手首に巻いた時計を確認した。仕事がモビルスーツパイロットなので基本的に腕時計はしないが、スーツを着て外回りに出た時などはまた別だ。
「……」
 現在の時刻は宇宙時間の午前十時半。八点鐘(勤務交替時間)にはどうにか間に合いそうだと思いながら、アムロはエレベーターに向かって走った。一時間半あれば家に戻って制服に着替えることが出来る。ドックに繋留されているラー・カイラムに直接向かっても良かったが、中途半端にブライトを放り出した手前それは避けたかった。昨日と同じスーツで帰艦したら月で何があったか根掘り葉掘り聞かれるに違い無い。
「……ったく!」
 エレベーターに飛び乗った瞬間、あまりの下半身の重さに思わず毒づいた。……自業自得なのだが、だがしかしこれこそが昨日、月であの男に会ったという何よりの証拠でもある。
 ……重い。
 昨日半日の、出来事の何もかもが重い。
 そんなことを考えながらふと足元を見ると、犬が浮いている……いや、本当に浮いていたのであった。コロニーの回転の軸となる中心部、つまり宇宙港あたりというのは無重力に近い。だから犬がそこに居たら浮く羽目になるのも頭では理解出来るのだが……その犬は「犬掻き」をしていた。水の中ではない、無重力の空間でだ。
 エレベーターが居住区に近付くにつれて、ひたすら宙を掻いていた犬の足も徐々に床に近付いて来た。ミニチュアダックスのチョコレート・タンである。……凄いな。アムロは単純に感動しながらそれを眺めていた。人間ですら宇宙を行き来するのに今だ途方も無い手間と金がかかる。しかしこの短い手足で宙を掻く犬は、飼い主と共に宇宙を旅してここにいる。ペットの検疫は本当に厳しい。宇宙にある偽物の大地はどれも密閉された空間に他ならないからだ。しかしそんな生き物が宇宙港に居ると言うことは、飼い主はよほどの金持ちかもしくは愛犬家かなのか。
 何時の間にか犬の足はしっかり床に着いていた。飼い主はでっぷりと太った年輩の女性に見えたが、もちろん声をかけることもなく、皆一緒にエレベーターから押し出される。
「……」
 居住地側の扉が開き、目の前に広がったそのロビーを見た瞬間にアムロは絶句した。
 ……雨が降っている。
 その上、何故か仁王立ちになったブライトがその場に居たのだった。



 そもそも、港湾部で雨の降ることが珍しい。
「おかえり」
「……や、どうも」
 エレベーターの真ん前でわざわざ待っていたブライトに、アムロはそうとしか返事のしようが無かった。
「説明はあるんだろうな」
「あぁ、でも……仕事の時間までには戻ったじゃ無いか、俺」
「そういう問題では無い。お前は戦術士官だ、それも旗艦の。プライベートなどあって無いようなものだと思え、これは軍全体の規律に関わる問題だ」
「……だよね」
「で、何があった」
 雨が降っていた。……コロニーにも雨天はあって、多くは湿度不足から来る粉塵などの問題を解決するために公社が定期的に降らせるものなのだが、それにしてもこの場所で降ることは珍しい。
 しとしとしと。
 港湾部で雨が降ることが珍しいのはアレだ。……港湾部こそが殆どのコロニーにとっての中枢部だから。その場所には岩山や砂漠などが設置されることが多く、そもそも水を必要とすることがあまりない、そこに水を加えることは端末のハードディスクを水に浸すことに近い。
 しとしとしと。
 なのに今日、ロンデニオンの港湾部には雨が降っていた……一年に一回有るか無いかだぞ、こんなのきっと。コロニー内部の元から何処か色彩に欠けたような景色が、今日はまた一段とくぐもって見える。
「……」
 ブライトの顔をしみじみ見て、それからアムロは何か言い訳をしようと思ったのだが……結局やめた。
「……シャアに会った」
「そうか」
 驚いたことにブライトは叱咤するでもなく、それだけしか答えなかった。
「乗れ」
「うん」
 色気の無い軍用ジープが、ブライトが顎をしゃくった先にポツンと止まっている。またこの車か。しかも運転するのは俺らしい。だが、ともかく家には一度戻らせてもらえるようだ。
 車が市内に向かうハイウェイに乗った頃、ブライトが言った。
「……で、どうだった」
「うん?」
 抽象的な質問だった。その上、雨がまだ降っている。なんだ、今日はコロニー全てが雨だとでもいうのか? 軍用ジープにはもちろん雨風をしのぐ屋根などと言う上等なものはついていない。
 しとしとしと。
 俺のスーツもブライトの軍服も、あっというまに水に濡れてその色が濃くなった。
「元気だったよ」
「そうか」
「……」
「……」
 何とも言えない沈黙が二人の間に流れている。ジープは一般道に降りた。雨はまだ降っている。
「……私は……」
「何?」
 アムロの自宅近くのよほど市街地に差し掛かった頃、またブライトが口を開いた。ハンドルに手をかけたままアムロがちらりと見ると、ブライトは何かを言いかけては口を噤むと言う動作を繰り返して、まるで魚のように口がぱくぱくと開いている。
「何だよ」
 そのあまりの様子に、ついアムロは笑いそうになった。
「……嫌なんだ」
「何が」
「お前がシャアに会うのが」
「……何故?」
 しとしとしと。
 ブライトはまだ口をぱくぱくやっている。雨はまだ降っている。遂に家の目の前に辿り着いてしまった。アムロは車を止めた。
 しとしとしと。
 ブライトは随分言葉を選んでいたようだったが、結局これだけを言った。
「嫌なんだ、お前がシャアに会うのは」
「だから、なんでだよ」
 しとしとしと。

「……お前が泣くから」

「………」
 言われて初めて泣いていたことにアムロは気付いた。驚いたな、雨で顔が濡れているだけだと思っていた。
「……そんなことはないだろう」
「いいや、気付いていないのか? お前は泣いてばかりだ、シャアに会う度に」
「そんなことはない! 泣くのなんて格好悪いし、そんなつもりも無い!」
「ある。……まあいい、私はここにいるからさっさと着替えてこい」
「だからっ……!」
 しとしとしと。
 これ以上言い返しても無駄だ、と思って一回車を降りた。どうしてどうして。マンションの入口に向かい、だけど思い直して戻ってくると後はもう何も言わずにブライトに抱き着いた。……どうしてどうして。
「どうしてっ……どうしてっ」
「……私が知るわけがない。が、これだけは分かる。私が止めたところでお前はシャアと向かい合うことを止めないだろうし、それは向こうも同じだろうが」
「……」
 ブライトの暖かな腕が背中を摩った。
「嫌なんだ。……言いたかったのはただそれだけだ。格好悪くてもいいじゃないか。それでもアムロは行くだろうことも、泣いて帰ってくるんだってことも分かってる。……だから、」
 しとしとしと。
 ……どうして今日は雨なんだろう、どうして俺とシャアは相容れないのだろう、どうして、どうして。

「いくら泣いても構わないから。……必ず帰ってこい、お前」



 結局その日、ラー・カイラムに戻るまでロンデニオンは雨のままだった。
 しとしとしと。
 そうだ、きっとこれからも俺はシャアに会うのだろう。シャアに会って、納得出来なくて、自分達の違いをひどく思い知って、
 そしてまた泣きながら戻るのだ。……自分の居場所に。それを分かりながら差出されるブライトの右手が、この日ほど暖かに思えたことは無かった。

 雨はまだ止まない、俺も泣き止めない。











2010.06.25.
『SS2』のおまけ小説でした。「ありきたりなふたり」直後くらいの話。







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