ざぶん、と、何かが水に落ちるような音がした。・・・・何か、とても重たいものが。
うっとおしくて起き上がる気にもならなかった。・・・・日本という国は好きである。京都いう都市ももちろん好きである。・・・・・しかしこの暑さだけは我慢がならない。
「・・・・・・・・・・」
簡単に言うと、それに負けていた。・・・・暑さに、だ。ただ暑いのではない。湿気がある。フランスの夏には無い湿気だ。・・・・・薄く目を開いてからやっとここが、自分の住む部屋であることを思い出した。わずかに首を動かすと、コウが見えた。・・・・・そういえば来ていたな。自分は暑くて、動けなくなって、ベットに横になっていたので放っておいたのだ。まあ、いつも放っておいている。・・・・そうだ、そういえば来ていたな。確かに来ていた。
いつも通り、そうして勝手に部屋に来たコウは、一人で遊んでいるように見えた。しかし、私が少し動いたことに気づいたらしく、こちらを振り向いて見る。それでも私が何も言わないでいると、コウの視線は目の前の金魚鉢に戻っていった。
・・・・・・金魚鉢?
そこで私は、自分が寝ている間にコウが変なものを部屋に持ち込んだことに気づいた。いや、金魚鉢は前から部屋にある。その中には金魚の「きん」と「ぎょ」が住んでいる。そうではなくて、なんというか畳のようなものが部屋にあることに気がついたのだ。それは、畳のようであり、しかし薄っぺらに見えた。言う成れば畳で出来たカーペットのようなものだ、なんと言うのだったかな。そうして何故か、コウはテーブルを動かして、それを部屋の真ん中に広げて、そこに金魚鉢を持って来て嬉しそうに飾っていた。しかも、その金魚鉢をしきりにうちわで仰いでいる。
「・・・・・・・ざぶーん。」
しばらく見ていると、コウがそう呟くのが聞こえて来た。・・・・・・ああ、これか。
さぶん、と、何かが水に落ちるような音がした。何か、とても重たいものが。・・・・・水の中に飛込んで、ぶくぶくと沈んで、そうしてもう二度と浮き上がって来ないような、そういう音がした。
コウが「ざぶーん。」と呟くのを聞いて、だがしかし私は自分の聞いた音が、それでは夢の出来事だったのだと初めて気がついた。そうだ、コウは「ざぶーん。」と言っているきりで、それは私が聞いた音とは違う。ではそれはきっと夢の中で聞いた音だったのだ。なんてうっとおしい。・・・・・夏がうっとおしい、暑くて身動きの取れない夏がなんてうっとおしい。私は夏が嫌いだ。
「・・・・・・・ざぶーん。」
しばらく見ているうちに、コウが金魚の浮び上がる度にそう言っていることに気づいた。
「・・・・・・・ざぶーん。」
金魚が浮かび上がると言ってもあれだ。・・・・・金魚鉢の上の方に浮いて来て、パクパクっと、口を動かしている、という程度のものだ。しかしコウは調子をつけて、それに合わせてうちわを叩いては喜んでいる。・・・・・・浮かび上がる度に、ざぶーん。・・・・・ざぶーん。・・・・・・金魚鉢を仰いでいる余裕があったら、私を仰いでもらいたいものだ。
「・・・・・・・それは、」
私がついにそういうと、コウは振り返って言った。
「大丈夫か、ガトー?」
「・・・・・大丈夫なわけがない。」
・・・・・コウは私が夏を苦手であることを知っている。コウは、私が面倒臭くなってベットに寝ているだけなのを知っている。それで私も聞いてみた。
「それは、涼しいか。」
コウは、しばらく首をかしげてから・・・・・・・・畳で出来たカーペットのようなものに触って、「はい、これはゴザです。」と答えた。
「涼しいよ。」
「・・・・・本当か。」
だったら、私はそちらに移ろうとおもった。・・・・・・そうだ、ゴザ、だ。そんな名前だった。畳のカーペット。
「そこで寝てもいいか。」
「それじゃ場所を作る。」
コウはそう言って金魚鉢を動かした。長方形のゴザの、頭の方に金魚鉢を移動させたのだ。その間にも、鉢の中の水が揺れて、金魚も揺れるものだから、ざぶーん、というのをコウは忘れなかった。
「どうぞ。」
私はそれで、やっとの思いで立ち上がるとなんとかゴザの上に移動した。・・・・・・涼しいと言われれば涼しいかもしれない。薄目開けて見ると、コウはまだ熱心に金魚鉢を仰いでいる。
「・・・・・・ざぶーん。」
そこで、私はついに言ってみた。
「意味が無いと思うぞ。」
金魚鉢の中の金魚を仰いでみても、という意味だ。すると、コウは非常に驚いたような顔で私をみた。
「・・・・・・・そう?・・・・・ガトー、髪の毛を切ればいいのに。きっと涼しいよ。」
私はさぞや苦々しい顔をしたことだろう。私達はひどい午後の蒸し暑さの中で、部屋の中で、ゴザに並んで寝転がっていた。
「・・・・・・・そう?・・・・・ガトー、髪の毛を結べばいいのに。その方が涼しいよ。」
コウはそう言い直して、また金魚鉢に戻った。・・・・・・「きん」は最近太りましたね、などと言っている。
「・・・・・・何か涼しいことを言え。」
私は寝返りをしながらそう言った。・・・・・しばらくするとコウが数え出した。
「・・・・・・西瓜、すずむし、風鈴、ラジオ体操・・・・・・・ラジオ体操は、朝やるからね・・・・・・それから、ひやむぎ。」
「腹が減っているのか。」
ひやむぎか。そう思って聞くと、コウが驚いたことにこう言った。
「俺、ひやむぎ茹でようか。・・・・・・ガトー、俺ひやむぎ茹でられるよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
「食べた方がいい、食べないと夏バテはもっとひどくなる。」
放っておいてくれ、と思いながら閉じていた目を開いた。思ったよりも間近に、同じゴザの上に寝転がったコウの顔が見えた。・・・・・・・いつの間にやらうちわは放り出して、肩肘をついてじいっとこちらを見ている。
さぶん、と、何かが水に落ちるような音がした。何か、とても重たいものが。それが水の中に飛込んで、ぶくぶくと沈んで、そうしてもう二度と浮き上がって来ないような、そういう音がした。・・・・・・・沈むな、と思った。その重たいものは、ぶくぶくという水音と共に、とてつもなく心の底に、沈んでいって浮かび上がることはない。
思ったよりも間近に、コウの顔が見えた。・・・・・じいっとこちらを見ている。・・・・・ああ、うっとおしい。・・・・・・・・・・私は暑いのが嫌いだ、私は夏が嫌いだ・・・・・・・・・・・いいかげんにしてくれ。
「・・・・・・ちょっと、」
ごちゃごちゃと言われる前に、と思って私は凄まじく素早く、凄まじく身を起こすと、一瞬だけコウにキスをした。・・・・・・・そうしてまた、身動きが出来なくなって、ごろん、とゴザの上に横になった。コウの隣に、だ。深くふかくため息が出た。
「・・・・・・私の夏バテのことはいい。それより、何かもっと涼しいことを言え。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・バッカじゃねぇの、ガトー・・・・・・・・。」
コウは泣かなかった。・・・・・・・・・・かわりに、そう言って、両手で顔を覆った。それから、しばらく黙っていたが、もう一回同じセリフを繰り返した。
「・・・・・・西瓜、すずむし、風鈴、ラジオ体操・・・・・・・」
さぶん、と、何かが水に落ちるような音がした。何か、とても重たいものが。それが水の中に飛込んで、ぶくぶくと沈んで、そうしてもう二度と浮き上がって来ないような、そういう音がした。・・・・・・・沈むな、と思った。その重たいものは、ぶくぶくという水音と共に、とてつもなく心の底に、沈んでいって浮かび上がることはない。だがしかし、その沈んでゆくものが、その沈んでゆくもののかたちが、だんだんとコウになってゆくのを私は感じた。・・・・・・水の中に、コウが落ちている。コウが落ちて、そして沈んでゆく。・・・・・浮び上がることはない。
「・・・・・・・・俺、」
よほど経ってからコウが小さく呟くのが聞こえた。
「俺、これが・・・・・、」
泣いてはいなかったが、ひどい惨状に思えた。
「・・・・・・・ガトーが、手に入るのなら・・・・・・・他のものなんて何もいらないのに・・・・・!!」
水の中にコウが落ちている。・・・・・・・水の中にコウが落ちていて、私はそれに触れることが出来たら、どんなにか気持ちが良いだろうと思う。・・・・・・・・・・水の中にコウが落ちている。水の中のコウの黒髪が揺れて、瞳がぱちり、と開く。髪と同じ黒い色の瞳だ。コウは手を伸ばすのだが、その格好のまま、ただ沈んでゆく。私は、それに手を差し伸べることが出来ない。コウもそれを知っている。知っていて、水に飛込んだのだ。ざぶん、という音だけが私の耳に残る。・・・・・・・・・・・・・ざぶん、という、水音だけが、
「・・・・・・・・・・・・・手を、」
ようやっと、私はそれだけを言った。・・・・・・・・それが、今出来る全てのことのように、その時は思った。言った瞬間にコウが私の左腕を掴んだ。手を繋ぐどころでなく、本当に手首を掴んだ。
「・・・・・・この、」
「・・・・・・はい、これはゴザです。・・・・・・・涼しい?・・・・大丈夫か、ガトー。」
私が最後まで聞く前にコウがそう答えた。・・・・・・・私は低く笑った。
私達はそんな格好のまま、夕暮れが来るまで、蒸し暑い京都の夏の中をゴザの上に寝転がっていた。そして夕暮れが過ぎてから、やっと起き上がって、ひやむぎを食べる気になったのだった。
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