自分の目の前を二、三度と、不思議なものが通り過ぎたような気がしてクワトロは目を細めた。・・・ちらり、ちらり。だがしかしその「違和感のある何か」は目の前を動き続ける。
「・・・・・」
しばらくの間は我慢してそれを眺めていたのだが、ついに我慢出来なくなって手を伸ばした。そうして、それ、をしっかりと掴む。
「トーレス、だからさっきから、アストナージも呼んでくれって・・・・・・・・・・・え?」
さすがに、手首を思いきり掴まれたアムロはそう言うと頭を回して隣に立っている人物を見た。
「・・・・・・クワトロ大尉?・・・俺の手になにか?」
「あ、いや・・・・・」
ここ、アーガマという戦艦ののブリッジで、早急に片付けなければならない幾つかの事態に直面したアムロは、なし崩し的に「なってしまったもの」とはいえ、ため息をつきつつ、だが堅実に、艦長の仕事をこなしている最中だった。
なし崩し的に、だろう。
一年戦争終結後初めて、命令でしかたなくコロニーへゆくため宇宙に出て、運悪くその旅客船が戦闘に巻き込まれ、更に運悪く(?)こうしてエゥーゴ側の艦に助けられてしまったからここにいる訳だが、もちろんアムロは艦長になるだなんて断った。ちょっと名前が有名だからってそんなのはひどい。しかし、艦長じゃ無ければパイロットをやれ、と言われてしまった。さらにひどい。『思い切れていたら』、戦時に旅客機で移動なんかしなかった。無理だ。ダメだ、まだ自分は。だからパイロットをやるくらいなら艦長をやる、と言ったのだが誰も止めなかった。出来なきゃ誰かがかわるだろうと思って引き受けたのだがこれまでなんとかなってしまっている。
そんな、艦長席に座ったアムロの指差したり手招いたり説明したりする手を、急に脇に立っていたクワトロの手が掴んだのである。指示を出し続けていた艦長の声が止まったので、ブリッジの全クルーは何ごとだろう、とさすがに艦長席の方を振り返った。
「・・・・・・クワトロ大尉。用がないなら、離して、」
「・・・・・ああ!」
ブリッジ中の視線に気付いたアムロのそんな声とは裏腹に、クワトロは納得したようで急に頷いた。
「分かった、爪だ。・・・・・爪が違うのだな。」
「・・・・はあ?つめ?」
忙しい軍艦の中のはずなのに、急に手を繋いだまま(いや一方的には繋がれたまま)動かなくなってしまった大の大人二人を、皆は面白そうに見続けている。
「君の爪はとても小さいな、その・・・・赤ちゃんの爪のように。」
そう悪気もなさげにクワトロに言われて、艦長はさすがにムッとしたようだった。
「そんなことはない。俺の爪が小さいのは、つまり深づめなのは、昔・・・・・・爪を噛む癖があったからだ。」
「ほう、昔っていつ頃。」
ついにアムロはため息をついた。アムロが「ためいき艦長」と言われる由縁の、あのため息である。
「・・・・・・あなたと初めて出会った頃にだ、・・・・・・いいかげん離してくれないか。」
そう言って手をふり払う。クルー達はもう面白くて面白くて、サエグサなどはこの会話をアーガマ中に放送して流した方がいいんじゃないかと思ったくらいだった。
「『初めて出会った頃』というのは聞かなかったことにしておくが・・・・」
クワトロは面白そうにまだ少しアムロの指先に手を触れてからこう言った。
「・・・・いいな。」
そうして面白そうに指をからめる。
「・・・・・いいな、こういう手だったらセックスの最中に背中に引っ掻き傷が出来ないだろう。良く手入れされた女性の爪なんてのはつまり・・・・・凶器のようなものだからな。」
アムロはぶ然としていた。ブリッジの他のクルーは忍び笑いで笑い死にしそうだったが、同時にもういい加減誰かがこの二人の漫才を止めてくれないものか、とも思っていた。・・・・仕事に戻らないと。
「・・・・・心配しなくていい、そんなことは、」
アムロが何か言いかけた瞬間にブリッジのドアが開いて、カミーユとアストナージが入って来る。
「・・・・何ですか、全員で後ろを向いて?・・・ここ、ブリッジなのに前を見てなくていいんですか!」
カミーユの台詞ももっともだった。ブリッジ内の妙な空気に気付いた彼は一瞬入り口で足をとめそう言ったのだが、しかしすぐにずかずかと元気に中に入ってくる。
「カミーユ・ビダン、呼び出されましたので来ました!・・・・・用ってなんですかアムロさん。」
不思議に睨み合った・・・・というかクワトロはそしらぬ顔でひょうひょうとしており、正確にはアムロがそんなクワトロを睨み付けていただけだったのだが、その二人のど真ん中に、容赦なく顔を突っ込んでカミーユは聞いた。アムロは軽く(掴まれていない方の)手を上げると、カミーユを待たせておいてクワトロに向かってこう言った。
「・・・・・心配しなくていい、そんなことは、」
・・・・そんなこと、の意味はカミーユには分からなかった。
「そんなことは決して無いから。」
アムロはこれ以上ないほどきっぱりと何かを突っぱねた。その態度にはゆるぎが無かった。そして、戦艦は日常に戻っていった。
幾つかの指示をカミーユに出して、そうして幾つかの報告をアストナージから聞いて、アムロは深く艦長の椅子に座り直した。クワトロは、アストナージ達といっしょにブリッジを出て行った。ほっとした。また、ため息がでた。それから、自分の手をしみじみと見た。・・・・・ちいさなちいさなつめのついている手。
「・・・・・・っ、」
その晩、ある種の習慣としてカミーユの部屋を訪れ、そうして一緒に眠ることになったクワトロは1つの事実に気付いた。・・・・・それはもう、唐突に気付いたのだ。
「・・・・・・君、」
「なにっ・・・・!」
目の前にあるすがりつくべき背中から、両腕を急に引き剥がされたカミーユは少しどころでなく驚いたらしかった。・・・・え、だって、こういう状況だったら人は誰も背中に手を回して、そうしてすがりつくことだろう、ダメなのか?
「・・・・・・君、君の手、」
当の本人であるクワトロは、自分に巻き付いていたカミーユの手を掴むと、それをしみじみと眺めている。・・・・なんでもいいけど『突っ込みかけ』でそれはないんじゃないのか!
「あのね、あなた・・・!」
「・・・・・カミーユ。君、『爪を噛むくせ』があるだろう。」
ところがクワトロは、実に自信満々に、そうして嬉し気にそう言ったのだった。・・・・・カミーユは考えた。・・・・・考えようとした!が、それどころでは無かった。
「・・・・・挿れるかやめるかっ、どっちかにしろって・・・・!」
「あるだろう?・・・・・ああもうどっちにしたいかなんて決まっているけども今は返事が実に知りたい。・・・・爪についてのね。」
男は自分のことしか考えていない、自分のことしか本当に考えていないのだ、そんなことは知っていた、いつもそう言う人間で、だから自分の心の中にあるそのマトモすぎる理想と欲望がこの世とそぐわないことに違和感を覚えつつも他にしようがないのだ。その事実に気付いていたカミーユは、しかたなしに返事をしてやった、
「・・・・・噛みますよ、爪は噛みます、そういうクセがあります、だからなんだっていうんですか、もう・・・・っ!」
その答えを聞いた瞬間、実に満足げな微笑みをクワトロは浮かべた。・・・・・それからゆっくりとそのちいさな爪のついた、カミーユの指先にキスをした。・・・・・こんな事実は昨日まで知らなかった。ああ、ではだからカミーユの背中にたてる指は痛くは無かったのだ。
艦長室でアムロは、ベットに腰掛けてぼんやりと自分の指を眺めていた。それには小さな小さなつめがついていた。昔爪を噛む癖があったから、大きくなれなかった、そういう爪が、である。
「・・・・・・・・・」
ふいに、その自分の指に口付けたくなった。・・・・そうされたように思ったからである。そこで、またため息をついた。アムロが『ためいき艦長』といわれる由縁の、あのため息である。
「・・・・・・・・・・心配しなくていい、そんなことは、」
ずいぶんと思い悩んだ。・・・・それから、結局手元に運ぶと少しだけ口付けた。
「そんなことは、」
ベットに寝転がる。・・・・・そうしてついにアムロは体をまるめた。
「・・・・・・・・・・・決して無いから。」
深く深く、戦艦の夜は暮れていった。
|