低く流れる音楽は遠慮がちで品が良い。フロアには人々の話すひそやかなざわめきと、それから食器の立てる小さな音だけが響いている。
「……研究所の方は」
「どうもしないわ、いつも通りです」
それだけ答えるとシャア・アズナブルは納得したようでガーリックトーストに手を付けた。……ここは、このコロニーではそれなりに人気のフレンチのレストラン。人が思うほどには彼に豪奢な趣味は無く、それでも月に一回ほどはこうしてそれなりのレストランの予約をし、自分を連れて来てくれるのだからそれは気遣いなのだろうと分かっていた。……分かってはいたのだが。
0091、十二月の頭。
久しぶりの外食なのだからもっと気の利いた会話が出来ればいいのに……とそこまで考えて、何故私がそんなに気を使わなきゃならないのかしら、と腹立たしくなった。このところ私はずっと苛ついている。……彼が、地球に行って帰って来てからずっと。
「……機嫌が悪そうだ」
寝る、寝ない、というそれだけの単純な問題ではない。……彼が変わった。多分地球で何かがあって、彼の方が変わったのだ。
「実際、悪いの」
そう答えてからすぐ後悔する。……違う本当はそんなことが言いたかったんじゃない。……なのに会話の種の無い自分達の関係に絶望する。
「……跳ね馬には慣れているが、」
目の前のシャア・アズナブルは平然としたもので、ワイングラスを軽く上げてこう言った。
「今日のはまた訳が分からない。……何を怒っているんだ、ナナイ?」
「……」
怒っているのでは無いのだ、とナナイは思う。ただ、こうしてレストランで向かい合ったら、大して話す事もない自分達の関係に絶望してしまった。でも、相手はそれを大して気にしてもいないんだろうと思うと余計に絶望してくる。彼はおそらく慣れている。こんな女が目の前にいることに。
「ねぇ、」
「なんだ」
彼が気づいた様にその端正な顔を上げた。……どうしよう、聞いてしまいたい。答えを聞いたらきっと私の気は楽になる。……そのかわり全てが終わるかもしれないけど。
「……どうしてそんなに、アムロ・レイがいいの」
シャアは少し驚いたらしい。ナイフとフォークを持つ手が止まった。
「それは……」
彼は考え込んだようで首を傾げた。必要以上にゆっくりとナイフとフォークを降ろし、その長い指を組む。
「唐突な質問だな」
いいえ、唐突なことなどまったく無いの。……むしろ、他に知りたいことなど何もないの。
「……例えば……喧嘩をした時に、」
「なんですって?」
「喧嘩だよ。誰とでも良いのだが、心の行き違いがあって腹が立った時に君は相手にこう言ったことはないか。『私の気持ちも分からないくせに』と」
「……」
彼が何を言おうとしているのか分からない。しかし例えられたその台詞には聞き覚えがあった。そう思うことは誰だって、生きていれば二度や三度じゃないだろう。
「あるわよ、それが何?」
「私ももちろんある。……だが、同時に無い」
「?」
シャアの言葉は更に分からなくなった。
「アムロの目の前に立ったとするだろう。……そんなことはこれまでの人生で数回しか無いが、彼の目の前に立ったとする。そして喧嘩になる。まあ喧嘩と言うか、私達の場合は殺し合いだ。そして私は言おうとする。……『私の気持ちも分からないくせに』と」
「ーーーー……、」
私は、やっと意味が分かった。思わず顔を上げた。
「……そうだ」
驚いたことに目の前のシャアは悲しそうな顔をしていた。……見たこともないような、悲しそうな顔を。
「私は言おうとする。『私の気持ちも分からないくせに』と。……その言葉は喉元まで来ている。口から出かかっている。だが、言えない。……『分かる』、からだ」
フォークを握りしめる手に、グッと力が入るのが自分でも分かった。
「アムロには『私の気持ち』が分かるからだ。それが、強いて言えば……アムロでなければ駄目な理由だよ」
「……」
言いたい事はいくらでもあった。自分にはそんな能力は無いが、想像してみることなら出来る。嫌だと思う。全てが分かってしまうなんて。全てが分かるという事は、互いが決して相容れないことも同時に分かるという事だ。考え方が違うことも、目指すものが違う事も、決して寄り添えはしないことも。多くの人々が戦乱の治まらないこの時代に、その能力をまるで全てを可能にする圧倒的な力の様に讃えていた。しかし、だからなんだというのだろう。現実は残酷だ。グリプスの時にその優しさ故に、全てを受け入れて壊れた一人の少年が居た事を私はうっすら思い出した。彼の資料が見たければ、研究所に行けばすぐに確認出来るだろう。だが、そんな気にはとてもならなかった。
「この間、地球に降りた時……随分アムロと話したよ」
シャアはどこか遠くを見ながらそう言った。
「『話』をしたんだ。……面白いだろう、会話を交わした。彼は強いと思う、能力になど飲み込まれず、きちんと私をただの人間として理解しようと『普通』の努力してくれたのだから。……それほどまでに真っ直ぐに自分を見てくれる人間に、私は今まで出会った事が無かった」
「……」
「私を無条件に許す人間は多かった。……しかし、諌め(いさめ)ようとしたのはアムロだけだ」
私はまだ、どう返事をしようか思いあぐねていた。……彼らは向かい合う。……そして互いに傷つけ合う、それは予定論的調和だ。
「……ねぇ」
しかし、随分と長い沈黙のあとに自分の唇からこぼれ出したのは、自分でも意外に思うようなこんな言葉だった。
「……辛くないの?」
目の前のシャアが驚くくらい優しく微笑んだ。
「……ナナイは優しいな」
次の瞬間、伸ばされた手が自分の頭を撫でて、驚いた私は身を竦めた。
……違うでしょう。……あなたが優しいのよ、無駄に。
「……来月はイタリア料理がいいわ」
しかし、喉を突いて出たのはそんな言葉だった。
「……分かった」
シャアはやはり綺麗な笑顔で、ナナイの頭を撫で続けた。
圧倒的な拒絶と、滲み出るような愛情を共に感じて戸惑った。
「……ねぇ、私、きちんとあなたの役に立つわ」
最後に辛うじてそう言って、ナナイはフォークをテーブルの上に戻した。
2007.06.20.
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