ニュータイプの研究はそれなりに楽しい事だったし、自分はそれに未曾有の可能性を感じていた……人類の、未曾有の可能性である。古来、学問と言うものは多種多様に存在し、中でも一番古い学問は『神学』なのだそうだ。それは神と言う『価値観』の誕生と共にそれを考察する学問も生まれたからで、旧世紀には「哲学は神学の婢女(はしため)」などと揶揄して呼ばれた時代もあったらしい。……何となく理解は出来る。神学の誕生が神と言う価値観の誕生と根拠を共にするなら、それには何千年と言う歴史があることになる。それに比べたら確かに哲学などは婢女だろうし、経済学であれ工学であれ文学であれ政治学であれ他の学問は格段に歴史が浅い。
ただ、今は宇宙世紀だ。
「……何?」
寝室を出た瞬間に、扉の向こうに控えていたギュネイに驚いて思わず私はそう聞いてしまった。
「何って……いや、アンタが今日の朝は八時にここで控えてろ、って……違った、『ここに待機するように自分は命を受けました』」
「……」
それでも、その多くの学問の更に後に生まれたであろうニュータイプに関する考察は、何故か大昔からある哲学や神学に近いような気がする……その一点が、自分を悩ませていた。女として、人間としての自分よりそれは学者としての自分を、である。
「忘れていたわ」
「『そうですか、作戦士官殿』」
「……ギュネイ、あなた、今日も可愛く無いわね」
「え、なにそれ」
面白いくらいあっけなく、彼は素に戻った。家に連れ帰って来て一緒に住んでいるのだから、彼が何処に居ようと本来は問題ないはずなのにその存在に驚く自分も自分だ。
「今日は引っ越しなのよ。……地下にあった旧アジトの方はもうおおよそが新しい建物に移っているのだけれども、キングスストリートにある大佐の家の引っ越し」
「何処に住んだって人間そう変わりやしないだろ」
「ギュネイ」
私がその軽口をとがめると、子どもは実に嫌そうな顔をした……が、返した返事はまともだった。
「『アイサー、作戦士官殿』」
「……行くわよ」
六番街にある自分の家を出て大佐の家があるペントハウスに向かう。ギュネイも随分成長したものだ……少なくとも返事は、と思った。
もともと殆どの家具が設えられていたその貸家の、引っ越しと言っても荷物は少ない。
「ただいま参りました」
「やあ、ナナイ。……この景色も見納めだな」
シャアが借りていたペントハウスに辿り着くと、彼は多少ガランとした部屋で何故か窓から外を眺めていた。
「ここにずっと住みたかったのですか?」
「それはどうだろう。……どうでも良かったかな」
ナナイの後ろに付いてギュネイも部屋に入る。……彼はこの部屋に入る事自体が初めてだった。いわゆる高級ホテルの、その上部の階層だけを長期滞在用に改造したペントハウス。更にその中でも最上階のこのフロアを、シャアはそれでもこの一年ほど借り切っていたのだ。
「何処に住んだって、人間そう変わりはしないからな」
奇しくも、ギュネイが今朝方ナナイに言ったのと全く同じ言葉をシャアが呟いてナナイが少し嫌そうな顔をする。
「……何か手伝うことはあるかしら」
「別に。……君も知っての通り私には私物が殆ど無いからな。身軽なものだよ」
それはナナイも知っていた。この人は生に対する執着が薄いのだ。生に関してだけでは無い。何に対しても執着が薄いのだ。それは、人に対しても……つまり自分自身を含めた人間に対しても。
あの、たった一人の人物以外にはつまるところ執着が無いのだ。
「じゃあ、新しい屋敷の方にそろそろ移動します? 御一緒しますけど」
するとその時、ギュネイが許可も無いのに窓辺に走り寄った。シャアが椅子を引き寄せ、外の光景を眺めていたその窓辺に、だ。
「ギュネイ」
ナナイは咎めたが、シャアが軽くそれを手で制した。
「……なあ」
ギュネイはすっかり敬語を忘れたようで、目をキラキラさせながら窓の外を眺めやった。
「どんな気分だ? ……こんな高い場所から、世界を見下ろすって……どんな気分?」
「見下ろしてはいない」
シャアが面白そうにギュネイを見遣った。……何と言う欲望。生きるということ、現状から這い上がると言うこと、全てに関して彼はどん欲で分かりやすい。
「……お前は上に登りたいのか。人を見下ろして過ごしたいのか?」
「ああ、どうだろう……だけど、あそこに戻りたく無いことだけは確かだよ」
そう言ってギュネイが窓越しに指差す先には、スィートウォーターの無骨な町並みが広がっていた……このペントハウス以外からは、おそらくけっして見えない光景だ。ごちゃごちゃとした下町。強引に作り上げられた結合型コロニーという偽物の大地が上げる悲鳴。
「……ギュネイ」
今度は優しく愛おしいものを呼ぶような口調で、ナナイがもう一度そう呼んだ。……これは怒っているな。シャアは苦笑いしながら手を振った。
「ギュネイ。……戻れ」
「あ、悪い……じゃなかった、『分かりました大佐』」
ギュネイがナナイの後ろに駆け戻る。分かりやすくて、可愛らしくて、だけど出来の悪い子どもだな。
「ところでナナイ」
今度はナナイを呼ぶと、今さら何よ、という顔でナナイがシャアを見た。
「そう怒るな。……『引っ越し』と言ったら兼ねてから私はやってみたかった事があってな」
「……なんでしょう?」
訝し気にナナイがシャアを見る。シャアは後ろから、一通の封書を取り出した。
「引っ越しのお知らせ、だ」
「はぁ……」
不審に思いながらもその封書を受け取る。するとシャアが続けてこう言った。
「それを郵便局で投函してほしい」
「………分かりました」
それ以上、大したやりとりも引っ越しの手伝いすらもせずに、ペントハウスを後にした。
ニュータイプの研究はそれなりに楽しい事だったし、自分はそれに未曾有の可能性を感じていた……人類の、未曾有の可能性である。
……でも時々思う。所詮この研究を続けても、所詮自分には『強化人間』程度しか作り出せないのに、と。
「……ナナイ? ナナイ、ナナイ、どうしたんだよ。それ、誰宛の引っ越し案内なんだよ」
ギュネイが煩く話しかけてくるが、ナナイは黙々と郵便局に足を運び続けた。こんなもの、それこそギュネイにでもやらせればいいのに。私はこれが、誰宛の引っ越し案内なのか良く知っている。……それでも。
……それでも自分は、この研究を続けている。ニュータイプの研究を。抗いがたい魅力があるからだ、もしも見れるものなら、と思う。もしも人類の進化をこの目で見れるのなら、と。
「ナナイ!!」
遂に叫び声のような声をギュネイがあげて、ナナイは街角で立ち止まった。脇を見れば、驚いた事に心配そうな顔でギュネイが自分を覗き込んでいる。
「なあ、ナナイ。……具合悪いのか、俺、それを出してこようか」
「……いらないわ」
辛うじてナナイはそれだけ答えた。……いらないわ、本当に、なんて酷い人。どうしてこの手紙を私に出させるのかしら。
ギュネイは一歩も引かずに、黙って脇に立っている。そして暫く黙っていたのだが、ついに絞り出すようにこう言った。
「……なあ、ナナイ。……大丈夫か?」
私の目の前に、手の届く場所にいたのは「シャア・アズナブル」だった。……ニュータイプで。ジオンの子で。光差す未来で。
でも。
優しさ、って何?
……もしも「アムロ・レイ」が、私の最後に辿り着く場所だったら、この人生も変わっていたのかしら。
「大丈夫よ……放っておいて頂戴」
ギュネイの手を振り払う。
……だけどそれは神のみぞ知る領域で、
間違い無く私はいま、独りだ。……ナナイは小さく溜め息を付きながら、その一通の手紙を投函しに郵便局へ入っていった。
2008.02.11.
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