最近はまっているのは『ジョーズ』という名前のお菓子である。もちろん父の会社が仕入れている、おそらくは北米原産のたいして美味しくもない輸入菓子だ。しかし、はまっているのにはそれなりの理由があって、見た目が圧倒的に面白いのだった……名前のままに、プラスチック製のそのパッケージはかなり大きいサメの形をしている。口はぱっくりと開いている。そのうえ、奥に入っている小さな菓子を取り出そうとすると、『ガオー』という効果音と共に口が閉じようとするのである。『ガオー』。……これではおもちゃがおまけなのか、お菓子がおまけなのか、分からないな。『ガオー』。……いや、これがお菓子なのか
おもちゃなのかが、そもそも分からないな。
「……………」
結論として……子どもが喜ぶことだけは確かだろう。コウはそう思いつつ、パソコンの脇に置いてあるそのお菓子にもう一回手を突っ込んだ。……『ジョーズ』は『ガオー』と律儀に鳴って、コウの手を噛もうとする。
………つまり、この感じなんだ。
じゅういちがつみっか
この一週間の自分は、と言われたらまるでストーカーのようだった……と、コウは思う。誰のストーカーをしていたのか、と言われるとそれはアナベル・ガトーという名の、父の仕事関係の人間である。この人物とは先月の十三日に、とある縁で出会った。
そもそも、父親が仕事の書類を忘れたのでコウがその書類を届けにゆくことになったのだ。その時の取引相手というのが、このアナベル・ガトーだった。彼とは恵比寿のガーデンプレイスタワーで出会い、しかもかなり悔しい思いをした。自分が至らなかったばかりに、自分だけでなく父親までもがこの人物に対して恥をかいたのである。しかし、それきりで、もう会うこともないだろうとコウは高をくくっていた。……ところが、だ。
それから一週間程たったある日、コウは自分の家の最寄り駅から二つ程前の駅で、たまたま降りる用事があった……と、そこにいたのである。アナベル・ガトーが、だ。それで、つい呼び止めてしまったのだが、なぜそんなことをしてしまったのか、コウは未だに自分でも分からずにいる。ただ、その時には呼び止めなければと必死だった。聞くと、ガトーはこの駅が、自分のマンションの最寄り駅である、という。それならばそこに居て当然なのだが、コウはこの時『二度とない偶然』くらいに思った。
それでともかく呼び止めてしまったのだが、その後の会話は、はなはだ不自然なものだった……当たり前といえば当たり前だ。用事もないのに呼び止めてしまったのだ、下手なナンパと変わらない。
しかも、コウはそれまでにナンパなど一度もしたことがない部類の人間だった……彼女いない歴は十九年になる。いや、そんな悲しい事実はともかくとして、やはり呼び止めたガトーと、会話は成り立たなかった……先にも言ったがコウ自身、なぜガトーを呼び止めてしまったのか、いまいち分かりかねていたのである。それでその日は、簡単な挨拶をしただけで終わりになった。
その晩、コウは猛然と考えた……つまり、なぜアナベル・ガトーを呼び止めてしまったのか。そうして自分はどうしたかったのか、ということについてだ。考えあぐねた結果、へんな『結論』にたどり着いた。
俺はガトーと友達になりたいのでは、と思ったのだ。
どうしてそんな気分になってしまったのかは分からないが、ともかくガトーは初対面の時、コウに圧倒的な印象を与えていた。それは、圧倒的に仕事ができて、強くて、カッコイイ印象だ。……それで体よく言えば、そこに憧れてしまったのでは。
簡単に言うとこういう話になるが、そこから先はなかなか難しかった。大学生であるコウの友達は、当然のことだが同じ世代の人間が多い。父親の仕事に関係のある人だから、父親に頼んでも良かったのだが、そんなことで父親に迷惑をかけるのも憚られる。それくらいの常識はコウにもあった。……そこで、コウは一つの手段に出た。降りる駅が分かっているのである。……つまり、ストーカーのような作戦だ。
コウは、次の日から一週間……出来る限り、ガトーの最寄り駅に張り付いた。普段よりも早く家を出て、わざとその駅で降りる。そして、大学の授業に間に合う時間ギリギリまで、その駅のホームで過ごすのである。定期券の範囲内だったのは幸いした。帰りも同じである。わざと、自分の駅より二つ前の、その駅で降りる。そして、終電の時間までホームで過ごすのだ。
………はっきり言って、俺はへんだ。コウは自分でもそう思ったのだが、他にいい方法が思い浮かばなかった。その一週間の間で、コウは二回ほどガトーに会うことが出来た。
分かったのは、ガトーの出社する時間が思ったよりも遅いということだ。これは、多分フレックス出勤というやつだろう、とコウは思った。通常の通勤ラッシュの時間帯に京王線に乗って待ち構えてみたのだが、ガトーは現れなかった。それで、授業が午後からで、余裕のある日に駅で待ってみると、ようやくガトーが現れた。オフィスが恵比寿であることは知っているが、到着が十二時少し前になりそうな時間帯だった。
「……こんにちは。」
コウは勇気を出して、そして不自然にならない程度に、ガトーに話しかけてみた。すると、ガトーはコウの顔を覚えてくれたらしく「ああ、ウラキさんとこの。」と言った。コウはすかさず「コウです。」と名前を言った。「……そう、コウとか言ったな。これから大学か。」「はい、そうです。」……それが、一度目に、京王線が明大前の駅にたどり着くまでに出来た会話のすべてだった。コウは、「それじゃ大学がここなので。」と言って電車を降りた。「ああ。」とガトーは答えた。……ただ、電車の中で隣に立っていただけなのに緊張した!
次に、ガトーに会うことが出来たのは夜だった。コウは、自分の駅より二つ前の、その駅で降りてガトーが降りてくるのを待ってみた。……が、来ない。それで、今度はガトーがずいぶんと夜遅くまで仕事をしていることを知った。
「……こんばんは。」
ガトーに会えたのは、終電が多摩に向かって走り去って行ったその後だった。コウは数日間、終電の時間まで粘ってみたのだがガトーが降りて来ないので、もう二駅分は歩いて帰ることにして、その日は終電が通り過ぎるのを待ってみたのだ。
「遅いな。」
終電から降りて来たガトーは驚いたようでそう答えた。それで、コウは準備していた台詞を言ってみた。
「えっと………あ、あ、あの、今日は飲み会で。それで、俺……ちょっと間違えて自分の駅より前で降りちゃったみたいだ。……今のが終電だったよね。」
ガトーはかなり訝しげな顔でコウを見た。……やべぇ! と、コウは思った。しかし、声をかけてしまった以上、引き下がるわけにもいかない。
「ま、まあ……あと二駅だから、俺は歩いて帰るよ。それじゃ、おやすみなさい!」
コウが急いで改札に向かおうとすると、驚いたことに向こうから声がかかった。
「……まて。待て、取引相手の、顔を知っている息子さんを、この寒空の中歩いて帰らせるわけにも行くまい。タクシーを使え。金は私が払う。……駅前ですぐ拾えるだろう。」
そう言われてしまって、今度はコウが焦った。
「えっ、いいよ……俺、ちゃんと帰れるよ! もうそんなに酔ってないし、」
「………」
酔ってないとなると、今度は降りる駅を間違えた、という言い訳の方が不自然だ。すぐにそれには気がついたのだが、もうすごく気まずい気分になってしまって、コウは改札を出てすぐのあたりで俯いた。
「……分かった。歩いて帰りたいなら構わないが、それじゃ、コーヒーを一杯飲んでからにしろ。……女みたいな顔をして、鼻の頭が真っ赤だぞ?」
……なんか、待ち構えていたのがバレているかも……と思ったのだが、あと、女みたいな顔、と言われたのも少しムカついたのだが、ガトーが駅の目の前にある二十四時間営業のファミレスを指さすので、喜んで一緒にコーヒーを飲むことにする。十月後半の駅で六時間も待ち構えているのは、確かに寒い作業だったからだ。更に、そのファミレスで、コーヒーを飲みながら、コウはガトーの携帯電話の番号を聞くことに成功した。……それが、昨日のことである。
そして今、コウは『ジョーズ』を目の前に考え込んでいた。今日は十月三十日の火曜日。ガトーと出会った十月十三日から、二週間程が過ぎた。お菓子かおもちゃか分からない『ジョーズ』の脇には、パソコンと、それからガトーの電話番号の入った自分の携帯が置かれている。………本当に悩んでいた。
「………」
電話をかけるなら今だ、と思う。でも、自分は、そうして、電話をしてどうしたいのかが自分でも分からない。ガトーに、どうやって何を伝えたいと言うのだろう。……だいたい、何をしたいと言うのだろう。友達になりたいのか?
あの、パリっとした感じのサラリーマンと。本当にそうなのか?
「……母さん!」
コウは、考えているのが面倒くさくなってついに自宅の階段を駆け下りた。そして、久しぶりに息子が早く帰って来たので、奮発して台所で夕食を作っている母親に声をかけた。
「はい! ………コウ、階段はもうちょっと静かに降りなさい。どうしたの。これから出かけるなんて言わないでしょうね?」
「違うんだけど……あのさあ、今週の土曜日、うちでバーベキューやらない? 庭にあるだろ、バーベキューの道具。レンガのオーブンとか、」
母親は本当に驚いた顔をしてコウを見た。……それから、首をかしげてこう言った。
「だってコウ。……あれ、もう何年も使ってないわよ、お前が小学生の頃はよくやったけど。なんでこんな寒い季節に急にやりたいなんて言い出したの、」
「なんでもいいからやりたいんだけど!」
「まー……それじゃ、お父さんに聞いてみなさい。大学のお友達でも呼ぶの?」
それでコウは、今度は父親の書斎をノックした。
「……父さん。次の土曜の、十一月三日に、うちの庭でバーベキューをしてもいい?」
「……何事だ。」
仕事部屋から、父親は眼鏡を外しながら顔を出した。
「急だな。……まあ、やりたいんなら別に構わないが。誰を呼ぶんだ。あんまり大勢は困るぞ。」
コウは、思い切ったように叫んだ。
「……ガトーさん!」
……父親は、それを聞いてちょっと呆れたような顔になった。
コウは自宅の二階にある自分の部屋に駆け戻ると、勇気を振り絞って携帯を手に持った。そして、ガトーの番号を押した。
「………」
夜の七時。まだ仕事をしている時間かもしれないが、うまく行けば電話に出てくれるかもしれない。
『……もしもし、』
相手が出た、と分かった瞬間にコウは叫んだ。
「あのっ!! ウラキですけど、コウですけど、来週の土曜日にうちでバーベキューやるんだけど、ガトーさん来ませんか!!」
『……………』
相手は……つまりガトーは、長らく沈黙していた。コウは、いたたまれなくなってきた。ああ、やらかしてしまった。ガトーはひどく不快に思ったに違いない!
『……おい、コウ。』
よほど経ってから、ガトーがそう言うのが聞こえて来た。
「……はい。ごめんなさい、何?」
『そんなに心配しなくても……私はお前の父親も、それからお前の父親の会社も、とって食ったりしないぞ。一体なんなんだ、この間から。』
驚いたことにそんなことを言われた。………そう思われていたのか。自分は、父親の会社が心配で、それでガトーのことをずっと見張っていると。そう思われていたのか?
「そんなんじゃないです……」
『じゃあ何だ。……いいかげんにしないと、私も怒るぞ。』
「……ごめんなさい……。そんなんじゃなくて、俺………」
『何だ、さっさと言え。』
「俺、バーベキューに……」
最後の方が、泣き声になってしまったので、本当に情けなくなってコウは電話を勝手に切った。「おい、ちょっと待て!」などとガトーが言っているのが聞こえたが、それどころではなかった。……俺、嫌われてしまった、嫌われてしまった、きっとガトーに。
コウは、立ち上がって電話をかけていたのだが、本当に情けなくなってイスに座り込んだ。携帯の電源そのものを切ると、机の上に置いてあるパソコンと、それから『ジョーズ』を交互に見比べる。……涙が出て来た。
「………」
『ジョーズ』の口に手を突っ込むと、『ガオー』という声がした。腕を引き抜く元気が無くて、そのままにしておいたらおもちゃに噛まれた。……別に痛くもなんともなかった。そりゃそうだ。子供のおもちゃだからな。
……つまり、この感じなんだ。
コウはつくづく思い知った。つまり、この感じなんだ。なんでガトーと仲良くなりたかったのかなんて、自分でも分からない。どうしてストーカーまがいのことをしてしまったのかも、よくわからない。でも、こんな感じなんだ。………『ジョーズ』の口に手を挟まれそうで、怖くて、でもつい手を伸ばさずにはいられないような感じ。それで、ついやりすぎてしまった。
でも嫌われた、と思う。だからもう、ガトーに電話とか出来ないと思う。
母親が夕飯に呼んでいる声が聞こえて、父親に幾本か電話のかかってくる音も聞こえたが、コウは部屋から出る気力が無かった。母親はずいぶん怒っていたが、ともかくその晩コウは夕飯を食べなかった。
次の土曜日は、意外にあっさりとやってきた。コウは、ガトーのことで確かにヘコみはしたが、次の日には起きだして、まあ大学には通っていたし、今度こそガトーのことなんか忘れようと思っていた。ストーカーまがいのことももちろんやめた。十一月三日は文化の日で、土曜でなくたって最初から休みのはずだった。そこでコウは、部屋でごろごろと寝ていた。……すると、何故か母親が自分を起こしに来る。
「………なんだよー、部屋に入ってくるなよー………」
コウがそう言って、更に布団にくるまろうとすると、彼女は呆れた風でこう言った。
「まあ、バーベキューをやりたいと言ったのはあなたでしょ! コウ、知りませんよ、ガトーさんもいらしてるのに、寝ているつもりなの!」
……なんだって?
コウは飛び起きた。……それから、窓に走り寄って自宅の庭を見下ろした。……そこに、見えた。銀色である。バーベキューの支度をしている父親の脇に、たしかに見慣れない、私服姿のガトーが立っている。……なんだって?
コウは階段を転げ落ちるくらいのスピードで駆け下りた。そして、庭に面した部屋のサッシを開いた。
「コウ。……なんだ、まだそんな格好か。早く服を着て出て来なさい。」
「………だって、」
「ガトーさんとバーベキューがしたかったんだろう? 仕事で連絡するついでに話したら、来て下さったぞ。コウ、お前、本当に失礼だからすぐ着替えなさい。……すいませんね、ガトーさん。……一人っ子なので少し甘やかして育てすぎました。」
「いや、別に……この国に来てからホームパーティに呼ばれたのが初めてなので、嬉しく思っていますよ。」
「そうですか? そんな大層な庭じゃないですがね。」
「………………」
コウは少し呆れてそんな父親とガトーのやりとりを見ていた。……だって、いいかげんにしろって! 電話で、そう言ったじゃないか、信じられないよ、こんなの!
……それから、我に返って、慌てて着替えるために自分の部屋に駆け戻った。
信じられないよ。……部屋の机の上には、そのパソコンの脇には、『ジョーズ』がまだ置いてあった。着替えたコウは、そうっと『ジョーズ』に近寄る。そして、手を差し込んでみた。『ガオー』。……そう言って、『ジョーズ』はコウの手を噛もうとした。もちろん直前に、コウは手を引っ張りだした。
……つまり、この感じなんだ。ガトーと友達になりたくて、近くに行きたくて行きたくてしかたがないのって。……この感じなんだ。
コウは階段を駆け下りて靴を履いて、庭に飛び出す。
「思えば、欲しいものはすべて与えて育ててきてしまったので、息子がどうしても手に入らない『何か』を、欲している姿を見たのが初めてだったんです。今回で言えば『ガトーさんと友達になりたがっている』ということなのだが。それで、ちょっと驚きましてね。……親バカな行動に出てしまいました。兄弟もいないもので……兄が欲しかったのかと思って。ご迷惑をかけてすいませんでした。」
「……いや、私の方こそ、仕事絡みのことなのかと思って身構えてしまい、ずいぶんきついことを言ってしまいました。それを反省しています。でも、まあよく見れば……女の子みたいな顔をした、かわいらしい息子さんですよね。」
ガトーと父親はそんな会話を交わしていた。ガトーのその歯に衣着せぬ褒め言葉(?)に、さすがにコウの父親は、吹き出して笑った。
「そうですね、あれは家内に似て確かに女顔だ。……しかし、もう十九ですよ、かわいらしいとはまた手厳しい。これからガトーさんのように、立派に育ちますよ。相手をしていただけるのだったらね。……ただし、手は出さないでくださいよ、なにしろ一人息子だ。」
「それほど女性に困ってはいませんよ。………出て来たな。」
「……ガトー!」
コウは嬉しそうに、レンガ作りのバーベキュー用オーブンに駆け寄った。それから、父とガトーを見比べて、とりあえずこう言った。
「ようこそ! あの、ガトー……肉は好き? 俺は好き。」
「私も好きだな。だからこんなに大きくなった。」
「本当? じゃあ、俺もたくさん食ったら、ガトーみたいに大きくなれるかな……」
「いや、ガトーさんほどは無理だろう。私くらいで我慢しなさい。」
「……コウが大学で勉強をしているのはなんだ?」
「経済!」
「お父さんのあとを継ぐのか?」
「うーん……そこまでは考えてない。ガトーは、今の会社、面白い?」
「ああ、そうだな、だから朝から晩まで働いている。」
「へぇ……!」
勇気を出して良かったな、と思う。だから、勇気を出して、ガトーに声をかけてみて。そりゃ、確かに最初はストーカーっぽかったけれども。……あと、父親にずいぶん助けられたけれども。でも、勇気をだして、この人と友達になりたい、と思って。……本当に良かったな。ドキドキはまだしている。でも、『ジョーズ』のおもちゃはもういらないかな、と思った。……十一月三日の文化の日、秋の綺麗な高い空に、立ち上ってゆくバーベキューの煙を見上げながら。
これからは、ガトーと話をするたびに、同じドキドキを味わえるから。……だからおもちゃはもういらない。そう思いながら、コウはさっそく肉にありつくことにした。
2005/11/18 ←書いた日
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