夏休みが明けてすぐの午後。
休みの間も結構マメに通っていた剣道部の部室のドアを開けると、部室がちょっと狭く感じた。もともと防具やらロッカーやらで、決して広い部屋ではないのだが、今感じている狭さはすべてある人物が原因のようであった。長めの髪を後ろできっちりまとめているのは分かった。その髪が銀という、ちょっと簡単には染められないような色をしている。それにしても、髪を染めるような人間を、いわゆる『軟派』が嫌いな主将がこの部屋に入れる筈もないと思っていたら。
「おう、浦木、来たか。ちょうどいい」
主将がその人物の向こうから声を掛ける。主将もデカい人だが、主将と自分の前にいる人物はさらに大きかった。彼がふりかえると同時に、コウはちょっと息を呑む。
顔立ちはまるっきり欧米人の、それもかなり端整なそれだった。冷たい色をした、きつそうな視線が自分をじっと見詰めていて、何も後ろめたいことはしていない筈なのに、妙にコウをたじろがせる。
「彼は、昨日の練習後に入部希望で来たんだ。名前は……」
「アナベル・ガトーです。よろしくお願いします」
外見とそぐわない、明晰な日本語で彼はそう言った。
文責:樹さん
『バラ色の日々』コウ・ガト−馴れ初めバージョン。
「うえ……………あの外人、めっちゃ強ぇ…………」
自分と同じ1回生が思わずそういうのを耳にして、コウは3回生と稽古をしているアナベル・ガトーの方を振り向いた。確かに、あの留学生は、完全に部の主力である筈の3回生を圧していた。
「一本!」
基本的に稽古中の私語は禁止されているため、周囲がざわめくということもない。だが、それでも、視線が集中してしまうのは避けられなかった。
「次……………1回生の中で、誰か彼と稽古を着けてみたいという奴はいるか?」
「はい!」
主将の声が聞こえたのと同時に、条件反射のようにコウは手を挙げていた。
小学校に入る前からずっと剣道をしていたコウは、今年入った部員の中では一番強い、と周囲からも認められていた。上級生と模擬戦をしても、2回に1回は勝てる。当然、それなりの自負もある。
それに加えて、コウは強い相手にはとにかく当たってみたい積極的な青年ではあったのだ。
「よし、じゃあ次は浦木が行け」
こいつ、強い。
いざアナベル・ガトーと竹刀を交えてみて、コウは痛感した。勝てなかったのは、先輩達が弱かったのではなく、この男がとにかく強かったからだ。コウとて、自分の腕にはかなりの自信を持っていた。高校の時はインターハイにも出場して、かなりいい成績も修めている。それなのに。
どうにも攻めにくい。ただ身体が大きいというだけではない。とんでもない威圧感を感じてしまうのだ。
酷く動きにくい。何度打ち込んでみても、簡単に攻撃を封じられてしまう。本来先攻型の自分が、次第に防戦一方に回っていくのが判った。それでも先に破れた先輩達よりもよほど長い時間「負けずにはいる」のだが、そんなことはコウにはなんの意味もない。勝てない。いや、勝てると、思えない。事実よりも、自分の意識がそうまで追い込まれていることの方がコウにはショックだった。
自覚以前のその思いを振り払うように、コウが大きく踏み込むと、二人の竹刀がぶつかった。その反動で僅かに後ろに下がると、ガトーはコウの右胴を狙ってきた。それをさらに踏み込んで竹刀で受けようとして。
(……………しまった……………!)
コウの竹刀を軽く打ったガトーのそれが、大きく動いた、ような気がした。実際には先端だけが動いただけだったが、コウは真剣の切っ先が翻って自分に向けられたのを、見た。
「一本!」
審判役の先輩の声が、どこか遠くに聞こえていた。
悔しくて仕方がない。本気になって、それでも勝てなかった。作法通りに竹刀を収めながら面の下の男の表情を窺うと、顔に汗を浮かばせつつも試合前と同じ、涼しい顔をしている。
「やっぱり駄目だったかぁ。浦木ならいいとこ行くと思ったんだが」
「入部には問題ないな」
先輩達の話し合う声も、今のコウの耳には入らない。
負けた。
負ける、だけなら、初めての経験じゃない。試合でも稽古でも、負けるなんて、コウにとってもない話じゃない。それなのに、あの男に負けたことがこんなに悔しいのは、きっと。
自分が、怯えてしまったのが、悔しいのだ。剣道で竹刀を打ち合わせている、という感覚とは異なっていた。幼い頃に一度だけ見た、真剣同士の試合。打ち合って毀れた刃の破片が飛び散って、試合をしていた祖父の顔面を傷つけていた。だが祖父の額に滲むその血よりも、周囲を圧する気迫が、怖かった。
その時と似た感覚を、あの男の太刀筋から、感じていた。
……………だけどそれにしたって!!
あそこまで気圧されてしまう自分が悔しい。
悔しくて悔しくて、震える吐息を抑えて面を取る。唇を意識して引き結んでいないと、何かが崩れてしまいそうな気すらする。
主将の、20分休憩、という声を聞いて、コウは黙ってタオルを掴んで立ち上がった。その背中にガトーが視線を向けたのには気付かずに。
他の部員達が使うであろう水道を避けて、別館の外れの水道の前で一息つくと、ふいに視線がじわりとぼやけた。
悔しくて泣いてるのか、俺は。
慌てて目元をぐい、と拭うと、水道の蛇口を全開にして、勢いよく流れ落ちる水の中に頭を突っ込んだ。火照った頭皮を冷たい水が伝わっていくが、今のコウはそんなことも感じる余裕はない。
自分では、そんなに弱いとは思っていなかった。それなのに、勝てるのではないか、という希望すら全く思い浮かばなかった。手も足も出ないとはこのことだ。
悔しい。
………ガイジンの癖に。そんな言葉が頭をかすめて、コウは慌ててそれを否定する。どこの誰だって関係ない。あんなに強いんだから。
だけど次こそは。
絶対に勝ってやる絶対に勝ってやる絶対に勝ってやる絶対に勝ってやる絶対に勝ってやる絶対に勝ってやるこの次こそは絶対に!!!
シンクの端を掴んで、コウは心の中で叫ぶ。悔しさと、自分の不甲斐なさに対する怒りの中で、だがコウはふと懐かしいものを感じた。
こんな風に何かを必死に願うなんて。こんなにも、強くなりたいと思うなんて。
まだうんとガキの頃、ちょっと剣道が上手くなって、でもどうしても祖父に勝てなくて、勝ちたくて勝ちたくて毎日遊びも宿題も放り出して竹刀を持って祖父に向かって行った頃以来じゃないのか……………?
まるで目が覚めた時のように、身体の中で何かが動き出す。心臓の鼓動にも似たうねりが、手の指の先まで伝わっていくような感覚に、コウは拳を握り締めた。身体が熱くて、頭の中も熱くて。じっとしてなんかいられない。こんなところで落ち込んでいる場合じゃない。一回でも多く竹刀を振って、一度でも多くあいつと戦って。
勝ちたいから。早く動かなければ。
そう思ったコウは、いままでずっと蛇口の下に突っ込んでいた頭をあげた。しかし芯までびしょぬれになっていた頭を上げると、首筋まで水が伝わってきて胴着を濡らす。慌ててもう一度頭を下げて、そのまま近くに置いた筈のタオルを探すが、なかなか手に触れてくれない。と、誰かが振り回されるコウの手の上にタオルを置いてくれた。
「あ、ありがとう………………………………………っわああっっ!!!」
「……ご挨拶だな」
何が悲しくて、たった今決意も新たに宿敵と定めた男にタオルを渡されなければならないんだろう。
「なんで、あんたがここにいるんだよ!!」
「休憩中だ」
自分との稽古が終わった直後に道場を飛び出して、ずっと帰ってこないコウがちょっとは気になったというのもあるのだが、別にわざわざそんな事を伝える必要もあるまい、とガトーは思った。だから、コウはそんな事は気付かずに、ガトーを見上げた。コウも決して背は低くないが、ガトーと比べればその目線は確かに違う。それもまた今となっては癪に障る。
それにしても。西洋人顔で、銀髪でしかも長髪というスタイルなのに、やたらと胴着と防具が似合っている。しかも甘くない表情にこの長身だから、とにかく迫力がある。まあ、こいつになら負けても仕方ないのかも、と、ぼんやりそう考えかけてコウは慌てて否定した。駄目だ!外見に騙されるな俺!!
「アナベル・ガトー!!」
すこしだけ上にあるガトーの目を睨みながら、コウは人差指を突き付ける。決心が揺るがないうちに、宣言してしまおうと思ったのだ。口に出してしまえば、自他ともに引っ込みがつかなくなろうというものである。
「次は必ず、俺が勝つからな!!」
ガトーは、その突き付けられた指先からコウの顔までしげしげと眺めた後、僅かに笑った。
「お前が?」
不可能だとは言わない。今はまだ確かに、技術的にはともかく精神的には未熟な部分もないではないが、それさえ超えられれば、自分を倒すかもしれない。何よりも、今日試合をした部員の中では誰よりも、ガトーの気迫に引かなかったのだから。だが例え彼が自分を倒すとしても、それはしばらく先の話だろう、とガトーは思う。
それにしても。
………夏の間に日本に来て、まだ2ヶ月ほどにしかならないが。何処でも、誰もが、自分に対して遠慮する素振りを見せていた。結局この国では外国人という奴はお客様にしかなれないのだろうと、思い始めていたところだったのに。よくもここまでストレートに自分にぶつかってくる奴が居たものだ。まるで、彼の剣筋そのままに。
自分をただ自分として認める人間がいるのは、ガトーとて素直に嬉しい。
だが、ガトーのその表情をコウは違う意味で取ったらしい。
「……何が可笑しいんだよ」
「別に無理だと言っている訳ではない。僻むな」
コウが剣呑な空気を漂わせ始めたのをさらりと受け流す。もっとも、こういうことをはっきり言ってしまうのは、この男が実はまだ日本語、というか日本文化に慣れていないからなのか、それとも、元からそういう性格だからかは言われたコウにも定かではない。が、それを素直に受け取るのは相手がコウだからだろう。こう言われて深読みしないでいられる人間も珍しい。
その珍しい人間は、しばらく視線を泳がせて考えた後、大きく肯くと、がし、とガトーの胴着の袖を引っつかんだ。
「よし!!んじゃ、今からやるぞ!!リベンジだ!!鉄は熱いうちに打て!!」
「……………なんだと?」
意気揚々とコウはガトーを剣道場へ引きずっていく。コウの気合の入りまくった顔に半ば唖然としながらも、ガトーは奥歯で密かに笑みを噛み殺す。
アナベル・ガトーの留学生活は、どうやら充実したものになりそうだった。
#おまけ。
二週間後の昼下がり。
留学生が多いクラスというのは確かにあるもので、その教室の大半は日本人以外の学生で占められていた。
そんな中でも飛びぬけて目立つ二人が、席を隣り合わせて座っていた。「見ただけで女子学生が妊娠する」だの、「全ての男子学生の敵」だのと、本人達(の片方)にしてみればありがたくもなんともない渾名を早くも付けられてしまった、金と銀のコンビである。
別段非常に気が合うという訳ではなかったが、留学生学生会館では同室の住人で、かつ同じフランスからの同時期の留学生ということもあって、ガトーと『金』のシャア・アズナブルは行動を共にすることが多かった。だが、二人は容姿端麗・成績優秀という、曖昧この上ない表現上では似通っていたが、少し注意してみれば行動も性格もかなり異なっていた。
今だって、ガトーが良い姿勢のお手本のように背筋を伸ばしているのに対して、シャアはなんとなくけだるい雰囲気を漂わせながら椅子の背もたれに寄りかかっていたりする。
「………アナベル・ガトー君」
「なんだ」
「ここ何日か、君はずいぶん楽しそうに見えるんだが」
シャアという男は基本的にマイペースで他人の視線など頓着していない。もっともガトーも人のことは言えないのだが、ガトーが心底「我が道を行く」のに対して、シャアは結構人の気配に聡いところがある。まだそれほど長くない付き合いであったが、ガトーにもそのくらいのことは分かり始めていた。
「実際楽しいからな」
あの坊やがやたらと付きまとってきて、退屈している暇もない。
ガトーがあっさりそう言うと、シャアはあくびを一つした。
「……………羨ましいよ」
「コウってさあ……………」
同じ時間、別の教室の前で。アムロがかったるそうにヤニをふかしながら声を掛ける。午後一の般教の授業の直前で、やる気のなさと眠気の両方に押し捲られているのだ。
「なんだ?」
それに比べて、コウは非常に元気だ。別に授業に力が入っているのではない。本当は授業など放り出して道場に行きたいのだが、行ったところであの男もこの時間は授業が入っていると知っている。かなり強引にガトーの行動スケジュールを聞き出したのだ。
「いっつも前向きだけど………最近、輪をかけて前向きになってんね………」
その言葉にきょとんとしたコウだが、やがてにぱっと笑って答えた。
「当ったり前だろ!!」
あの男と戦って、いつか必ずあの男を倒して。
全ては、これからなのだから。
……やたらと体温の上がっていそうなコウの隣の席に座りながら、アムロはもう昼寝モードに入っていた。
お互いの友人同志が巡り逢って、コウとガトーがとんでもない疑問をアムロからぶつけられるのはもう一月ほど後のことだ。
「いくら仲良いからって、セックスしようとは思わないよな?」
合掌。
#そしてツッコミの数々。
*物語が9月なのは、私の脳に「留学生は9月入学」というデータがインプリンティングされていて変更できないからです。
*なんでガトー様がこんなに剣道強いかなんて私は知りましぇーん。ま、ガトー様だからということで(笑)。ご都合主義でGO。だってこれギャグだし。ギャグ。
*祖父って誰?何も考えないで書いてましたが、なんとなくイメージとしてはバニング大尉!?(爆笑)……………あ、しまった。激ツボだ。
*精神的に未熟と言うより、前向きすぎるんではないかと。なんかこのコウって、落ち着きと言う言葉とは無縁の気がするんですが。すまん、コウ、私のせいだ。でも修正はしてやらん。
*って今気付いた、この話ってコウ×ガトー!?(爆笑)
*女と遊びまくってるくせに(偏見)なにを退屈がっているかね、シャア・アズナブル。
*あ、題名付いてないや。
2000/06/17
この話を樹さんに頂いていなかったら、本当に「ばらいろ」はここまで続いてなかったんです。
頂いたときに、あまりに嬉しくて樹さんに結婚を申し込んだ記憶があります(笑)。
それくらい嬉しかったんです。本当にありがとうございました。
2001/12/25
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