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「……恋人ですか?」



その日の出先は虎ノ門で、仕事の話が終わってから接待で銀座に来ていた。思ったよりも早い時間にその懇談が終わったので、ガトーは行きつけのバーに一人で向かった。家にまっすぐ帰るかどうかで悩んでいたのだ。明日は日曜だしゆっくりと出来る。もしも宿があるのなら、都内に泊まって行っても悪くない、と思っていた。
「…………なにが?」
 急にバーテンダーに話しかけられたので驚いて顔を上げると、よほど自分はそちらの方ばかりを気にしていたらしく、バーテンダーは笑ってカウンターの上の携帯電話を指差す。
「先ほどから、気になって仕方がないようなので。……それで、『恋人』ですか、と。」
 このとあるホテルの地下にあるバーはガトーのかなりのお気に入りで、何もかもが控えめなのが良かった。数寄屋橋交番を一本奥に入った通り。それで、一気に銀座の喧噪が別世界のものになる。そんな場所に、あるプチ・ホテル。……実は、ガトーにとっては思い出のホテルだった。日本に最初に来たときに、たまたま本社が用意してくれたのがこのホテルだったのである。曰く、『パリの街角にあるプチ・ホテルのようだから、きっと日本に慣れるまで落ち着いて過ごせる。』……会社のある恵比寿まで山手線を一回りしなければならないのには辟易したが、確かに落ち着いたホテルだった。それで、現在のマンションに移るまでしばらくここに住んでいた。
「……恋人……恋人か、まあそう言えなくもないか。」
「御呼びしたらどうです。」
 すっかり顔見知りになっているバーテンダーは、軽く微笑みながら首をすくめる。……おや、そうだったか? と思って店内を見渡すと、確かにガトーの他には誰も客がいなかった。
「……大丈夫なのか、この店は。土曜の夜だぞ?」
「……大丈夫ですよ、お客様がお連れ様を呼んで下さればね。」
 ガトーは少し呆れながらカウンターの上に放り出してあった携帯を手に取った。
「……上。」
 ボタンを押す直前に、そういえば宿を取っていなかったことに気がつく。このバーはホテルの地下にある。それで、ホテルの空室を確認しようと思ってそう言うと、すでにバーテンダーは奥でフロントに電話をかけているところだった。……ガトーはまた少し呆れた。

『………もしもし!』
 ワンコールでコウは電話に出た。
「今どこだ。」
『えー……ガトーんち。だって、今日土曜日じゃないか。だから来てたんだよ、ガトーは今どこだ?』
「銀座だ。」
 答えると、コウが少し沈黙した。
『……ああ、そう。それじゃ、今日は帰って来ない?』
「そのつもりだ。」
 電話の向こうで、コウがぶすっとしているのが手に取るように分かる。ちらりとバーテンダーの方を見ると、部屋が取れましたよ、とゼスチャーで示しているのが見えた。
「それでな。」
『はい、なんですか。』
 これは本当に機嫌が悪いな。コウの返事を聞きながらガトーはだんだん面白くなってきた。
「お前が来い。」
 案の定、電話の向こうからはなかなか返事が戻って来ない。……多分、精一杯の不機嫌を表しているのだ。
『……って、ここからじゃ一時間以上かかるよー! ふざけるなよ、俺行かないよ!』
「いいから来い。ここは……ええと、銀座六丁目だ。」
『行かないって言ってるだろ!』
「ホテルの名前は銀座ベルビューホテル。その地下にバーがある。バーの名前は……まあいい、来たら分かるだろう。」
『聞けよ、人の話!』
「明日は日曜で学校は無いだろうが。」
『うん、無いけど……ちょっと!』
「早く来い。」
 それで一回電話を切った。……バーテンダーを見ると今度はむこうが呆れたような顔をしている。
「どうした。希望通りに呼んだぞ。」
「……ちょっと驚きました、強引でらっしゃったので。」
「普通だろう。」
「怒ってらっしゃいませんでしたか、お相手の方は? ……あと、年若い方と付き合ってらっしゃるんですね。」
 ふうん。……ガトーは少し考え込んだ。いつも通りの会話だったつもりなのだが、バーテンダーには少し奇妙に聞こえたらしい。もっとも、彼にはガトーの言葉しか聞こえなかったはずなのだが。コウが若い……というのは確かだろう、学校、と私が言ったのでそう思ったのだろうな。とりあえず酒を追加して、もう一回携帯電話を見た。
「……おい、私の言い方は、そんなに強引だったか?」
「……返事に困ることを聞かないでくださいね。……ええ、多少強引のように聞こえましたね。お客様に差し出がましいことを言って申し訳ありません。」
 ……ふうん。そこでガトーはもう一回電話をかけることにした。……今度は、もう少し気の利いたことを言ってやろうと思ったのだ。
『……今着替えて靴を履いたところ! ばーか、ばかガトー、一時間かかるって言っただろう!?』
 電話に出たコウは、怒りながら、だがしかし出発する気満々で準備をしているところだったようだ。なんだ。大丈夫じゃないか。
「誘い方が強引すぎる、と、バーテンダーから指摘を受けた。」
『はぁ!?』
 バーテンダーは笑いがこらえられなくなってしまったようで、カウンターの奥の方に引っ込んで肩を震わせている。
「なので、言い直そうかと思う。……早く来い。そうしたら、」
『……そうしたら?』

「大人の酒の飲み方を教えてやる。」

 バタン、とおそらくマンションのドアの閉まる音がして、電話は切れた。……ガトーはしばらく電話を見つめていたが、バーテンダーがラフロイグのロックを目の前に置いたのでその存在を思い出した。そこで、聞いてみた。
「今のでどうだ。」
「……強引である、というところは譲りませんよ。」
 バーテンダーは少し失礼なことを言ったが、ここはなじみのホテルで、なじみの店なのでガトーは不機嫌にはならなかった。
「あんなものでいいんだ。……ちゃんと来る。」
「そのようですね。……それに最後の台詞は、なかなか普通の人には言えませんよ。」
「そうか? ……あんなものでいいんだ。」
 ガトーは琥珀色の液体を眺めながら思った。あれくらい言った方がいい。そうしたら、コウはムキになって、絶対ここまで来ようとするだろう。だから、あれくらい言った方がいいんだ。
「そういえば……」
 そこでガトーは、目の前のバーテンダーが、自分の恋人が男であることを知らないことに気づいた。……そうか。そうだったな。まあいい。御呼びしたらどうですか、と言ったのは相手の方だ。そう言うからには、彼は私の恋人に少なからず興味があったのだろう。
「……どうかなさいましたか。」
 だったら、どんな人間がやってきても、そう驚きはしまい。なにより、彼は銀座のプロフェッショナルだから、きっと顔色一つ変えずにコウをこの店に向かえいれてくれるに違いない。息を切らして、怒った顔で走ってくる大学生の男を。そうして、コウもこの店が大好きになることだろう。
「……いや、問題ない。」



 ……一時間後、十一月の寒風の中、耳を赤くしてコウがやってきた。
 銀座のプロフェッショナルであるバーテンダーは、コウの顔を見て逆に納得したように頷いたのだった。なるほど、男だったのならあの電話の会話も理解出来る。そして、嬉しそうにガトーのとなりのカウンター席に座り込むコウに、聞いていたとおりにアイリッシュ・コーヒー(ウィスキーベースのカクテル)を差し出しながら、「お似合いですね。」と微笑んだのだった。


















2005/11/18 ←書いた日
2008/01/29 ←UPした日









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