ばたばたと、忙しく日々は続いてゆく。
その日、公務(になるのだろう、おそらく)でサイド1のロンデニオンを訪れていたシャアは、ナナイの小言と上層部の老人達の戯れ言に付き合いきれなくなってフラリと街に飛び出した。もちろん周りの人間は誰一人良い顔をしなかったが、シャアは断固としてSPを連れてゆく事を拒否した。……人生は賭けのようなものだ、特に自分にとっての人生は。いつ死んだって構わないと思っている、だが自分を祭り上げたい多くの人々にとって、『シャア・アズナブル』の人生は自分が考える以上に重要なものなのだろう。
……分かっている。諦めている。だがしかし、何処か笑える。
今はまだ良いが、これからますます自由に行動出来なくなって行くに違い無い。そう思うと居ても立ってもいられないような気持ちになるのだった、今日がまさにそれだ。
ロンデニオンと言ったら、言わずと知れたロンド・ベル隊の本拠地である。だからこそ、かえってシャアが我が儘を通せる理由がそこにはあった。血眼になって自分を探している人々が『まさかシャアがここには居まい』と思う、それは逆接である。実際シャアは大した変装もせずにホテルを出たのだが、誰にも興味ある視線を投げかけられなかった。勝手に付いて来たSPは数百メートル先の路地に残して来た。
夕暮れ時だった。外に出て独りになりたかっただけのシャアは、たまたま目に付いた店開きしたばかりのバーに飛込んだ。それは、花屋の地下にあるバーだった。
「いらっしゃいま……」
と、飛込んで来たシャアをカウンターの奥で出迎えたバーテンダーが、何故か言葉を切る。
「……」
何ごとだろうと思ってシャアも顔を上げた。細い銀フレームの眼鏡をかけ、いつもと髪型を多少変え、トレンチコートを羽織っただけの簡単な格好だった。……そして顔を上げて相手の顔を見た瞬間に、シャアもまた固まった。
……似ている。
どういうわけか、そのバーテンダーの立ち姿が、印象が、妙に自分と似ていたのである。長身で引き締まった身体つきで金髪で碧眼。その程度の特徴を持つ人間は、この世に五万と居るだろうし、細部を上げ列ねたら何処も似てなどいないのだが、だがやはりどこか似ていた……なんというかこう、雰囲気が。
「……いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ。何になさいますか」
接客業の人間だけあって相手の方が立ち直りが早かった。張り付けたような笑顔ではあったが、軽やかにそう言うとシャアに椅子を勧めて来る。
「曲? ……それとも酒か」
やや低くまろやかに響くその声すら自分に似ていて、シャアは少し笑いそうになった。自分と似た声を聞いても相手は微動だにしない。プロだからだ。……ああ、偶然にしては心地の良い店に入ったな、とシャアは思った。
「どちらでも」
「じゃあ、まず酒を。そうだな……カナディアン・クラブのダブルをロックで」
「かしこまりました」
それだけ答えると、もう自分に似たバーテンダーはそれ以上表情を面に出さずに静かに酒を作りはじめる。
ああ、良い店に入ったな、ともう一回思った。
「恋人は?」
「不躾だな」
「全てのお客様にお伺いするようにしているんですよ、平等にね。好みの方がフリーだった場合にはすかさず口説かないといけませんから」
そのバーテンダーの言いぐさに吹き出しそうになった。開いたばかりだったので店内には自分しか居ない。そんな小さな空間の中で、妙に自分と似た男と向き合って、中途半端な酒を飲んでいる。
「私は男だが」
「私も男ですよ」
「ゲイ?」
「いいえ、バイです。だから全てのお客様と恋に落ちる可能性があるわけですよ……平等にね」
スティーブン・タイラーのしわがれ声を聞きながらシャアは少し考え込んだ。……バーテンダーと言うのは特殊な人間だと聞いた事がある。例えば、一度店に来ただけの客の顔や好みの酒を確実に憶えていて、次に訪れた時にも完璧な笑顔で出迎える事が出来るとか。
「平等にねぇ……」
シャアは意味深気に繰り返してから、ひっかけようと思ってこう返した。
「自分と似た人間と恋に落ちなければならないほど、私はナルシストではないよ」
「嘘ですね」
ところが相手の方が一枚上手だった。すぐにぴしゃりと否定の言葉を投げ付けてくる。……おいおい、気が短い客だったら大げんかになりそうな場面だぞ。
「言ってくれるな、どういう意味だ」
「ナルシストとは少し違うのかも知れませんが」
バーテンダーの男はわざとらしくグラスを拭いていた手を止め、考え込む仕種をしてから満面の笑顔でこう言った。
「……自分は愛されて当たり前だ、と思っている顔なんですよ」
思わず息を飲みそうになった。言われてみればそうかも知れない、だが私に面と向かってそんなことを言う人間がこれまでいなかった。たとえば今日飛び出したのなんかがまさにそれだ、私は我が儘を言い、でもそれが許されるだろうと思って飛び出して来た。
「何故そう思うんだ」
辛うじてそう答えた私の顔には苦笑いが浮かんでいたことだろう。
「分かるんですよ。……似ているからかな?」
バーテンダーと言うのは特殊な人間だと聞いた事がある。シャアは殊更ゆっくりと、一杯の酒を飲んだ。その間中、相手は口をきかなかった、店にはエアロスミスの曲だけが、低い音で流れている。
「姿形や思考が似ていると……」
空になったグラスをカウンターの上に置いて、シャアは呟いた。
「好みのタイプも似るのかな」
「さあ、そこまではどうでしょうねぇ」
「恋人は?」
先ほど聞かれたそのままの台詞をバーテンダーに返してやった。
「企業秘密ですよ、そんなの」
「私には聞いておいて?」
バーテンダーは軽く首を竦めて空のグラスをカウンターの上に置いた。
「……あのね、実は今必死に口説いている相手が居るんですが、ちっとも靡いてくれないんです」
「へえ、男か? 女か?」
「その方は男ですね。近所に住んでる軍人さんなんですけど、忙しいのか最近あまり顔も出してくれないし」
「それは脈が無いんじゃないのか」
ひどいな、と彼は言って首を振った。
「いいえ、ライバルが凄すぎるんです。……だって彼、」
その時、新しい客が扉を開いて店に入って来た。それを笑顔で出迎えてから、バーテンダーはカウンターの上に身を乗り出してシャアに小声で呟く。
「……彼、『シャア・アズナブルが本命だ』……って言うんです。ちょっと無理っぽいでしょ」
バーテンダーと言うのは特殊な人間だと聞いた事がある。例えば、一度店に来ただけの客の顔や酒を確実に憶えていて、次に訪れた時にも完璧な笑顔で出迎える事が出来るとか。……人の秘密を絶対に守る、とか。
シャアは軽く両手を上げた。……完敗だ、本当に良い店に入った。
「……煙草をくれないか。あと、さっきと同じものをもう一杯」
「かしこまりました」
バーテンダーは笑顔で答えて火を差出す。……煙草なんて久しぶりに吸ったな。酷く苦い。ただ、どうしても今は吸わずにはいられない気分だった。
もう一杯だけCCのロックを飲んで、小銭をカウンターの上に置く。他の客の相手をしているバーテンダーに「ごちそうさま」と声をかけると、彼は笑顔でこう言った。
「『彼』にも言ったんですが。……良かったらまた寄って下さいね、出来ることなら……『アムロ・レイ』を連れて来て下さいね」
「……努力しよう」
そっくり同じ事を彼も言いましたよ、とバーテンダーが答える。シャアは店を出て、地上へと上がった。すっかり夜だ。ひと箱買った煙草をポケットから取り出す。SPが待つ路地まではまだ数百メートルある。
シャアは顔を上げ、夜空を見上げた。……それからゆっくりと、煙草に火をつけた。
……酷く苦い。ただその肺を汚す苦味が、自分は嫌いでは無いな、と思った。それは恋に似て。
2008.01.22.
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