誤解だ」
「いいえ、理解よ」
 シャアとナナイはその日、執務室で膨大な資料と格闘していた。それも紙媒体の資料とだ。
「やはり誤解だよ」
「いいえ、理解ですってば。……我が儘な人ね」
「我が儘なのは老人達の方だろう」
 紙媒体の資料というのはまず第一に質量があるし、更に今回持ち込まれたものの中には酸性紙を使用しているものもあり、過年のせいで黄ばんだそれは、手に取った瞬間にパラパラと粉になるのだった。
「私は今回、図書館司書の気持ちがわかったような気がするよ……おやナナイ、これはどうだ」
「この手の『本』というのはあらかた旧世紀末にデジタル化されたはずなのですけど……ジョン・F・ケネディ。大統領就任演説。ええ、悪くは無いわね、新しい政治を始めようとする心意気に共通するものがあるわ。別にしておきましょう」
 この日、0092年の十一月頭にシャアとナナイの二人が午後の執務室の日だまりの中で何の資料と格闘していたのかと言うと、それは「演説原稿」に関する資料だった。
 シャア曰くの老人達、つまりネオ・ジオンの老齢な幹部達はどうもシャアに過分な英雄性を持たせたいらしく、その一挙一動に何かと口を挟んでくる。もっと品の良い御所作を、もっと知的な切り返しを。
 ナナイの目から見れば、そんなことは既に出来ているように思うのだがどうも老人達は納得しないらしい。シャアはそんな老人達を煙たがりつつも適当に流しているきらいがあり、そのせいで老人達もムキになっているのかもしれなかった。流している、というより面白がっている、というべきか。
「これはどうだろう……マーティン・ルーサー・キング。ワシントン大行進演説」
「それも体制に対する反発、という意味では間違っていない気がします。別にして」
「わかった」
 さて、そんな老人達が言うには『宣戦布告、及び独立宣言は歴史に残るものでなければならない』のだという。最初、シャアもナナイもいつも通りに面白半分に聞いていた。やや呆れつつ。ところが老人達は実力行使に出たのである。それが、この膨大な過去の有名な演説の資料だ。彼らはこれを執務室まで持って来てこう言った……人類史上最高の演説をして下さい。
「……やはり老人達は、私を誤解しているようなきがするよ」
「いいえ、何度も言いますが理解、です。大佐がそれだけの演説の出来る人だと信用しているのよ」
「ものは言いようだな、ナナイ」
 呆れ果てていてもどうにもならないので資料の整理を始めた二人だったが、これが思ったよりも面白かったのである。床に積み上げられた紙の束の脇に自分も座り込み、端から目を通しては後ろに放っていく、などということを二人ともがしたことが無かった。なんというか大掃除の最中に昔のアルバムを見つけてその度に手が止まる感覚に似ている。
「これはどうかしら。オットー・フォン・ビスマルク、鉄血演説」
「あぁ……それはどうかと思うが」
 ナナイが差し出した資料を受け取りながらシャアが形の良い眉を顰めた。あら、この人の顔ときたら埃だらけね。思いながらナナイも自分の手を見て、同じように眉を顰める。やはりひどく汚れている。髪なども凄い有様だろう。本当に、二人して何をやっているのやら。
「うん、そうだな……これは以前に読んだことがあって知っている。Nicht durch Reden oder Majorit閣sbeschl殱se werden die groァen Fragen der Zeit entschieden, sondern durch Eisen und Blut. ……「今や大問題は演説や多数決ではなく鉄(武器)と血(兵士)によってのみ解決されるであろう」……君、私は帝国主義に邁進したいわけではないのだが。そんなことはとうにギレン・ザビがやっている。そして失敗した」
「そうね。……その内容は微妙ですね」
 ここで、二人ともがやや疲れていることに気づいた。ナナイが先に埃にまみれたスカートを叩きながら立ち上がると、お茶でも頼みましょうかと聞いた。同じようにシャアも立ち上がり、軽く首を振った。
「そうだな。面白かったが……」
 そこでふと、思いついたように髪を撫で上げてナナイを見る。
「……」
 何が必要とされているのかナナイもすぐに理解し、執務室の窓辺に立つシャアに近寄った。そして軽くキスを交わす。
「……誤解だ」
「理解よ、頑固ね」
 ナナイは笑いながらシャアの脇を離れ、扉の脇に設えられた通信機に向かった。
 そして「総帥執務室に紅茶を二つ、ウバのミルクティーで」と言って通信を切る。
 これが一年ほど前なら、自分は耐えられなかったのだろうな、とナナイは思う。
 この人を愛していると思う。だが、その愛はこの一年の間に、どちらかと言うと性的なものから精神的なものに変わった。
 この人を愛していると思う。
 しかし、この人が求めているものの奥深さに、自分ではついていけないという事実に気づいてしまったのだ。
 いや、気づかされてしまった、というか。
「老人達は……」
 使用人が持って来た紅茶を受け取ったのはシャアだった。老人達はシャアに向かって、もっと品の良い御所作を、もっと知的な切り返しを、などと要求するがそれは間違っている。
「老人達がどうした? ナナイ」
 シャアに差し出されたティーカップを受け取り、床一面に広がる資料を眺めたあと、ナナイは嘆息しつつこう言った。
「理解しているわ。あなたが普通の人ではないと。でも私が思うあなたの特別は、そんなところではないの。演説が出来るとか出来ないとか」
 シャアはいまいちわからない風で、とりあえずこの資料の片付けが夕方までに終わるといい、と呟いている。ティーカップに今、唇を寄せた。
 ああ、だから本当に、この人の品の良さが染み出るのはそんな瞬間ではないのだ。
 キスの前にこの人が何を考えているのかなんて知らない。
 ……でもこの人は。
 必ずキスの前に、相手の目を見る。
 それもじっと、見つめるのだ。それから口付ける。
 そういうところが品の良い人間なのだよな、とナナイは思う。
「あと、残っている資料はどれくらいになる」
「……半分は終わったかと思うわ。ギュネイでも呼びます? あの子、あまり字は読めないらしいの。あんまり役には立たないかと思いますが、面白がって紙をひっくり返すと思うわ」
「ナナイが呼びたいのなら、そうしたまえ。私は反対しないよ?」
 紅茶を飲み終えたらしいシャアと、また目があった。
 そこでもう一回、キスをした。
 この人は、必ずキスの前に、相手の目を見る。
 それもじっと、見つめるのだ。それから口付ける。
 そういうところが品の良い人間なのだよな、とナナイは思う。
「だって大佐。戦争になるでしょう。……もうこんなにもゆっくりとした時間は、過ごせないと思うんです」
「……」
「つまり紙をまき散らして、過去の演説の資料をみてはしゃぐようなそんな時間は」
 この人を愛していると思う。だが、その愛はこの一年の間に、どちらかと言うと性的なものから精神的なものに変わった。変わってしまった。
 この人を愛していると思う。
 しかし、この人が求めているものの奥深さに、自分ではついていけないという事実に気づいてしまったのだ。
 いや、気づかされてしまった、というか。
「ナナイ。君を幸せに出来なくて申し訳ないとは思うが、私は……」
「知っているから結構よ。ところで、ゲティスバーグ演説はどうでしょう。……人民の、人民による、人民の為の政治。エイブラハム・リンカーン」
「……あぁ。コロニー市民が求める自由というのも……最終的にはそこなのかな」
 シャアがとても綺麗な所作で、空いていたテーブルの上に空になったティーカップを置いた。
 過去の歴史になど紐解かなくても、きっとこの人は歴史に残る演説をするのに。



 三ヶ月後。
 果たしてシャア・アズナブルはインタビュー番組内の一場面としてあっさりと宣戦布告する。
 それは、老人達の希望とは違ったのかも知れないが、ナナイの心の内には残る、それはそれは綺麗な、
 宣戦布告だった。











2009.08.08.







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