それは大停電の夜だったそうだ。母はその話した。何度も何度も。
ボギーは本当にシャアを香港に送り届けた。『約束』を守る連邦の軍人が居るとは信じ難かったが、しかし本当に送り届けた。そうして部下は帰らせ、自分はシャアと一緒にその仲間が現れるまで待ち構えていた。
約束の九龍公園は夕暮時だった。
木陰の向こうから人陰が現れるのを確認して、ボギーは言った。
「じゃあな。」
「……」
シャアは返事をしなかった。手錠は既に解かれていたので、殴るなら今だったかもしれない。
「次に会う時は……」
遠ざかってゆくボギーは何かを言いかけた。
「……」
シャアはまだ返事をしなかった。
「……『戦争』だ。」
軍人らしい言葉だな、とシャアは思う。アムロ・レイが目の前に居たとしても、きっとそっくり同じ台詞を吐いたことだろう。そんなことを思いながら、歩み寄ってくる足音の方へ視線を移した。
「……それで、大佐。」
怒っているな。……シャアは低く笑った。ヒールを履いたその足元を見る限りナナイは仁王立ちだ。
「……言い訳は?」
「……無い。……さあ、帰ろう。」
腰を抱いた。……女は少し溜め息をついて、それから素直になった。
それは大停電の夜だったそうだ。母はその話をした。何度も何度も。
コロニーで停電が起こったら大変だ。予備電力は全てコロニーの回転と、生命維持に回され、一般の家庭の電力など最後まで復活しない。ともかくその晩、サイド3のイチバンチは大停電になったのだそうだ。理由など知らない。
真っ暗な中で、父と母は息を潜めて待っていた。光が点るのを。……しかし、なかなか光はともらない。
仕舞いには、父が暗闇に飽きてしまったらしい。そこで、父は何度も母の首筋に熱い口付けをした。しかし母は、最初は父の口付けを無視していた。何故なら二人は夫婦では無かったので。
でも何度目かの口付けの時にどうでも良くなってしまったらしい。母も。
それくらい長い大停電だったのだそうだ。母はその話を私にした。何度も何度も。
……それで、あなた、生まれたのよ。
「……大佐?」
数カ月後、シャアとナナイの二人はサイド3の『大統領公邸』を訪れていた。
「……あぁ。」
シャアは適当に返事をした、だが視線は公邸の廊下の壁に掛けられた一枚の絵画に釘付けられたままだ。
「……大佐、無理に時間を作って貰っているんです。……『政治工作』だって時間は入り用なんですよ。忙しいんですから、」
「……ナナイは文句しか言わないな。」
久しぶりにサイド3に来た。久しぶりに『大統領公邸』に足を踏み入れた。そうしたら、あの絵が掛かっていた。シャアは名残惜し気に壁に掛けられた絵から目を話した。
……驚いた。
それが感想の全て、だ。
サイド3の『大統領公邸』は、史上稀に見る歴史を辿った建物である。
その建物は同じでありながら、『サイド3行政本部庁舎』、『ジオン共和国大統領公邸』『ジオン帝国公邸』……そしてまた『サイド3大統領公邸』へと変貌を遂げて来た。
建物は同じだ。……しかし、住人がめくるめく変わった。
それが、サイド3の『大統領公邸』だ。
「……サイド3、現地執行官のスミッソ・マッテンバウアーです。」
ナナイと一緒に訪れた部屋で、出迎えた小柄な男は汗を拭いながらそう言った。……『無理に時間を作って貰っているんです。』……ナナイは確かそう言ったな。
「私はシャア・アズナブル。……廊下に絵が掛けてあったが、」
「……は?」
右手を差出しながらそう言う。小男は意味が分からない風で、まだ汗を拭いながら答える。
「あれ。あれね。……フラ・アンジェリコの『受胎告知』。……私は、あの絵が好きなのだが、」
「……はぁ。……虹色の羽根の天使の絵のことですね?」
「マリアに受胎告知をした天使はガブリエルだ。」
シャアは即答した。目の前の小男はまだ必死に汗を拭っている。……本当に驚いた、あの絵がまだそのまま残っているだなんて。
それは大停電の夜だったそうだ。母はその話をした。何度も何度も。
コロニーで停電が起こったら大変だ。予備電力は全てコロニーの回転と、生命維持に回され、一般の家庭の電力など最後まで復活しない。ともかくその晩、サイド3のイチバンチは大停電になったのだそうだ。理由など知らない。
真っ暗な中で、父と母は息を潜めて待っていた。光が点るのを。……しかし、なかなか光はともらない。
仕舞いには、父が暗闇に飽きてしまったらしい。そこで、父は何度も母の首筋に熱い口付けをした。しかし母は、最初は父の口付けを無視していた。何故なら二人は夫婦では無かったので。
でも何度目かの口付けの時にどうでも良くなってしまったらしい。母も。
それくらい長い大停電だったのだそうだ。母はその話を私にした。何度も何度も。
……それで、あなた、生まれたのよ。
母はその話をした。何度も何度も。……廊下に掛かるフラ・アンジェリコの『受胎告知』の絵を指差しながら。
実を言うと、それ以外は母について何も憶えてはいない。
虹色の羽根の天使と、マリアが向かいあう一枚の絵。
「……『処女受胎』なんて馬鹿らしいと思わないか。」
「……はあ。」
この男は何と言う名前だったっけ。ちらり、とナナイを見ると砂色の軍服を着た彼女がすぐに答える。
「マッテンバウアー氏、です。」
「マッテンバウアーさん。」
「はい。」
シャアは考え考え、次の言葉を捻り出した。
「……それで、マッテンバウアーさん。……私は三十年前からこの建物にフラ・アンジェリコの『受胎告知』が飾ってあったことを知る男だが、」
「……」
相手が一歩引いた。……それを確認して、シャアは話を続けていった。
「取り引きがしたい。……厳密には、サイド3の確約を取り付けたいわけだ。……『ジオン』という名の国を興すに当たって。」
「……」
処女が妊娠して、そしてイエスが生まれたなんて馬鹿らしいと思わないか。
ただきっと、
彼は『不義の子』だっただけだ。……自分がそうだったのと同じように。
それは大停電の夜だったそうだ。母はその話をした。何度も何度も。幼い自分に。
コロニーで停電が起こったら大変だ。予備電力は全てコロニーの回転と、生命維持に回され、一般の家庭の電力など最後まで復活しない。ともかくその晩、サイド3のイチバンチは大停電になったのだそうだ。理由など知らない。
真っ暗な中で、父と母は息を潜めて待っていた。光が点るのを。……しかし、なかなか光はともらない。
仕舞いには、父が暗闇に飽きてしまったらしい。そこで、父は何度も母の首筋に熱い口付けをした。しかし母は、最初は父の口付けを無視していた。何故なら二人は夫婦では無かったので。
でも何度目かの口付けの時にどうでも良くなってしまったらしい。母も。
それくらい長い大停電だったのだそうだ。母はその話を私にした。何度も何度も。
……それで、あなた、生まれたのよ。
母はその話をした。何度も何度も。……廊下に掛かるフラ・アンジェリコの『受胎告知』の絵を指差しながら。
実を言うと、それ以外は母について何も憶えてはいない。
……そんな『不義』故の『処女』の子である自分が『ジオン』という父の名を語り国を興そうというのは、
とても滑稽に思えた。……マッテンバウアー氏に対して圧倒的な優位に立っている自分を感じた。……きっとこの交渉は成功することだろう。
2006.09.07.
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