次の朝目覚めたコウは、何も憶えていないようだった。
「・・・ガトー?・・・あっれ珍しいな・・・こっちで寝たのか。」
「・・・あぁ。」
それで会話は終わりだった。確かに昨日、私は非常に珍しく・・・酒に酔ってコウのマンションで彼の寝室に転がり込んだ。・・・そしてろくに眠れなかった。
多少二日酔いのような気もしたが、朝練があったので簡単な朝食を食べて二人で大学に向かう。あくびをかみ殺しながら部室で道着に着替え、朝の空気の中で冷えきった道場の床に素足を踏み出した。昨日は剣道部全体の飲み会でもあったので、他にも眠そうな部員は沢山いる。
「最初に素振り百本。その後組んで打ち合わせを十本。・・・相手を発表する、笹沢と向井、山本と下沢、岡沢と須藤、浦木とガトー、伊藤 淳と横山、伊藤 尚と南条・・・」
「よろしくお願いしまーす!」
部長が組み合わせを発表して、部員達が順次向かい合って練習を開始してゆく。・・・こんな日にコウと当たらなくても良いのに。ガトーは舌打ちをしながらコウの前に立った。
「よろしくお願いします。」
互いに頭を下げ、素振りから開始。・・・普段なら心が澄み渡るように感じる早朝の練習も、今日はどこか気が晴れなかった。
「・・・うじゅっきゅう・・・百!」
素振り百本を終え、組手に入る。練習の型は決まっている。
「面!面!面!」
決まりきった練習をこなしながら、だんだんと腹の底に黒々とした、だが熱いものが溜まってくるのを感じた。・・・馬鹿が。
「胴!胴!胴!」
・・・馬鹿が、足りないだろうが。・・・全然、全く、足りないだろうが!
「・・・なにっ、」
目の前のコウがひるむのが見えたが、構わずに本気で撃ち込んだ。・・・かなり痛かったことだろう。したたかに脇腹を打たれたコウが、それでも素足を踏ん張って倒れ込まずに耐えた。・・・歯ぎしりしているその表情が面越しに見えるような気がする。
「・・・何すんだよ!」
「・・・あぁ、悪かったな。」
どうせ自分の表情も、面で隠れて見えやしない。・・・ガトーは薄く笑ってもう一回コウにしかけた。
・・・そこからは、まるで子供の喧嘩のような有様になった。
「・・・止めろ!浦木とガトーを止めさせろ!」
部長が異様な状態に気づいて、他の剣道部員達が二人を羽交い締めにするまでその無様な叩き合いは続いた。剣道ですら無い。
「何をやってるんだお前達!怪我をするぞ!?」
「・・・っ、」
「だから何だ!!」
二人ともが面を投げ捨てて同時にそう叫んだ。・・・剣道部部長は少し息を飲んだ。コウは泣きそうな顔をしていたし、ガトーは人を殺しそうな顔をしていた。
「・・・浦木とガトーはペナルティとして、一週間掃除当番!・・・今朝はここまで!解散!」
「ありがとうございましたぁー!」
他の部員達が次々と道場を出て行く間も、ガトーとコウの二人は荒く息をついて互いを睨み合っていた。・・・ああそうだよ、確かに足りねぇよ。睨んで来るコウの瞳が無言でそう言っているようで、ガトーは軽く目眩を感じた。・・・足りない。そうだ足りない、なんて足りない!!
会話も無く道場の掃除をしてから、他の部員が既に居なくなった部室に戻った。
「・・・」
気まずいことにコウとガトーのロッカーは隣り合わせで、嫌でも近くで着替えなければならない。袴を解き道着を脱いで、ガトーは酷い突きの痕が自分の肩にあることに気づいた。・・・今は赤いが、やがて紫色に腫れ上がるのだろう。ふと、脇で着替えているコウの方を見る。状態は似たようなもので、脇腹にミミズ腫れの様な赤い筋があった。自分がつけた傷だ。
「・・・何だよ。」
すると、自分の方を見ている私に気がついたようでコウがそう言って視線を上げる。
「いや、痛そうだなと思ってな。・・・私の付けた傷が。」
「ガトーの方が痛そうだけどな、俺の付けた傷で。」
・・・その先の言葉を、どう継げばいいのか互いに分からない。
「・・・ガトー、今日ちょっとおかしい・・・」
やがて、そう言ってコウの方が先に視線を逸らした。・・・俯く、その肩にも背にもじんわりと汗が浮かんでいる。
「・・・鈍痛だと思う。」
「は?」
「・・・鈍痛だと思うんだ、竹刀の傷は。」
「・・・まあね。」
刀を模した竹の枝で互いを叩き合う。・・・それはとても生温くて、恋愛で言ったらままごとのようで、と本当は言いたかったのだがその部分は耐えた。分かっているのかいないのか、コウはまだ自分の脇に、着替えかけで素肌を晒したまま立っている。少し息は上がったままだ。・・・どういった感じだろう。今、道着を脱いだばかりの少し苛立ったコウに触れたら、それはどういった感じだろう。私の掌はその少し湿った肌に吸い付くのだろうか。
「・・・真剣を握ったことはあるか?」
私が言葉を選びつつそう聞くと、コウが顔を上げた。
「うん。・・・じいちゃんが居合いをやってるんで、触らせてもらったことならある。」
「・・・真剣だったら良かったのに。・・・そうしたら確実に相手を殺せる。そう思ったことは無いか。」
「・・・」
コウはもうただ驚いた様に、自分を見つめていた。ガタン、と脇にあるロッカーが音を立てる。
「・・・俺、昨日何かガトーを怒らせるようなことしたか。」
「別に。」
「じゃあ、怒らせるようなこと言った?」
「・・・別に。」
コウはしばらく考え込んでいたが、やがて溜め息をつくと先にシャワー使う、とだけ言って部室の奥にあるシャワールームに向かった。小さな水音が聞こえ始めたので私はロッカーに背凭れて腕を組んだ。・・・水音か。水音が聞こえるとどうも良く無いな。昨夜の雨は今朝方には上がっていたが、どうも頭の奥がまだ麻痺しているように感じる。
「・・・空いたけど。」
どうやらぼうっとしていたらしい。気がつくと目の前に濡れたコウが立っていた。睫毛の先が少し震えているところを見ると水でシャワー浴びたらしい。何をやっている風邪をひくぞ、と普段の自分なら怒るところだ。
「・・・分かった。」
そう答えてシャワールームに向かおうとすると、後ろから声がかかる。
「ガトー、俺一限の授業があるから先に行く。」
「・・・分かった。」
あまり自分と一緒に居たく無いんだろうな、という事だけは良く分かった。どうにもならないのでシャワールームに入り、コックを捻る。・・・やはり自分も水にした。・・・少し笑った。
シャワールームからから出ると、もうコウは部室に居なかった。かわりに、部室の汚い机の上に走り書きのようなメモが残されていた。
『人殺しをするくらいなら、俺を愛してるって言え』
・・・私は無言でその紙を握りつぶした。そして肩に付いた痣に手をやる。鈍痛だ、と思った。なんて鈍い痛みなんだろう。心が苦しくてどうにかなりそうだ。・・・そして思った。
これがもし生暖かな鮮血の迸り出る分かりやすい切り傷だったならばどんなにか良かったことだろう、と。
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