った黒い髪に黒い瞳の男だったからである。



 私は油断無く腕を捻り上げたまま、彼を自分の部屋まで連れてゆくとその中に放り込んだ。隙あらば彼は逃げ出そうとし、更に私の命を狙っている様だったが武器が最初に取り落とした刃物以外に無いのは身体を探って確認した。刃物は家の前の側溝に捨てて来てしまった。
「……さて、」
 大家に怪しまれない程度に(しかしかなり手荒に)彼を部屋の床に叩き付けた私は口を開いた。
「久しぶりだな。……私の言葉は分かるか。」
「……」
 彼はこの三年の間に『少年』では無くなったようだった。以前もひょろりと背の高い子どもだったが、今は立派に体格の良い、なかなかの青年に育っていた。
「私を殺しに来たのか。」
「……」
 彼はまだ口を利かなかった。次の瞬間、食いしばられた歯の別の意味に気づいて私はとっさに彼の口の中に自分の手を突っ込んだ。
「……んっ……う、」
「……失敗したら自殺か? ……見上げた根性だな。」
 私は彼と会話をするのを諦めた。床に座り込む彼の口に右手を突っ込んだまま、私は左手で自分の軍服のネクタイを外した。それを時に彼に噛ませる。
「……んんっ……!」
 そうしておいて自分の右手を見る。……見事に歯形がつき、血がにじんでいた。
「やってくれたな。」
 とりあえず彼の羽織っていた外套を脱がすと、その袖で彼の両手を縛った。それから手を洗いに行く。
 なんだろう、この感覚は。
 私は洗面所で血の滲んだ自分の右手をしみじみと見た。なんて赤い。……なんて赤い、そうだ思い出したぞ。
「……お前。」
 彼を転がしておいた玄関の脇に戻ると、彼は辛うじて自由になる両足で脱出を試みていたようだった。もちろん私は彼の足を蹴りつけ、その頬を張った。
「……んっ……う……」
 彼は少し大人しくなった。……私はその身体を、ベッドまで引きずっていった。



「さて、」
 彼をベッドの中央に転がしておいて、私はその端に座った。……いろいろ聞いてみたい事も有ったのだが、この状況では致し方ない。口を自由にしたらこの男は自分の舌を噛み切るのだ。それで私は勝手に話す事にした。
「どうやってここまで来た。……何故私を捜した。……いや探したくて探したわけではないのか。」
「……」
 彼から返事は無い。当然と言えば当然だ。私はその頭に手を掛け、強引にこちらを向かせた。
 強い瞳だった。
 部屋は独身者の軍人らしくたいした家具などなにもない。灯りは適当に玄関端に灯してあるきりで、ベッドのある辺りは微妙に暗い。
「……ふ、」
 彼が何かを言おうとした。私はついその口枷を解きそうになったが、それは止めておいた。代わりに食ませたネクタイと彼の頬の間に、自分の指を押し込んでみる。彼の頬は彼の国の人々に特有な、きめの細やかさと弾力でもって私の指に返した。
「ァ……ッ」
「話したい事があるのか? だったらこれを解いてやるが、」
 私が彼の口元まで指先を運んでゆくと、彼は迷わずその指を噛み切ろうとした。……私はもう一回彼の頬を張った。
「……っ、」
「では勝手に聞いていろ。……私はこの三年間、貴様のことが頭から離れなかった。」
 私はそんなことを呟きながら彼の色あせた装束を剥がしていった。……三年前のあの衝動が胸に蘇る。
「……貴様に恨みが有った訳ではないが、あの時にはどうしても我慢が出来なかった。」
「……」
 立派に成長した彼の身体を軽々と扱う事は難しかった。南の国の人々の装束はややこしい。私は途中で脱がすのが面倒になって、後は破り裂いた。彼が足を蹴り上げ続けて来るのでその上に馬乗りになった。
「っ、」
 首都の冬は厳しい。暖をまったくとっていなかった私の部屋のベッドの上で裸になった彼は身を竦ませた。
「……今もだ。」
 おかしい。……我ながらこれはおかしい、と思いつつ目の前に現れた青年の身体に指を這わせる。平常の自分にこのような趣味は無い。女性に対してすらも、自分はどちらかというと淡白でストイックな方だ。しかし、彼を目の前にした時だけこの性癖は姿を現すらしかった。
「三年間、何度も何度も思ったよ。」
「……」
 彼は何も返さなかった。話が出来たらいいのに。……そう思いながら露になった胸元を撫でた。
「……っ」
 彼がよりいっそう身を竦める。私はつい面白くなって、何度も何度もその胸元の飾りを撫でた。それからキスは出来ないのでその耳元に沈み込んだ。
 唸る彼の、ネクタイを食んだままの口元から透明なしずくが肩口へと垂れる。彼は身を捩って逃げようとしていたが、そんなことをさせる気は毛頭なかった。馬乗りになった下半身に自ずから力が入った。
「……話をしたいか。」
 私は耳元でそう囁いた。彼からは返事にならない返事しか帰って来ない。耳の外殻を丹念に舐め、熱い口付けを落とし、息を吹き込んだ。そうしているうちに、やがて彼の反応が変わって来た。
「……う……」
「……舌を噛まないか?」
「……ンっ、」
「約束するな?」
 無理矢理暴いた身体の、その胸もとにまだ触れながら私は聞いた。彼は身を捩った。
 ……それで私は口枷を外してやる気になった。



 ネクタイを外してやると、彼は深くため息をついた。……このネクタイはもう駄目だな。私は支給の軍服の一部である唾液に塗れたそれを部屋の隅に放る。
「アンタがっ……」
 口を自由にしてやったとたん、彼は私に噛み付いて来た。
「アンタが父さんを殺した挙げ句に、俺にあんなことするからだから俺はっ……!」
「それは違う。」
 私は訂正した。……そしてこの三年間で、彼が私の国の言葉を綺麗に話す事が出来る様になったことに気づき、そのあたりに感心した。
「お前の父親は私が安否を確認した時には既に処刑された後だった。……殺したのは私ではない。」
「……っ、」
 彼は少し黙った。……ベッドの上で中途半端に裸体をさらけ出し、口は利ける様になったものの、相変わらす不自由に拘束された姿で。
「そんなことはお前にも、」
「……触るな! 俺に触るな!」
 知った事か。私は引き続き彼を弄ぶことにした。
「……分かっていた筈だろう。……ひょっとして抱かれた悔しさを『父を殺された悔しさ』と勘違いして、思い込んで来たのか? ……この三年間。」
「……い、」
 嫌だ、と言われる前にその唇に吸い付いていた。……何故これほどまでにこの憎しみに満ちた瞳を向ける青年が、何故これほどまでに相容れない人間が、自分の心に響くのか分からない。
「や……ふぁ……」
 彼が自分自身で噛み切ろうとしていた舌は大層甘かった。……根こそぎ奪い取るほどの勢いでそれを吸いあげ、少年の面影の残った顔が歪むのを楽しむ。
「ぁ……嫌だ、なんだよ、またかよ、どうして……っ」
 どうして? そんなの理由は簡単だ。

 他のものでは満たされない欲求を、この跳ねっ返りの青年は満たしてくれる。



 結局その晩、私は三年間の鬱屈を晴らすがの如く彼を抱いたのだが、一番に驚いたのは私にそれだけの『鬱屈』が溜まっていたという事実であった。……それなりに生きて来たつもりでいた。それなりに楚々と仕事をこなし、普通の人間として。
「……私です。唐突で申し訳有りませんが、今日から三日程休暇を頂きたい。」
 次の日の朝目覚めた私は、一番に職場に電話をかけた。大統領官邸の近衛兵の仕事である。
『分かりました。……何か有りましたか。』
「身内に不幸が。」
 大嘘である。しかし面白いくらいあっけなく私の希望は受理された。……私はガウンを羽織ったままで冷たい床の上を歩いて寝室に戻った。下から大家の「ガトーさん、今日は遅いけど朝食どうしますー! お休みかいー!」という叫び声が聞こえて来た。大家は人の良い太った寡婦である。私は「今行きます!」と怒鳴り返して寝室に戻った。
 彼はまるで無防備に寝ていた。……本当に疲れているのだろう、近寄っても起きる気配すらなかった。私は暖炉の薪を確認してから窓辺に向かいカーテンを引いた。
 真っ白だった。
 雪は昨晩、随分と積もったらしい。下の通りに目をやると、牛乳配達の少年が遅めの配達をしているところだった。荷車の轍が雪の上に、二本の綺麗な線を描いている。
「……い。」
 変なつぶやき声がベッドの方から聞こえて来て私は身を返した。
「……目覚めたか。」
「寒い。」
 彼は言った。……そして上掛けを引くと思い切り丸くなった。
「……貴様。状況が分かっているのか。」
「……」
 返事は無かった。私はこの朝の冷え込みを、そうたいしたものとは思っていなかった。首都の冬はいつもこんなものだ。しかし、大陸の南の端から来た彼はひどくそれを苦痛に思ったらしい。私はギシリと音を立てベッドの縁に座り込むと、床に脱ぎ捨てられた(というより原型無くはぎ取られた)彼の異国情緒溢れる装束に手をやった。……ここと南の占領地はかなり離れている。どうやって彼はここまで、辿り着いたのだろうかとその三年間を思いやる。
「……眩しい。」
「何だと?」
 今度は少し意味不明なことを言って彼が寝返りを打ったので私は聞いた。
「何が眩しい。」
「白くて眩しい。……雪が。」
「……貴様、状況が本当に分かっているのか?」
「……」
 彼はどうやら分かっていないようだった。……寝ぼけているのだ、たいしたタマだ。
「……おい、貴様。」
 私は彼の耳元に口を寄せると、思い切り低い声で聞いてやった。
「目を覚ませ。……朝食はどうする、私は下に食べに行くが。」
「……!」
 彼は面白いくらい身を竦めて、そして飛び起きた。
「なっ……」
「目覚めたか。」
 どうせ目が覚めたら、手に負えない事になる。私は片手に仕事用の手錠を持って、彼に近づいた。
「な……俺……ここ何処っ……」
「貴様は昨晩、」
 私は説明しながら彼の左手に手錠をかけた。それからそのもう一方を、ベッドの足に繋いだ。
「……私を殺し損ねた。……以上だ。」
「……」
 一瞬、親の敵もかく有らん、というような鋭い視線で彼が私を睨む。実際親の敵と言えないこともない。彼の父親の死を彼に伝えたのは私だから。
「……とても一緒に、朝食を食べるような気にはならないようだな。」
「当たり前だろう、なんでそんなっ……!」
「じゃあここに居ろ。……舌を噛み切るなよ、ベッドを汚されるのは御免だ。」
「……」
 私は彼を残して階下に向かった。大家はちょうど紅茶を入れている所だった。
「随分降ったねぇ。」
 彼女が言う。裏庭に面した窓のカーテンは開かれていて、真っ白に染まった外の景色がよく見えた。差し出された紅茶を飲み、フォークを手に取った所でふと気づいた。
「……ミセス・バジット。」
「なんだい、豆かい?」
「……いや、実は昨日……」
 ここに食べに来なかったからと言って、彼に全く何も食べさせないわけには行かないだろう。しかし昨日人間を一人拾って、と素直に大家に言うのも憚れる。
「……犬を拾って。」
「うちは動物は飼えないよ?」
 大家は少しイヤそうな顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「ガトーさんが動物を拾うなんて、似合わないねぇ。」
「もう一食分朝食を頼めるか。」
「そんなに食べるのかい、その犬!」
「ああいや。……分からないが食べっぷりは良さそうだ。あと、私の服では大きいだろうから何か要らない洋服は無いか。」
「……」
 大家はさすがに不思議そうな顔になった。
「洋服も着るのかい、その犬。」
「6フィート弱はありそうに見える。」
 彼女はしばらく考え込んでから、それは犬って言わないよガトーさん、とお茶を注ぎ足した。それから、私の死んだ旦那の服がちょうどそれくらいかな、と呟きながら奥に引っ込んで行った。



「……起きているか。」
「……」
 部屋に戻ると彼はまだ上掛けを被っていた。もっとも、ベッドに繋いだのは自分なので当たり前と言えば当たり前だ。声をかけようとして、彼の名前も知らないことに気づいた。舌を噛んで血まみれになどなっていなければいいなと思いつつ上掛けを剥がした。
「! ……寒いよ何すんだよ……!」
「腹は減っていないか。」
 私が持って来た食事を見せると彼は裸のまま身を乗り出して来た。……相当減っていたらしい。
「……何のつもりだよ、」
「私を殺そうとしなければその手錠も外してやれるのだが、」
「殺したいに決まっているじゃないか!」
「……ではそのままだな。」
 私は食事の載ったトレーをベッドの上まで運んでいった。彼は自由になる右腕でフォークを奪い取ると、食事にかぶりついた。
「ガトーさん、洋服持って来ましたよ。」
 廊下から声がかかり、どうやら大家が洋服を持って来てくれたようだった。ありがとう、と答えてドアを開くと、太った寡婦は面白そうに部屋の中を覗き込む。そして、寝室で食事をがっついている彼をちらりと見て、「おや、南の子だね! 珍しいのを拾ったね!」と言って出て行った。
 私が首を竦めながらベッドの脇に戻って来ると、彼もまた驚いた様に戸口を見ていた。
「……今の人、この国の人じゃない。」
「元々はな。」
 彼は大家の浅黒い肌を見てそう思ったのだろう。
「お前は南の国の人間だが、彼女は西の国の出身だ。……随分前からこの国の支配下にあるから、人々もこの国に馴染んでいる。共に生きる様になる民族も居れば、貴様の国の人々の様に見かけは従順なのになかなか占領しきれない国もある。」
「……」
 聞いているのかいないのか分からないが彼は凄まじい勢いで食事を終えたらしい。そして、急に窓の外が気になったらしかった。
「……こんなに雪が降るなんておかしい。」
 彼は言った。「この辺りではごく普通だが。」と私は答えた。それより何より、彼が『雪』を知っていたことに驚く。
「俺の国では、百年に一度くらいしか雪は降らないんだ。だから雪は不吉なものと思われて『エルニーニョ』って呼ばれていた。」
「『エルニーニョ』? ……この国の言葉に訳すとどうなる。」
 彼はしばらく考え込んだ。私は大家が持って来た古着をベッドの上に置いた。コートまできちんと揃っている。靴もだ。これで、外に放り出しても凍え死にはしないだろう。
「……異常気象?」
 余程経ってから彼が呟いた。私はつい笑ってしまった。
「……そのままだな。」



 手錠を解いて、服を着る様に言った。彼は素直にそうした。……後は好きにするといい。だから、私をもう一度殺そうとするならそれはそれでいいし、南の国に逃げ帰るのならそれもまたいい。
 私が少し買い物に出た間に、彼は居なくなっていた。三日も休みを貰う必要は無かったなと私は少し笑った。窓の外を見る。……部屋に戻る時には気づかなかったのだが、どうやら彼のものらしい足跡が、通りを南に向かって消えていた。……おそらく自分の国に戻ったのだろう。



「異常気象(エルニーニョ)、か……」



 私は意図せずして手に入った残りの休暇をどう使おうか思案した。……身体の奥がどこか興奮している。彼はそういう生き物だった。















 もう二年程が経った。私の国は驚くような変化を遂げていた。変化と言うと耳障りがいいが、窮地に立たされていたのである。
 大陸の北にある私の国は強大で、古くから周辺の国々を治めてきた。西の国も東の国も、それから南の国もである。だが、その占領地政策に陰りが落ち始めた。しかもきっかけは、南の国で起こった暴動である。いつも通りに首都から軍が差し向けられ、占領はし直され、暴動は治まるものかと思われた。しかし、南の国で起こった暴動は治まるどころか他の占領地にも飛び火を始めた。
 ……歴史が動こうとしていた。
 当然の様に私は、近衛兵の仕事から前線への転属を希望した。……ただひたすら行きたかった。あの南の、辺境の地へもう一度。周りの人間には不思議な顔をされ、馴染みの大家には少し泣かれたが私の意思は変わらなかった。
 戦場へ行きたいのだ。
 そして、彼にもう一度会って、
 生きている意味を知りたいのだ。



 戦いはこう着状態に陥っていた。帝国はかなりの兵力をつぎ込んでいるのに、どうしても彼らに勝てなかった。………私には少しその理由が分かるような気がした。
「少佐。」
「なんだ。」
 私は更に少し出世し、一個師団を任されるまでになっていたが、その天幕に副官がやって来た。
「……顔色がお悪いようですが、やはり気候が厳しいのではないですか。」
「私の心配などいい。……報告をしろ。」
「はっ、実は前線の兵から伝わって来たうわさ話なのですが、」
「うわさ話?」
 確かに南の気候は辛かった。首都で生まれ育った自分には水も空気も合わない。しかし顔色が悪いのは他の理由からだと自分でも分かっていた。……よもや、今日にも、明日にもあの男に会えるかもしれないのである。
「はい。……反乱軍の一人らしい男が『そちらに銀髪の士官はいないか、銀髪の士官がいたら直接話をしたい』と大声で吹いて回っていると。」
「 ――― 、」
 私は思わず副官の顔をしみじみと見た。……私の表情が気色張っていたからだろう、副官は心配そうな顔で私の顔を覗き込む。
「……少佐?」
「いや、何でも無い。」
 私は思った。……それは彼だ。間違いなく『彼』だ。この戦場に赴いてから毎日死体の山を見て歩き、捕虜の顔を確認に行った。しかし、同じような装束を着た同じような顔の人間は幾人もいるのに、彼は居なかった。……そうか、会えるのか。
「……いや、何でもない事はないな。時にグラードル。私以外にこの軍に銀髪の人間はいたか。」
「帝都の方で幾人かいらっしゃいますが、この戦場には居りませんね。」
「では、私の客だな。」
 そう呟く私は、おそらく奇妙な笑顔を浮かべていた事だろう。
「……グラードル、今度その男が現れたら、絶対に殺さずにここまで連れて来るんだ。」
 副官は訝しげな顔をした。……構うものか。



 意外にその日は早くやって来た。次の晩、妙に外が騒がしいと思って天幕の外に出ると、兵士達が囁き示す中まっすぐに歩いて来る一人の男の姿が見えた。
「……」
 また少し立派になったな、と思う。この辺境の地に特有の、異国情緒に溢れた装束に身を纏った彼が私の副官と伴って歩いて来た。
「……三度目だな。」
 私の口からは何故かそんな言葉が出た。彼は黙って頷き、装束のフードを外した。
「……人を払え。」
「しかし……!」
 私が言うと副官が食って掛かった。
「この男は、この辺りの反乱軍のリーダーだそうです! 人払いなど出来ません!」
「いいから払え! グラードル、私がそれでいいと言っている。」
「……」
 副官がしぶしぶと、警備兵達を天幕の外に出した。……それで、私達は天幕に入ると、まず最初に何も言わずにキスをした。



「……っかげんに……」
 ドン、と胸を押されて突き放された。
「いい加減にしろよ! なんであんたいつもこうなんだ、」
「あまり大きな声を出さない方がいい。……外に聞こえるぞ。」
 私は天幕の中の灯りを絞った。これで少しは表に様子が分からずに済むだろう。
「……で。今日は何だ、今日こそ私を殺せそうか?」
 私は少し微笑みながらそう聞いてしまったことだろう、すると彼はその言葉を侮辱と感じたようで少し頬を赤らめたが、その不思議な装束の下から一本の瓶を取り出した。
「何だ。」
「酒だよ。」
「……」
 私はしばらく考えた。
「……毒殺か? 女みたいな方法だな。」
「違う、ただの酒だよ!」
 彼は叫ぶと急に栓を抜いて、ガブリと自分で勢いよく飲んでみせた。
「……どういう風の吹き回しだ。」
「この国から出て行ってくれないかな、と思って。……そうしたら戦争なんかしなくて済む。」
「無茶を言う。……反乱を起こしたのは貴様らだろう。」
 彼がずいっと酒瓶を差し出したので、私はそれを受け取った。……瓶の口からはこの国に似合う、南国風の香りがする。
「だけど……元はと言えば……」
 あれだけ勢い良く飲んでおいて、あまり酒に強い方ではなかったらしい。彼は俯いて悔しそうに呟いた。
「私が悪い、とてもいうのか? ……それは違うな、敢えて言うなら、悪いのは私の国だ。……私個人ではない。」
「そんなの分かっているさ!」
「……分かっているから、」
 私は彼に渡された酒の残りを飲むと、酒瓶を床に投げつけた。ガシャンとなかなか派手な音が響いたが、優秀な部下達は命令を守って天幕に入っては来なかった。
「辛いのだろう?」
 彼は何も答えなかった。……私は赤い顔をした彼を天幕の中に設えられた簡易なベッドに引きずり込んだ。



 ……こんな事をして何になるのだろうと思う。
 ……そう思うのに止められない。
 憎しみあうことに官能を憶えてしまったので、
 どうにもならなかった、おそらくはそういう関係だ。



「……あっ……」
 二年ぶりにその身体に触れたのだが、何もかもに吸い寄せられるような気がした。自分がこんな気持ちになる事は、この男を相手にしている時以外には他に無い。
「んっ、」
 大仰なその衣装を着せたまま、下に手を差し込んでしばらく楽しんでいたのだが彼は我慢が出来なくなって来たらしい。
「ちょっと……もうっ……」
「何だ。」
 耳元でそう聞くと、彼は嫌そうに首を振った。
「服が……邪魔……」
 なんという殺し文句だろう。実際、自分達は今にも互いを殺しそうな時にしか抱合えない。
「……では、好きにするといい。」
「……」
 私が少し押し付ける力を弱めると、彼はその綺麗な装束を自分で脱いだ。……南の国の、砂の匂いのする装束である。その下からは、きめの細やかな黄色い肌が姿を表した。
「……」
「……ん、ぁ……あ……」
 何度も口付けをしながら、まんべんなくその身体に触れる。わざと焦らして中心に触れないでおいたら、面白いくらい素直に文句を言われた。
「ちょ……っと……!」
「どうして欲しい。」
 きつく抱合っている。……重要なところ以外には全て触れている。
「……あぁ……んっ、」
 泣きそうな顔のまま彼が腰を押し付けて来た。……では触れてやらないこともない、と思ってその腰を抱え上げた。



 ……こんな事をして何になるのだろうと思う。
 ……そう思うのに止められない。
 憎しみあうことに、官能を憶えてしまったので、
 どうにもならなかった、おそらくはそういう関係だ。



 心から相手を憎んでいる。……そういう様に生きて来た、そう思いながら彼の両足をことさらゆっくりと開いた。
「……っ……」
 彼は息をひそめて待っている。……その様があまりに不様で、私はつい笑ってしまった。もちろん彼はそれに気づいて怒る。
「何笑って……っ、」
 しかし、そんな彼を欲しいと思ってしまう自分の方がきっと不様だ。……私は彼の最奥に指を差し入れると、容赦なくそれを犯した。まるでそれが、自分の戦利品であるかのごとく。
「うぁ…っ、」
 彼が身を竦める。私は彼を押さえ込み、天幕の簡易ベッドの上に縫い付けたまま乱暴に事を運んだ。……徐々に指が深くのめり込んでゆく、
「ふ……あっ、」
 叫び出しそうな彼の口を慌てて塞いだ。……弄れば柔らかくて、だがしかし少し堅い秘密の場所にすぐに辿り着く。
「あっ……」
 身体は分かりやすかった。跳ねて抵抗しようとするその身体を押し付けていると、自分にも異様な興奮がわき上がって来るのが分かった。自分も身につけていたものを全て脱いだ。こんなことは初めてだった。
「……まだ行くなよ。」
「……っ…!」
 私が前を握り込めてそう言うと、彼は本当に悔しそうな顔になった。
「……いやだ、」
「何が。」
 私は前を握り込めたまま、彼の後ろから指を引き抜く。すると面白いくらい彼の背が仰け反った。
「…は……ッ」
「何だ。」
 私はもう一度聞いた。……彼は何も答えなかったので、私は前を押さえたまま彼を貫く。
「……ッ…あ、」
 彼は泣いた。……そう慣らしてもいなかった後ろは、きっと血が滲むような有様になっていることだろう。
「……いや……は……あぁっ、」
 もちろんそんな願いを私が聞いてやるはずも無かった。……両足を抱え上げ、無心に押し込んでいたら自分がどれだけこの男を望んでいたのか納得が出来た。
 グチリ、と嫌な音がする。血の音なのか、先走りの音なのか、それすらも確認出来ないくらい自分も必死だった。
「は……あ……うぁ……っ!」
 死んでしまえばいいのに、と頭の片隅で思う。死んでしまえば良いのに、そうしたら自分はこの先、この男に苦しめられることもなく、戦いに勝ったような気持ちで、ずっ生きてゆけるのに。
「……が、」
 だのに、驚いた事に彼が私の名を呼んだ。いつ憶えたのだろう。
「……ガトー……」
「……何だ。」
 つい私は、汗ばんだ身体のまま彼の方に身を傾けた。それで更に奥に私を差し込まれた彼が眉をひそめる。
「……っ、もし……」
 彼は私を銜え込んで、ひどく締め付けたままそう言った。
「……もし敵じゃなかったら……こんなにも憎ましい相手じゃなかったら……」
「……おい?」
 様子がおかしい。私は彼の脇腹を擦り上げた、何を言う、まるで今生の別れのような台詞じゃないか。
「……おい! おい、目を覚ませ!」
 彼は辛うじて目を開こうとしているが、それが辛そうなのは身体を繋いでいる自分が一番良く分かった。
「……おい!」
 何度も呼びかけて、そこでやっと自分が彼の名も知らなかったことにようやっと気づく。
「……おい………!」
 私は自身を彼から引き抜く。……しかし、彼はもう何の反応も示さなかった、よく見れば毒薬らしき木の葉が、右手に握られている。
「……おい。」
 彼から反応は返らない。……死姦の趣味は無いぞ。私は途方に暮れた。そして動かなくなった彼の身体を掻き抱いて、悲しみに暮れながら眠る事にした。



「……少佐。」
 誰かが私を呼んでいる。
「……少佐、起きて下さい、少佐!」
「……うるさいぞ、グラードル。」
 私は眩しい朝の光の中で目を覚ました。……一瞬、自分が何処に居るものやらも分からなかった。
「停戦です。」
「……何だと?」
 そのあたりで私はようやっと正気を取り戻した。……簡易ベッドの上に起きあがると、勘弁して下さい、と言った表情でグラードルが軍服を差し出す。
「……停戦です。南の国の宗主が、自身の息子を取り戻せるのなら他にはなにも条件は無いと申し入れて来ました。」
「……」
 私にはいまいち事情が飲み込めなかった。
「……彼の父親は死んだ筈だ。」
 私はベッドの傍らに横たわる彼を見ながらそう言った。軍服を羽織った。
「宗主は女性ですよ。」
 では母親か。……しかしなんてことだろう、彼は死んでしまった。
「しかし……」
 戦闘の中止など、私の一存で決められる事ではない。何より彼はもういない。……私はそっと、横たわる彼に手を伸ばした。
「『もし敵じゃなかったら、こんなにも憎ましい相手じゃなかったら』……」
 最後に彼は何を言おうとしたのだろう。私はその言葉を繰り返し、副官が呆れるのも構わずに眠る彼に頬を寄せた。
「……貴様。最後まで……」
 自分でも何を伝えたかったのだろう。その言葉がわからない。……自分を睨み返すその瞳が好きだった。……あの強い瞳が。……なのにもう二度と見れない。彼は和平と引き換えに、自分の命を捨ててしまった。
 もし敵じゃなかったら、こんなにも憎ましい相手じゃなかったら。
「……もっと優しくしたのに。」
 その瞬間、奇跡が起こった。
 ……彼がゆっくりと、瞳を開いたのだ。……その強い光をたたえた瞳を。



 その後、私の国と彼の国がどうなったかは想像に任せる。ただ私は今も、軍人を続けている。



















2007/01/09 ←書いた日
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