2007/12/17 (イトエンさんのサイトにて初出)

 ばらいろ小咄。『誘惑』



 その日は、たまたまポケットにいいものが入っていた。







「おーい、コウってば、こんなところで寝てると風邪ひくぞ」
アムロが声をかけても、当の本人は芝生に寝転んだまま静かな寝息を立てている。
時間は昼を二時間ほど回ったところで。
昼前に見たときは生協食堂で日替わりランチをおなか一杯食べた!とご満悦だった彼は、次にアムロが見かけたとき自主休講をきめこみ暖かく日の当たる芝生内で昼寝をしていた。

「おい、コウってば!」
アムロは「いい加減こいつってばよく眠るなぁ」と思いつつコウの寝顔をみる。
コウの黒髪はきれいだ。
一本一本が、さらさらまっすぐでそして艶やかなのだ。
何気なく見た滑らかな頬のラインが意外とストイックなことに気づいて感心する。

そろそろ枯葉が混じり始めた芝は夏の勢いは無い。
その上を僅かに冷たさを含んだ風が吹きぬけようとしていた。

アムロは自分も芝生に寝転び、頬杖をつきながらしげしげとコウの寝顔を眺めた。

うん、やっぱりきれいなつくりをしているんだなコウって。
そんなことを口に出したら、きっとコウはぽかんと口をあけ、「こいつ大丈夫だろうか」とアムロの額に手を当てるだろうが。


アムロはそこで、コウの唇が荒れていることに気づいた。
いつにも無く、くちびるの線に白い荒れが目立つ。
「最近レトルトばっかり食べてるんだ、あーガトーの手料理が食べたいなぁ」
そういえばこの間コウがぼやいていた台詞を思い出す。
コウが取っている講義の教授はレポート課題をたくさん出すので有名だ。
アムロは要領よくその講義をとらないように立ち回ったつもりだったが、コウは真面目にその多すぎるレポートに取り組んでいたらしい。
しばらくコウは遊びも、クラブの活動も控えてまっすぐにマンションへ帰っていた。
食事までは手が回らないからコウはきっと簡単なものしか食べていない。
アムロにとってもそうだが、特にここしばらくガトーの手料理に舌を甘やかされているコウならレトルト生活はきつかっただろう。

一人暮らしのマンションにはレトルト食品が散乱しているにちがいない。
うん。
きっとそうだ。
“レポートは昨日で終わったから、久しぶりに待ち合わせて一緒にガトーとシャアさんのところに遊びに行こうぜ”
朝教室で会ったとき言っていたわくわくした声を反復する。
コウの喜びようは、ガトーの手料理が目当てだとは思ってはいたものの、そこまで栄養的にひっ迫しているとは思わなかった。
そう思って改めてみると、コウはすこし痩せたような気もした。

だいたい、普段ガトーの手料理を食べている舌がコンビニ弁当に満足できるはずもない。
ガトーも罪なことするよなぁ。コウももしガトーがいなくなったらどうするつもりなんだ。
うーむとコウの顔を見下ろしながらアムロは考える。

空にはいわし雲がかかり、長い残暑も熱をひそめつつある、初秋の日。
ふわり、と風がコウの黒髪を揺らした。
喉が渇くのか、コウが無意識のうちに唇を舐めたのが分かった。
荒れた唇を舌が濡らす。

―――ああ、これでまた唇が荒れるって。

「おい、コウってば」
アムロはいい加減退屈になってもう一度コウに声をかける。

「んーもうちょっとだけ…」

コウはいかにも眠そうに呟いてまた夢の世界に戻って行く。
舐めると唇がさらにカサカサになるのにと思いながら、ふと、アムロはポケットにいいものがあることを思いだした。

この間バイトに行ったときのことだ。
ジャンク部品を買いすぎて金の無くなったアムロが顔の広いカイに泣きついて何とか見つけた短期バイト。
仕事そのものは小さな個人事務所のデータをいじる簡単なものだったのだけれど。そこの社長が海外出張土産に会社にいた女の子たちに、とリップグロスを土産にばら撒いたのだ。
いまどき太っ腹な社長だ。
そのときアムロは多少緊張しながらも与えられたスペースで自分の仕事をしていた。
していただけだったのだが。
そのばらまきはアムロのデスクの目の前で行われ。
喜んだ女の子たちが銀色の包装から解き放ったものを見れば、桜色の小さなチューブが見えた。
キャンディのようにも見えたそれを事務所の女性軍は嬉々として手に取る。

アムロにしてみればそんなものは興味がなかったけれど、余った一つを彼女へあげたら?と押し付けられ。
―――恋人って言っても女の子の恋人はいないし、シャアは男だし、意外とこういうの喜ぶかもしれないだけに性質がわるいし
面倒だったが、断ったらもっと面倒そうなのでそのときポケットに突っ込んだままにしていた代物だった。

アムロはそろそろとポケットから箱を取り出してみた。
ジーンズに入れていた箱は多少ひしゃげていた。本体をそっと引き出してみる。
薄い桜色のチューブが出てきた。
そう、あの時みたままだ。

ブランド名が記してある半透明のチューブを見ると、それはなぜかメロンと書いてある。
リップグロスにメロン味か。
女向きの化粧品はよく分からない。

それでもその色はアムロの気にいった。
きれいな桜色だ。
斜めに加工してあるチューブの先から中身をそのままリップのように気軽に塗れるようになっている。
念のため香りをかいでみたら、確かにメロンのような香りがした。

女性たちに言わせると、“かすかなメロンの香りにグロス自体に甘みがあって使いやすい”そうだ。

「………」
迷わずコウの口に塗ってみた。

風が二人を揺らす。
周りを通っていく学生達はそんな二人に目を留めることなくそれぞれのおしゃべりや移動に夢中だ。



はたして。



「…美人じゃん」
拍子抜けしたようにアムロは言った。
相変わらず周りにはいい風が吹いてきて、ぱらり、ぱらりとコウの黒髪とアムロのふわふわした猫毛の髪をゆらす。
周りでの騒いでいた学生たちはそれぞれの授業を受けにばらばらと教室に移動をはじめ、いつの間にかまわりは人気がなくなり始めていた。

「…びじん、だよなぁ」

コウの口元に塗ったグロスは。
かさついた唇をしっとりと濡らしすんなりとその上におさまった。
いわゆる女装とかのように毒々しいものではなく、あえていうなれば口元に自然なつやと赤みをプラスして、コウの唇は美味しそうな果実のようにも見えた。

「やべ、俺まだ用あるんだけど、コウをこのままにしてたら襲われそうな予感」
笑いかけたアムロはそんな冗談を口に出しかけて、あらためて自分の言葉にぎょっとしてコウを見た。

相手は伸びやかな手足を伸ばしてすぅすぅと眠っている。

「いや、冗談なんだけど、冗談にならない、かなぁ」
アムロはまずい、と思い始めた。
冗談と気まぐれで塗ったリップはコウの口元で艶めかしく控えめに輝いていて。

こんな風に芝生に眠っているだけでなんだか危ない輩をひきつけそうだった。

「ハンカチ、はない、と」
ごそごそと荷物を探る。
そんな上等なものはそもそもない。

シャアだったら持っているんだけどなぁ。
ふいにしばらくあっていない微妙な人間を思い出しかぶりをふる。
ふき取ってやろうにもシャツの袖じゃあんまりだしコウも起きてしまうかもしれない。
それにさっき事務局に申請の関係で呼ばれていることを思い出してしまった。
早く行かないとあそこ結構うるさいんだよな。
頼りになるがもっぱら時間にうるさい事務官を思い出して顔をしかめる。

自分の気まぐれが招いたこととはいえ、友達をこんなところに、しかもこんな艶めかしい状態にしたうえで置き去りにすることに罪悪感を感じてアムロは周りを見回した。

そこでうってつけの相手を見つけた。
「ガトー!!」
大声を張り上げる。

「ガトー!こっち!」

銀の髪に、紫の瞳。そして他を圧倒する長身。
校舎を抜けて、見慣れた姿が歩いているのを見つけた。
銀の髪をいつものトレードマークのようにきちんと一つにまとめ悠然と歩いてくる。
そこにふられるアムロの両手。両手を振りながら通り抜けようとするガトーを呼び止めようと叫ぶ。
さすがに、目立つなぁ。
アムロはいまさらながらにそう思った。


「こっち、こっち!」

ガトーの視線は芝生の上で熟睡しているコウと、その周りで手を振るアムロを認めるやいなや、大きなストライドでこちらに向かってきた。

「…こんなところで何をしている?」
「いや、よかった!ガトーもう終わり?俺もう一つだけ用あるんだよね、すぐ戻ってくるからここで張り番してくれない」
そういうが早いか、かばんを持って軽やかに立ち上がる。
座り込んでいたせいかジーンズにたくさんの芝がついていた。

「…張り番?」
ガトーは改めてあたりを見渡した。
そこにコウが向こうを向いたまま寝ているだけだ。
コウの張り番か?この寝こけている?

「すぐ戻ってくるから!それまで番をしてて!そしたら一緒に帰ろう!」
あっという間にスニーカーが芝をけり、華奢な影と赤い癖毛が芝の上を走って校舎に消えた。


…アムロが言うことはどうもよく分からない。
ガトーは眉を寄せて残されたコウを見下ろした。

芝に埋もれて、当のコウはすやすやと眠っている。
そのいつもの姿にふと違和感を感じ、ガトーは向こうに回りまじまじとコウを見つめた。


その合間にも秋風がコウの黒髪を揺らす。

ぱらり、ぱらり、と。


「コウ、貴様いったい何をつけている」
すぐにガトーはいつものコウと違う部分を見つけた。
明るい太陽の下。
柔らかい桜色に唇が輝いている。

「んーーもうちょっと…」
コウがもう一度下唇を舐めた。










カサリ、と誰かが投げ捨てたらしいコンビニのおにぎりの包装が目の前をとんでゆく。








ガトーの目はコウの唇に釘付けのままだ。

明るい太陽が反射し、コウは一瞬だけ顔をまぶしそうにゆがめた。

「・・・・・・・・・」
そっと手を伸ばし、コウの顔の上にかざす。
大きな長い指のおかげで僅かな日陰が出来、再びコウは安らいだように夢へと漂う。
少し痩せたかもしれない、ガトーはコウの寝顔を見ながら思った。


眠るコウの頬は薄く肉が落ち、こころもち小さくなったように思えた。
きっとろくなものを食べていないのだろう。


そういえば、こんな風にコウの顔をまじまじと見つめたのはいつ以来だったろう。

そう、そうだ。
あのとき以来だ。
夏の、剣道の立会いをした、あのときだ。
あのコウの視線は面の向こうからでも鋭くガトーを見据えていて。
睨みつける黒い瞳。
深く、深く、こちらに入り込んでくる。

あの一瞬。

あの瞬間だけは世界にガトーとコウ以外の人間は存在しないと。そう思った真剣勝負。



だが、今はあのときのコウの鋭い視線は、ない。
ただ、緩やかに、満足そうに睡眠を味わうコウがいるだけだ。
あのときのむさぼるような視線ではなく、いまガトーはコウと静かに時間と空間を共有している。



「コウ」
もう一度だけガトーは声をかけた。






返事は、ない。











ガトーはその影を動かさぬまま身体をコウの脇に屈めた。

ゆっくりかがみこみ、耳元で低く囁く。


「コウ、起きないか」
さすがにコウは反応した。
「う〜ん、肉じゃが…食べた…い」
「コウ」


不意にそのしっかりと男性らしい指がかすかにコウの頬に触れた。


「風邪をひくぞ、コウ」


「ガトー、おひ…たし、も」




何の夢を見ているのだ、いったい。





薄い色を乗せた柔らかい唇に。
不似合いな台詞が響く。


「コウ」
ふいに。


ガトーの指先が動いた。
艶めく桜色の唇に触れそうになる。





あと、十センチ。

あと五センチ。

……一センチ。







カサ。
音が聞こえた。


「・・・・・・・・・」


カサ、カサ、カサリ。
後ろでことさらゆっくりと芝を踏む足音が聞こえる。


「…貴様、さっきからそこで何をしている」
ガトーは低い声でうなるように背後に声をかけた。

「あ、気づいたか、残念」
必要以上に音を立てながら歩いてきた足音がガトーの後ろで止まった。

楽しそうな声の持ち主を振り返り睨みつける。
ガトーの銀髪にまるで対照的に作られたような金色の輝き。

ガトーが睨んだのは、見慣れた、自分のルームメイトのはずの男。
もっともここ最近は別宅のようにしている場所に入りびたりの男ではあるが。

細いフレームの眼鏡の奥でブルーの瞳がこちらをのぞきこんでいる。
「シャア、貴様いつからそこにいた」
詰問され、シャアは頭を掻いた。

「いつからと言われても、いまここを通りかかったところだよ、ご覧の通り」
右手に参考書類を持ち、左手を軽く上げてみる。
すでに秋の気配を敏感に感じ、シャアはまだこの時期には珍しい長袖のシャツを着ていた。
秋めいている青空に映える金髪がいっそうすがすがしく見える。
その瞳が面白そうにコウとガトーを見つめた。


「まるで眠れる森の美女だとは思わないか」
シャアの目が細く笑って、コウを示す。
ガトーは無言で立ち上がった。
芝がぱらぱらと足元に落ちる。

「誰だい、コウ君にこんないたずらをしたのは」
シャアは長い足をゆっくりとまげて、コウの近くに落ちていたリップグロスを手に取った。
桜色のチューブ。
ふうん、と興味深そうに底に描かれた英語を読み取る。

「ランコムだね、日本未発売の奴だ。これキスすると甘い香りがするんだよ、しかし、女の子みたいだなこうしていると」
「貴様の使用感など聞いてはいない、ここを通りかかったらアムロがいてコウの見張りを頼まれた」
「で。眠れる美女ならぬ、コウ君の見張りをしていたというわけか」


ぱらり、ぱらりと揺れるコウの髪。
輝く桜色のくちもと。
それはコウのなんというか普段のキャラクターとはまったく別の顔を演出していて。。


対照的な、しかし美貌の主という意味では同じ男二人の間に沈黙が落ちる。

「なかなか、美人だな」
「…………」


「……で、見張りついでにちょっとつまみ食い?」


「何を言っている」
ガトーの目が鋭くなった。
「気のせいかな」
シャアがのんびりと答えた。

「何が言いたい」
「いや、お邪魔だったかな、とね」
「貴様と一緒にするな」





長身の二人が無言で目をかわす。
足元にコウを転がしたまま、一人は睨みつけ、一人はそれを受け流すように。

一陣の、風が吹く。




「う〜ん、五月蝿いなぁまったく」


大の男二人が。
一瞬険悪になりかけたとき、ようやく足元であくびをかみ殺しながらコウが起き上がった。
そのまま芝生に座り込んだまま自分を囲む男達を見上げる。

「コウ」
「コウくん、起きたかい」
まだ、半分夢の中の、その顔に。
ある意味我に返った二人が声をかける。


まじまじと二人の外国人に見つめられ、よだれでも出ていたのではないかと口元をこすりかけ、コウはいつもと違う感触に声を上げた。

「あ、なんだよ〜、口になんかついてる!すっげーいいにおいがする!」

「これじゃないのか?コウくんのだろう」
シャアが差し出したグロスにコウはきょとんと視線を返した。

「君のではなさそうだな」
シャアは軽く手の上に乗せたグロスを引っ込めた。



「こんなところで寝るな、風邪をひくだろう!」

間髪いれずにガトーがコウの腕を引き寄せ、無理やり立たせた。
そのついでのようにさっと唇を親指で拭う。

とたんにピンク色のグロスはすっかり落ちた。


コウはいつものコウになった。

「待ってよ、俺やっと課題が終わったところで、眠くてたまんないんだから」
「こんなところで寝る奴があるか、寝るならきちんと布団の上で寝ろ」

ごつん、とガトーに頭を小突かれていきなりの事にコウがむっと膨れた。
「なんだぁ、いきなり、寝ているところをおこしたと思ったら説教?」

「まあ、コウくん、秋風も吹いてきたことだし、そろそろ起きるのもいいんじゃないのか」
シャアがさりげなく助け舟を出す。
「あ、シャアさんも来てたの?じゃあ今日のガトーのところでの晩飯オッケーって事でいいのかなぁ」
コウの歓喜の声にガトーが眉を寄せる。

ちら、とシャアをみた。
シャアはそ知らぬ風で視線をはずす。
しかし楽しそうにこういった。
「確かに、外食も食べあきたし、手料理が食べたいところだな」

「勝手に決めるな」
ガトーが不機嫌そうに突き放す。
それにむかってコウは勢い込んで言った。
「え、だってレポートが終わったら手料理ご馳走してくれるって前に言ってたじゃないか、俺、食べたいものがあるんだよね」

「肉じゃがと、おひたしだろう」
ふん、とガトーが先を続けた。
コウはあっけにとられて立ち尽くす。

「え?…そうだけど、なんで知ってるの?俺前に言ったかなぁ・・・・・・まぁいいや、肉じゃがは人参なしだぞ、それから焼肉も!」

「何を調子のいいことを言っている!」
憮然としたガトーにコウは楽しそうに笑う。
「やきにく、いいよやきにく♪ほらきっとおいしいと思うよ!」
節までつけて歌い始めた。

「青少年の食欲は底なしだな」
シャアも呆れたように呟く。

コウは成人の男性の体格よりは細いが上背もあるのでやはりしっかりと食べるのだ。とはいえ、ガトーとシャアにはさまれるとなんだか小さく感じることをシャアは口に出さなかった。それに。
シャアはここにいるはずのもう一人の存在を強烈に感じた。

そう、ここには大事なもう一人がいない。
アムロが。

それにコウもアムロがいればそんなに小さく感じることはない。


「じゃあ、買出し行かなきゃ!買出し!」
意見が通ったことに上機嫌になりながらコウは笑った。



「まぁ、仕方がないな」
ガトーも呟きながら頷いた。
コウの唇が明らかな栄養不足で荒れていたのも味方したのだろう。

「でも、アムロがいない、そろそろおわるはずなんだけど」
コウの台詞に誘われたようにシャアも校舎を見上げた。

そういいかけた先から学生達が建物から吐き出されてきた。
雑多な姿の学生達。



「あ、アムロだ、アムロー!」
コウが目ざとく見つけて手を振った。
たくさんの学生達の中から目的の人物を見つけ出す。
皆のなかでも、不思議に目立つふわふわした赤茶の髪。
アムロも手を上げながらのんびりと傍によってきた。


「これからガトーんところで夕飯作って食べるんだって!買出し行こう!」


そういったコウの唇をみて、アムロは笑った。
かさついた皮膚が少しだけめくれ上がってきている。
ピンクのグロスは綺麗に拭われていた。

「あーやっぱり舐めちゃったな、塗った意味ないじゃん」
せっかく似合っていたのにな、とアムロは少し考える。
それがガトーとシャアに微妙な感情の波風を立てたことなど知らぬまま。
「なに?塗ったって」
コウが聞き返す。

コウの問いかけに答えようとして、アムロはシャアに気がつく。
アムロ自身も課題があったため一週間ぶりの対面だった。
しばらくアムロのところにこなかった女たらしだ。きっとまた新しい女を見つけてそこにもぐりこんでいたのだろう。

「おーいアムロ!シャアさん!買い物あるんだからいくぞ〜!」
コウの歓声が響く。

「今行く!」
アムロは返事をしながら横目でシャアを見た。
シャアはにこやかにアムロを見た。
「やあ」
「ひさしぶりじゃん」
アムロもしぶしぶと答える。
そんなアムロを眼鏡の奥から青い目が見つめる。
しばしの沈黙。

「そろそろ君のところへ行きたいんだが」
「今晩、あんた来るの?」
「もちろんだよ、君。たまにはいいだろう?私を追い返す気かね?」
さも驚いたようなシャアにアムロは頭を抱えた。
来る気満々じゃねぇか、新しいシーツに変えてないぞ、それから、気ままに過ごしたワンルームの部屋も薄汚れている。
そこまで、考え、アムロはばかばかしくなって考えることをやめた。どうしてこの男が来るってだけで女の子みたいにいそいそとそんなことを気にしなくっちゃいけない?
俺の部屋だ、シャアもきっと慣れてる。
「勝手にすればいいじゃん」
もちろん、シャアは勝手にする気だった。


「それから、これ」
シャアが手に乗せていたグロスを差し出した。


「うん?」
「君ね、悪戯もほどほどにしないと私は息が止まるかと思ったぞ」

「なにが」






アムロの不思議そうな顔を見ながら、シャアは小さくため息をついた。
アムロは自分が落とした波紋に気づいていない。




「何だってよりにもよって、あの時間、あの場を通りかからなくちゃならなかったのか、と思うね」
金髪をかきあげ、細いメガネフレームを顔の中央で抑えながらシャアは呟く。

隣にいたアムロは不思議そうな顔に答えず、シャアはそのまま続けた。
「あのまま放っておいたほうが良かったとも思ったんだが、さすがにアダムとイブに林檎を食べるようそそのかした蛇にはなれなくてね」

アムロは背の高い、時々セックスする関係の男を見上げた。

「?なんだよいきなり」
「まったく、罪作りなことをする小悪魔はいるわ、危ない均衡を踏み外しそうな輩はいるわ、くそくらえだな、しかもそれにどういう顔をしていいのか分からない私も私だ」
シャアは前髪をかきあげながらフランス語で何事か悪態をついた。
「顔?」。
かろうじて、本当にかろうじて、顔、という部分は聞き取れた。アムロにも。
なんだかいつもと調子が狂っているらしい、このシャアという男のつむいだ言葉から。
アムロはひどく跳ね上がった赤毛の頭をぽりぽりと掻き、それからあっさりと答えた。

「いつもどおりの女たらしの顔してるよ、あんた」

それから。

アムロは手をのばして、くしゃりとシャアの金髪を撫でた。
その指の感触に一瞬目を見開いたシャアは、その場でアムロの手をとり、ぎゅっと握った。
暖かい掌。
金髪の男は繋いだ手にむかってそっと呟いた。
「いや、ほっとしているんだな、私は」
それはアムロにさえ聞こえないほどの声で。

その視線の向こうでコウとガトーは、微妙な位置を保ちながらたわいも無い話をしていた。
それをみて、心底から安堵する。

やはり、あの時足音を立ててよかった。

この微妙な関係は、きっとあの時通りかからなければ崩れてしまったかもしれないから。

「なんだよ、わけわかんないことばっかり。あんたおかしいよ」
繋いだ手に戸惑いながらアムロがぶつぶつと呟く。




シャアはアムロに笑いかけようとして、ふと思いとどまった。
相変わらず左手の中にある、グロスの感覚。

「ところで、さっきのグロスは君のか?」
「ああ?そうだよ、バイト先でもらった」
アムロが急に変わった話題に、面倒くさそうにあわせる。
なんだよ、落ち込んでいるみたいだから慰めてやったのに。
シャアにつかまれたままの左手が熱い。
シャアは唸った。
思わず出てしまったような声。

「それは男からか?」
「いや、男って言えば男だけど、社長の出張土産だし、それにただのおこぼれだし」
アムロはシャアの豹変に驚いて手を振りほどいた。
なんだなんだ、ほんとうにいったいどうしたというのだ。

「何故ほどく、大体君は男からルージュをもらうということがどんなことだか知っているのか」

さらにむっとしたシャアにアムロは呆れた。
なんなんだ、ルージュって、たかがリップクリームじゃないか、そもそも、そんなこと考える日本人なんて今時いるとも思えない。こういうときに習慣が違うって困るんだよな、大体、この痴話げんかのような会話はなんだ?俺達は男同士だぞ、こんな構内で手を繋ぐってどんだけ目立つか。




いつの間にか振りほどいた手はまた繋がれていて。ああ、もうどうでもいいや、とアムロはまたうなった。
「おーい、アムロ!ガトーが秋刀魚と焼肉どっちがいいかって!」
やがて、数メートル先からコウが叫び、アムロは真剣に悩み始めた。


「秋刀魚かあ、それもいいな秋らしくって!焼きたてうまいし、でも骨が面倒くさいんだよな」
ぶつぶつと呟く。
「どちらかと言えば、私は焼肉のほうが…ってどうして私には聞かない!」
その隣でシャアが不満そうに声を上げる。


「おや、貴様も来るのか?それは失礼した」
ガトーがわざとらしく声をかけ、シャアはひどいなと口の端をあげて笑った。
「どこで買う?新鮮なとこがいいよな!」
その脇でコウは楽しそうにどこで買い物するかすでに算段を始めている。











四人の間に。


秋風が吹く。
そぞろ歩く四人のあいだに。




コウは何故自分の唇からメロンの香りがするのかと首を捻り。

シャアは相変わらずアムロにグロスを贈った相手のことを聞きたがり。

アムロはさっきのシャアの髪の感覚を思い出しつつ、秋刀魚も捨てがたい、と思った。




ガトーは。



長身のアナベル・ガトーは。

秋を感じる間もない、賑やかな、まったく協調性の無い一団を引き連れながら。
夏とは明らかに違う冷たさを含んだ空に目をやり。




一瞬。



あの一瞬。




確かにコウに対して感じた誘惑を秋風の中で封印した。







透き通った風が吹く。







ある、初秋の日の。
日差しが弱くなる前の。
まだ、木々の葉が色づき始める前の。











そんな、秋の日の出来事だった。


    







2008/01/17




*イトエンさんのサイトで一昨年、になるのかな?キリ番をGETさせていただいたのでした!

ってことで、御迷惑かなあと思いつつも大変我が儘なリクエストをさせていただきました、
「ばらいろを一本、書いて下さい」と。・・・うわっ!スイマセンー!
イトエンさんとはもう長いおつきあいになります。五年とかなっちゃうんじゃないですか(笑)。
しかもイトエンさんをイトエンさんって呼んでるの多分私だけだし(笑)。アレッ?
何故かこのサイトでだけ「イトエン」さんなイトエンさん(笑/意味不明)。
すごく丁寧に四人皆を書いていただいて本当に感動しました。こんなに繊細で素敵な話だったんだ、ばらいろって、
と思いました(オイ、ちょっとまて・・・)。このところに自分が書いたオフライン書き下ろしネタと
合わせて読んでいただいても全く矛盾を感じないこのクオリティ。すごい。もう続き、私の代わりに
書いて貰った方がいいんじゃないでしょうかイトエンさんに(だからちょっとまて)。
イトエンさんのサイトで公開されてから一ヶ月ほど経ったので、うちでも喜んで飾らせていただきました、本当にありがとうございます!!
ま・・・また気が向いたらよろしくお願いします(笑)。てか、今年こそ会えるといいですね(笑/御近所さんなんです)。
ありがとう、お魚ラブだよ!近所の台所の話ばっかりしててゴメンだよ(笑)!皆さんにもイトエンさんのファンになっていただけたら幸いです。
(・・・ってことで、実はイトエンさんはこの方でした/笑! → イトエンさんのサイト )




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