ブライト・ノアは航海日誌を読み返していた。航海日誌と言っても非常に個人的なもので、むしろそれは日記に近い。
 地球連邦軍に所属する艦隻には「航海日誌」というより「業務日報」を……所定の書式で入力することが義務付けられていて、それがいわゆる公式記録だった。入力は一日の終りに艦長が行う。艦長が手隙でない場合は副艦長か、艦橋のオペレーターが行う。それは一瞬にして艦隊本部に送られ、保存される。主に使用弾薬や燃料に関する数字の報告だった。システム化されたその日報は、数字としては正確なのだろうが人間味に欠ける。
 常々、ブライトはそう思って来た。
 それとは別の記録が、今、ブライトの目の前にはある。
「……」
 蒸留酒よりは発酵酒の方が好きなので、その晩もワインを飲んでいた。目の前にある航海日誌は、いわゆるカレッジノートだった。
 大学ノート。アナログにも程がある。しかしそのノート一面に書き付けられた自分の文字を、ブライトは興味深く読み返していた。ナイメーヘン高等士官学校、と書かれたこの大学ノートを使い始めたのはたまたまだ。自分でも、まさか残っているとは思わなかったのだが0090にロンドベル隊が創設される時、荷物を整理していたら妻がそっと差し出して来た。
「あなた、一年戦争の時、学校を中途でホワイトベースに任官されてしまったのでしょう。教科書なんかと一緒に、たくさん使いかけのノートが出て来たわよ?」
 そこで自分は、使われなかったこの大学ノートを自分の日記帳として使うことに決めたのだ。それも実にアナログな、紙に鉛筆書き、という方法で。



 ロンドベル隊の記録は、0090年から始まっている。部隊としての創設がその時期になるからだ。書いてあることは些細なことばかりだ。
 アムロが拗ねて宇宙に上がって来ない。
 ネィル・アーガマからラー・カイラムへと旗艦の移動が決まった。
 新しい艦への引っ越しというのはなかなか面倒くさい。
 第四軌道艦隊指令のウィリアム・ワイアー少将は実に厭味ったらしい。
 途中、自身の子どもの成長ぶりなど、この際仕事とは全く関係無いだろう記述も挟みつつ日記は続く。
 アストナージは最近恋人が出来たらしい。
 アリスタイド・ヒューズは優秀な軍人だが何故いつも賭け事で騒ぎを起こすのか。
 カイから届いた資料に無性に腹が立った。
 いつも箇条書きなのだが、その記述がちょうど一年半前あたりから色を変える。
「……」
 そこで、ブライトはワインのグラスに改めて手を伸ばした。ブライトの執務室、つまり艦長室の応接セットの上にはいつもさしかけのチェスボードが置かれている。個人的休息時間でもあったし、執務机には座らず、ブライトは応接セットの椅子にだらりと座り込んでノートを捲っていた。チェスボードの脇のグラスを手に取り、一口飲み、そしてまた戻す。



 0091、九月、大規模軍事演習のはずが、諜報の連中にアムロを連れて行かれた。連中のやり方に腹が立つ。
 0091、十月。アムロを取り戻す。シャアが本物でも偽物でも構わないが、アムロがいないと困る。
 0091、十二月。輸送艦のシージャックは、表面で見える事象ほど単純な問題ではなかった。結果としてガンダリウムγは奪われた。敵はそれで間違いなく新しいモビルスーツを作ることだろう。
 0092、三月。アムロが月に出張中、勝手に消えた。どうせ泣きながら帰って来るだろうと思ったらその通りだった。何故シャアはいつもアムロを泣かせるのだろう。
 0092、四月。初めて高等軍法会議の判士に選ばれた。気が重い。死刑が確定している軍法会議の判士になど誰も選ばれたくは無い。
 0092、七月。アムロが「廃棄コロニーの動きがおかしい」と言い出す。アムロがおかしいと言うからには、おそらくおかしいのだろう。
 0092、十月。多くのものを失った。これから、前途あったであろう若いパイロットや、素晴らしいモビルスーツを作る筈だったエンジニアを。



「……」
 そこまで読み返して、嫌になってブライトはノートを投げ出した。
 なんと、殺伐とした記録だろう。そして、なんと立て続けに事件の起こり続けた一年半だったことだろう。軍人であるから、戦うことは仕方ないと思っている。仕方ないというよりそれは仕事なのだ。しかし。
「……d4、d5」
 考えながら目の前のチェスボードに手をやった。始めたばかりの局だった。
「……フォーク、ピン、ディスカバードアタック、スキュア」
 手は色々ある。いや、むしろ最初はあった、というべきか。それがこの一年で、驚くほど手が減った。相手の方が動きが早い。しかし自分は指揮官だ。この艦を、そして艦隊を導かなければならない。勝利へ。
「Nf3、Bb5」
 思えば日記と同じ様に、このチェスボードも随分アナログなブライトの友人だった。今声に出してビショップの駒を手に取ったが、実は声に出して場所を指示するだけでチェスが打てるソフトなど大量にある。それを使わず、わざわざ底に磁石のついたチェスセットを使っているのも趣味と言えば趣味だ。長い付き合いになる。
 自分の次にこのチェスボードをよく使っていたのは……おそらくクワトロ大尉だろうな。
 そこまで考えた時にノックの音がした。
「入れ」
 ブライトはチェスボードから目を離さずにそう言った。
「忙しいか」
 敬礼もそこそこに警備兵の背中の向こうから顔を出したのはアムロだった。
「これが忙しく見えるか?」
 ブライトが答えるとアムロは軽く首を捻った。
「まあ、そこそこに?」
「そうか。実は暇だ。やるか」
「どっちを。チェスか、酒か」
 言われてやっとブライトは顔を上げた。
「……そう言われると、お前とチェスをしたことがないな」
「趣味じゃない。何が面白いんだ、それ。俺には分からないな。アリスを呼んでこようか?」
 確かにアムロはチェスに興味が無いようだった。これまでも軽く何度か誘ったことがあるが、毎回断られる。
「アリスはいい。それでは酒を用意する」
 アリスは最近もっぱらチェスに付き合わせているこの艦の砲術士官だ。
「で、何してたんだ」
 ありがとう、と言いながらアムロが応接セットの向かいのソファに沈み込む。むしろお前が何をしに来た。ブライトは休息中だった。
「ちょっとな。……この先をどうするかについて模索していた」
「……」
 するとアムロが考え込む素振りを見せる。ブライトは発酵酒よりは蒸留酒の方が好きなアムロの為にバーボンの瓶を手に取った。本当はウィスキーの方が好きなことを知っているが、艦長室の棚にストックが無かった。
「ほぼ逃げ道なんて無くなってしまったじゃないか。この一年で」
「……」
 アムロがぼそりと呟いた言葉はブライトの胸に響いた。
 あぁ、そうだ。
 日記を読み返し、チェスボードを眺め、しかしそんなことには自分も気づいていた。シャアは実に巧妙に、そしてスマートに物事を進めた。今の時点で相手に勝っていると言える点など、チェスで言えば唯一『マテリアルアドバンテージ(持ち駒の多さ)』くらいだ。
 しかし自分は指揮官だ。
 この艦を、そして艦隊を導かなければならない。勝利へ。
「作ってやろうか」
 すると、ブライトの手からオールドクロウの適当な水割りを受け取ったアムロが急にそんなことを言った。
「何を?」
「ん? だからチェスのソフトだ。自分は相手が出来ないが、端末に高速で計算をさせることは得意だ。つまり、プログラミングは。だから自分のかわりに、ブライトのチェスの相手になるようなソフトを作ろうかって」
 ブライトは思わず笑った。
「わざわざ作ってもらわなくても、大量にあるじゃないか。その手のソフトは」
「ま、そうだけど」
 断ると、アムロが拗ねた。ブライトはまだ笑ったまま、先を続けた。
「この世で一番古いチェスマシーンがいつ作られたか知っているか?」
「知らない」
 アムロが答えるとブライトは面白そうに続けた。
「1796年だ。ハプスブルグ家のマリア・テレジアの為に作られた。からくり人形だった。そんな旧世紀の昔から、人は人以外とチェスを楽しんで来た。……だが自分が向かい合っているのはそんな問題じゃない」
「……」
「私は人以外とチェスをしたいわけじゃないんだ」
 すると、アムロが水割りのグラスを応接セットのテーブルに置いて、ブライトの目を覗き込んで来た。
「……発想の転換だと思うんだ」
「……何が」
「考えてみろよ。このチェスボードにはキングやクイーンや、ポーンやビショップが乗っている。平凡なチェスだ。……でも。俺が作ってやろうか、って言ったソフトは」
 アムロがどこか管を巻いているように思えてブライトは焦った。
 いやいやいや。たった今、バーボンの水割りを一杯飲んだきりだ。まだ管を巻くには早いだろう?
「例えば……例えばの話だけど、一方のキングがνガンダムで、もう一方が真っ赤なサザビーなんだ。……どうだ、やる気出て来たか?」
「今、なんて言った」
 思わずブライトは声が上ずった。
「サザビー。……そういう名前らしいよ、『シャア・アズナブル専用機』。これ、ついさっき仕入れたばかりの情報なんだけど」
 なるほど。
 では、それを報告する為にアムロはこの部屋を訪れたのだ。
 休息中のブライトの元へ。
「……どこからの情報だ」
 ブライトは自分もしっかりソファに腰を据えると、ビショップの駒をもう一回手に取った。
「Bb6。……半分は月のチェーンから。もう半分はカイさんからだ」
 趣味じゃない、と言うわりにはアムロはチェスの戦い方に詳しい。
 ―――自分は指揮官だ。だからこの艦を、そして艦隊を導かなければならない。勝利へ。
 今はシャアに押されて後手に回っているが、巻き返さないと。
「詳しいスペックはどこまで分かってる」
「あぁ、それは……」



 宇宙世紀0092、十一月三日。
 ブライトは、チェスボードを睨み続けながら、やがて来る未来の模索を続けている。











2009.08.06.







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