古来の宗教が絶えて久しい。
そう考えると『宇宙世紀』というのは、なるほど人間が古くからの思想を離れ真に自由に解き放たれたことを意味する言葉であったのだ。
古来の宗教が絶えて久しい。
もちろん、未だ信仰する人々も僅かばかりは居る。……しかし、絶えて久しい。
「……」
夜更けの艦長室で、ブライトは目が冴えて困っていた。……夢を見る。
「……何故かな、」
最近、良く夢を見る。……かつて共に闘った人々のことを、今はもう道を違えてしまった人々のことを、亡き人々のことを。
おそらく原因はアムロの一件だ。『シャア・アズナブル』が生きていたこと、そして人々の目の前にもう一度現れたことなどが、自分の中で上手く整理出来ずにいる。
……だからこんなにも、アーガマの夢を見るんだ。仕方がないので起き上がると、寝室から続く執務室に出た。執務室のテーブルの上には、差し掛けのチェス盤が乗っている。……良くチェスをやったな。皆と。
「……」
ブライトは灯りを付けずに、暗い執務室で椅子に座った。……ブレックス准将とも、ヘンケン艦長とも、クワトロ大尉とも良くチェスをした。……作戦などを練りながら。
クワトロ大尉はかなりチェスが上手く、作戦士官らしいことだよな、とブライトは思っていた。
「……時に艦長、」
「何だ。」
平時にチェスを打っていたりすると、クワトロ大尉はサングラスを外して腕組みをし、深く考え込んでいたものだ。
「名前のことだが。」
「名前?」
彼は冷静に作戦を考え、部下を嗜め上司を立てる、有能で実直な士官だった。ブライトは彼が敵で無くて本当に良かった、と何度も思った。
「……嫌になることは無いか。」
「何だって。……待った。」
「待ったは無しだ。」
クワトロ大尉は綺麗な顔で静かに笑って、クイーンでナイトをかっ攫っていった。
「……名前? ……私の名前か。」
「そうだ。『ブライト・ノア』。……嫌になることは無いか。」
「………」
私は思わず、呆れて彼を見つめた。やがてチェス盤を睨みつけていた彼は、自分に視線が注がれていることに気づき顔を上げる。
「艦長。……質問の意味が不明瞭だったか?」
「いや。……ただ、大尉がそんなことを聞くのが面白いな、と思っただけだ。」
「馬鹿にしているな。」
「まさか。」
クワトロ大尉は幾つもの名前を持って居た。……そんなことは知っていたが、まさか自分の名前のことを彼にどうこう言われるとは、考えたことも無かったのだ。
「私の名前の……どのあたりがマズい。」
「ノア、のあたりが。」
クワトロ大尉は面白そうに笑った。……ああ。それで、自分も気づいた。
「ノア、のあたりが、だ。その名前で『艦長』をやっていて、嫌にならないか。……ブライトなら知っていると思ったがな。」
「知っている。……『ノアの箱舟』のことを言いたいのだろう。」
私は首を竦めた。
「……だが何とも思わないかな。……私を見てキリスト教を思い出す人間は居ないよ。」
「おや、私は思い出したが。」
……旧約聖書、創世記にその人物は出てくる。神の怒りを鎮める為に大洪水の際、『ノアの箱舟』という船を作って、生命を危機から救った『艦長』の名だ。
「……『ノアの箱舟』は沈没した船の名前では無い。……アララト山にきちんと辿り着いたのだし、」
「馬鹿にされたりしなかったか。……子どもの頃。」
「記憶に無いぞ。」
言われるとそんなこともあった気がする。……だがまあ、忘れていたな。
「良く『艦長』を仕事にしようと思ったな。」
どうやらクワトロ大尉は本気で感心しているらしい。
「……そうか?」
「……そうだ。」
彼はそう言いながら綺麗にナイトでキングを差した。……私はその晩もクワトロ大尉に負けた。
……おそらく、アムロが宗教書などを、シャアに手渡されて帰って来たからなのだ。
それで、私は。
それで私は『ノアの箱舟』のことなんかを思い出して仕方なくなっている。
真夜中の艦長室で。
この船を何処に導けばいいのか、分からなくなって途方に暮れている。
今思えば、あの質問は『自分がどの名を名乗ればいいのか思い悩んでいる』クワトロ大尉の悩み、そのものだったのかもしれない。
「……『嫌になることはないか。』」
ブライトは真っ暗な艦長室で、キングの駒を手に取り声に出して言ってみた。
「……『自分の名が。』」
『ノアの箱舟』から飛び立った白い一羽の鳩は、新しい大地が生まれたことを示すように、船に戻っては来なかった。
「……」
ブライトはついに考えることを諦めた。
「……自分の名が嫌になることはないが、」
しかし、静かにキングの駒をチェス盤に戻しながら、こう言った。
「『ノアの箱舟』の窓の大きさなら知っている。……何エフェト四方なのか。」
コツン、と駒の立つ音がした。
古来の宗教が絶えて久しい。
そう考えると『宇宙世紀』というのは、なるほど人間が古くからの思想を離れ真に自由に解き放たれたことを意味する言葉であったのだ。
古来の宗教が絶えて久しい。
もちろん、未だ信仰する人々も僅かばかりは居る。……しかし、絶えて久しい。
ブライトは真っ暗な闇の中で、チェス盤を見つめながら、新しいチェスの相手を探さなければな、と思った。
2006.09.15.
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