死の幻想は常に自分につきまとい続けている。
「……」
豪奢なペントハウスの一室であったので浴室はかなり広かったが、バスタブのサイズに不満を持っていた。普段は殆どシャワーで済ませる為、湯をはる事も滅多に無いのだが気持ちの問題である。シャアは少し温めに設定したシャワーを浴びながら、今日は湯をはたものかどうか考えあぐねていた。
『……総帥、いらっしゃいますか』
と、そこへ不躾に通信が入る。ナナイではない、別の秘書の声だった。シャアはゆっくりとコックを捻り湯を止める。
「……なんだ」
『緊急にご相談したい案件が持ち上がりました。お手数ですが、』
「今、入浴中だ」
『失礼致しました』
「少し待て」
それだけ答えてシャアは通信を切った。……湯をはろうかどうか悩んでいたのだったな。心が決まった。バスタブに近づき湯を落とす。全く失礼な話だ。延々待ち続ければいいのだ。私には風呂を楽しむ時間も無いというのか。
シャアは時間をかけて湯をはると、その中にゆっくり身を沈めた。
死の幻想は常に自分につきまとい続けている。
バスタブに泡は入れなかった。透明なお湯の溜まった中に身を沈めるのは、聞いた所によると東洋に多い入浴の方法らしい。入浴一つ取っても世界には様々な方法がある。サウナであったりシャワーであったり。スパに近いこの入浴法を知た時には体力が消耗されると思ったのだが、入ってみると意外に心地よい。えも言われぬ浮遊感があるのだ。それで時々好んで湯につかるようにしていた。
死の幻想は常に自分につきまとい続けている。
いつからその夢を見始めたのかもう忘れてしまったが、シャアは湯をすくい上げながら思った……おそらく自分は『死に場所』を探して生きているのだ。生きる理由としてはいまいちの様な気もするが、ある時から自分はそれだけを目指す様になってしまった。この世が嫌いだというのではない。厭世と人は言うのだろうが少し違う。理想の生が得られないというのならば、極上の死を目指して何が悪いというのだろう。それで心晴れやかに生きられるというのならば、それでいいと自分では思っていた
「……」
少しサイズの小さなバスタブに両腕を延ばした。それは湯の上に、微妙な浮力を伴って浮いた。……このまま身体全体が同じ様に浮けば良いのに。しかし、このバスタブに足まで伸ばすような広さは無い。
宇宙では浮き過ぎた。重力下では重過ぎた。……望むならば、この浮力、シャアは掌を返してじっと見た。
『……総帥』
そうしていると、また秘書から通信が入る。シャアはゆっくりと壁にかけられた時計を見た。なんだ、まだ十五分しか経っていないじゃないか。
『申し訳ありませんが、急ぎの案件なのです……』
「……」
シャアは答えなかった。かわりに身を屈め、全身で湯に潜ってみた。
ふわり、となんとも言えない生温い浮力が、周囲に満ちる。
……ああ、そうか。……似ている。
しばらく湯の中に逃げていたのだが、息が続かなくなって顔を出した。思わず大きく深呼吸をする。秘書は必死に返事の返らない通信機に向かて話し続けているようだった。しかしその声は、シャアの耳にはまったく入って来なかった。
……似ている
宇宙では浮き過ぎた。重力下では重過ぎた。
この浮力。
この暖かさ、この息苦しさ。
「……アムロだ」
アムロに触れた時の感覚に似ている。
……死の幻想は常に自分につきまとい続けている。
「……」
今日、その幻想が僅かながら明確なビジョンとなった。湯船から出て、壁に取り付けられた通信機の脇に行く。
……私はおそらく
アムロに包まれて死にたいのだ。生温く。
シャアは深いため息をつきながら通信機のボタンを押した。
2009.05.12.
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