にがつじゅうよっか
その日、コウは自宅近くのコンビニにたまたま立ち寄って………なかなか、『物悲しい』ものを見つけた。物悲しい、というか。
「……………」
平たく説明すると、『大特価!』と銘打ってレジの目の前に置かれているバレンタインデー用のチョコレートである。ああそうか。では、今日はバレンタインだったのだと、そこで初めて気付いた。この年になったら、母親も息子にチョコレートなどくれはしないし、ガールフレンドも、それどころかサークルの後輩さえ居ないコウにとってそのイベントはかなり縁遠い。というか……そうか。大学生になってしまうとこの時期は春休み中で、そもそもバレンタインがかなりどうでもいいシロモノになってしまうんだな。
ともかく、コウはしばらく悩んでから、数百円の中くらいの大きさのチョコを一つ買った。少し恥ずかしいかな、とも思ったが、安くなってからチョコを買う甘いもの好きの男、くらいでレジのお姉さんも勘弁してくれるに違い無い。
「ありがとうございましたー。」
あっけないほど簡単にチョコは買えて、そこではた、とコウは立ち止まった。どうしよう。自分は雑誌を一冊買おうかな、と思って家を出て来ただけだ。それが、気が付いたらチョコを一つ買ってしまっていた。
「………しょうがない、」
行くか。と思ってコウはまず自宅に電話をかけた。出た母親は、『ちょっと友達と急に会っちゃったんで今日夕飯要らない、夜中まで帰れないかも。』というコウのへたくそな嘘を黙って聞いていたが、
『………嫁入り前のお嬢さんに、へんなことをするんじゃありませんよ。』
と、ワケの分からない言葉をコウに言った。………あー、お母さん。俺、そんなにもてないです、急に外出して女の子に出会って、そしてチョコ貰ったとか。そんなに自分の息子がもてると思ってるのはあなただけです。
ともかくコウは、電車に乗ると、自分の家から二駅だけ離れているその場所へ向かった。
マンションのフロントのキーナンバーを教えてもらったのは実は最近のことである……コウは、きっと家賃高いんだろうなあ、でもその家賃はきっと会社が出しているんだろうなあ……といつも思うことをまた思いながら、ガトーの部屋に向かった。
夕暮れ時だ。
ガトーの部屋のドアの前まで辿り着いて、そこで唐突にコウは思った。………ちょっと待て、大体ガトーは今日、帰ってくるのか? 目の下には東京近郊の、ありきたりな町の風景が見えた。小さいサイズで動いてゆく電車や、ネオンのともりはじめた繁華街、遠く多摩に向かって霞む家々の連なる丘陵地帯、などが。……そうか。俺、ガトーの家に平日に来たのが初めてだったんだ。
「………ま、終電までに帰って来なかったらしょうがない、帰ろう。」
コウはそう呟くと、オレンジに染まった町を見下ろすことをやめて、ドアの前に座り込む。ガトーというのは、とてつもなく忙しいらしいサラリーマンである。合鍵……合鍵、そうだな、マンションのフロントのキーナンバーだけではなくて、部屋の合鍵もぶんどっておけば良かったな、などと思いながらコウは買って来たばかりの雑誌を広げた。
ガトーが帰って来たのは、実に夜中の十一時過ぎであった。コウは、近所の人に不審に見られたり、思ったより寒かったりで結構うちひしがれていたのだが、買った雑誌も全部読んでしまったし、ああもうしかたない帰ろう………と思った矢先のことである。
「………何をしている。」
ガトーの第一声はそんな言葉だった。
「………いや、あの。今日ってさ、バレンタインデーで………」
コウは座りっぱなしでギシギシ言いはじめていた身体を延ばしながら、すこしよろけて立ち上がる。
「………ああ。そう言われれば、今日は二月十四日だったな。」
ガトーはそんなことを言いながら、部屋の鍵を開けた。とにかく驚いたらしい。今年の元旦に、ただの友達から妙な関係になってしまった二人だったが、少なくとも、学生とサラリーマンという身分(?)の違いもあって、平日には電話をかける、くらいしかこれまでもやってきていない。大体、男同士が寝るような関係で付き合っていること事態あいまいで不安定で、男女が付き合うようにはゆかないのだろう。平日にはあんまり俺の顔なんて見たく無いんだろうね、ということぐらいは、分かっているつもりだった。
「うん、だから。………あの、チョコとか買ってみたんで。……あんたにやる。」
コウは、時計で時間を確認しながらコンビニの袋に入ったままのチョコをガトーに差し出した……よし。終電には間に合うな。
「…………」
ところが、返事が無い。コウがいぶかしく思って時計から顔をあげると、ガトーが妙な顔でコウを見ている。
「………なんでチョコレートを私にくれるんだ?」
「え? ………え、だって、バレンタインだから。」
「バレンタインは、男性が女性に薔薇の花束を送ったり、食事に誘ったりする、聖ヴァレンティヌの祭日の事だろう。」
……………ここで、長い沈黙。
「え、あの………えー。外国だと、バレンタインってそうなのか!? 悪い俺、知らなくて、」
「ちょっと待て。」
するとガトーが、開いたドアから部屋の中に書類カバンだけを放り込んで、そしてコウの手首を掴んだ。
「………冷えてるな。いや、待て。では日本では、バレンタインとはなんなのだ。」
そう、目をしっかり覗き込まれて言われるとコウも困る。そこで、微妙に視線を逸らしながら、だがしかしコンビニのビニール袋は突き出したままで、小さな声でこう言った。
「日本だと………あの、日本だと『好きな相手にチョコをあげて告白する』日なんだ……女の子が、なんだけど。」
次の瞬間、コウは部屋の中にひっぱり込まれてキスをされていた。
「………なっ、なんだ!?」
自分を部屋の中に放り込んで急にキスをしたガトーに、コウはとりあえず驚いてそう言った。……っていうか、危ないよ! いくら自分ちの目の前だからって、急にキスとかしちゃあ!
ガトーは離してくれないのだが、深いキスに息の切れたコウはとりあえず、どんどん、とその胸を叩いて抗議する。
「いや、なるほど。………チョコをね。………女の子が。………好きな男に。ところで、貴様は男だろう。」
「だからさ、あの、そんな深い意味なくって………っ、ん、」
言いかけたところを、また唇を奪われた。コウには何度考えても、どうしてガトーの家の玄関で壁に身体を押し付けられて、口のなかをまさぐられる事態になっているのかが理解出来ない。
「……あのその………おおお俺、終電もうすぐだから、帰らないと………」
「そうか。」
そう答えながらも、ガトーはコウの身体を手放そうとしなかった。電気も付いていない午後十一時過ぎのマンションで、帰って来たとたんになにしてんだこの人!
コウはやけに客観的にそう思った。
「だから、帰らないと、って………んっ、ちょ、あのさぁ……!」
あろうことか、ガトーは止めるどころか、コウの下半身に手を延ばして来た。ちょっと待てよ。コウは思う。どうしてこの人今日はこんなさかりついてんの。平日なのに!
その時、ガトーが急にコウの手からコンビニのビニール袋をとった……奪い取るに近いくらいの勢いだった。
「………だから、何。」
「貰う。…………嬉しいかもしれん。」
ガトーはそれだけ言った。コンビニの袋の中には、『京都 辻利』とかいうところの抹茶チョコレートが入っているはずだ。わけわっかんねーよ、と、コウは思った。
ともかく二人は、平日に初めて恋をした。
次の日、仕事に出かけてゆくガトーは少し辛そうだったが、自業自得だよ! とコウは寝たふりで見送った。………合鍵も作ろう、とガトーが言ってくれたことが、
とても嬉しかった二月十四日の夜だった。
2002/03/03 ←コピー本『さんがつみっか』収録
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