結局、傷が癒えてロンデニオンの自宅に戻れたのは更に一ヶ月後だった。
「……お久しぶり。」
 アムロが自宅に荷物を投げ込むのもそこそこに、訪れたのは近所にある一軒のバーである。その店は花屋の地下にある。扉を開いて階段を数歩降りると、依然と全く変わらない空気にそこは満ちていた。午後八時過ぎ。
「……変わらないな、ここ。」
「『馴染みのバー』が変わってどうするんです。……おかえりなさい。」
 バーテンダーはいつもどおりの笑顔を浮かべてアムロを迎え入れ、アムロは癒されるのを感じた。



「出張は、『一ヶ月程』だって言ってたでしょう。……なのに、二ヶ月も顔を出して下さらないから、ああ、もう、この店は忘れられたな、って。」
 目の前のバーテンダーは、そう言いながら嬉しそうに酒を注いでいる。アムロはカウンター席によいしょ、と足を掛けながら思った。……酒も久しぶりだな。……うん、久しぶりだ。
「……来たくても来れない事情があったんだ。」
「彼女は? 一緒じゃ無いんですね。」
「だからそれどころじゃない事情があって、」
 『彼女』というのは、地球に行く前に懇意にしていた女性の事だろう。良くこのバーを一緒に訪れていた。しかし地球に行くことになってそのままだ。それこそ「忘れられて」いることだろう。今日、店にはアムロ以外に客が居なかった。そう寂れた店でも無い。こんなことは珍しい。
「……事情を聞くか? 凄い物語なんだ、これがまた。」
「……凄い物語なんですか? じゃあ、聞こうかな。私が差し上げたお酒は、大活躍しましたか?」
 面白そうに、バーテンダーが表に『close』の看板を掛けに行く。……これで、本当にこの店は今晩アムロの『貸し切り』となった。
「……もうちょっとちゃんと商売しろよ。」
「いいんですよ。……私がお客様のお話を聞きたいんですから。」
「あの酒は大活躍したよ。」
「それは良かった。」
 バーテンダーは同じCCのロックをアムロの前に笑って差出した。



 アムロは話した。……理解してもらえるとも思えなかったが、本当にこの二ヶ月の間にあったことを全て。シャアに会ったこと、シャアを助けようと必死になったこと、おかげで酷い怪我を負ったこと、でもシャアを助けられなかったこと、それでこの店に顔を出すのが一ヶ月も遅れたこと。ひょっとしたらこれは軍の極秘情報なのかもしれなかった。……まあいい。
「……へえ。」
 バーテンダーは目を丸くしてアムロの話を聞いてくれた。
「……確かに凄い話ですね。……でも本当? 『シャア・アズナブル』が実在するなんて思って無かったな。」
「実在すると思わなかった?」
「ええ。」
 バーテンダーは想像以上の答えを返して、アムロは思わず顔を上げた。
「なんて言ったらいいかな、こう……架空の人物のような気がするんですよね。お客様には申し訳ないんですけど、私の人生とは関わりが無いから。……実は私、皆そう思う質なんです。テレビの向こうの俳優とか、皆、架空の人物のように思えて。」
「シャアはフィクションかよ。」
 アムロは思わず苦笑いした。
「いえいえ、実際にはいるんでしょうけどね。……つまりどう言ったらいいかな。自分の現実、がここなんです。」
「ここ?」
 そう言われて、アムロはつい周囲を見渡した。……今日はアムロの貸し切りとなっている、こじんまりとした小さなバーである。椅子は十脚程しか無い。落ち着いていて、照明も適度にほの暗い。なのにBGMはシャズでは無くて、いつもエアロスミスだ。
「……ここ?」
 もう一回聞いた。……バーテンダーは笑顔で答えた。その笑顔を見てアムロは何かに気づきかけた。
「ええ、ここ。……ここが、私の城、ですから。」
「ふぅん……」
 ここに来る客だけが現実。……あとはフィクション。妙な潔さと、分りやすさを備えた答えだった。……だが、まあ、
「だから落ち着くのかな……」
「おや、ありがとうございます。……リクエストは?」
「……『ミザリー』。」
 アムロはスティーブン・タイラーの大きな口を思い浮かべながらそう答えた。
 だから落ち着くのかな。
 ……揺らぎがないから。
「はい。」
 そう答えてバーテンダーは酒では無くて、ディスクを取り替えた。……すぐに『ミザリー』が流れ出す。



「……前に良く一緒に来てたお連れ様に振られちゃったのなら、今度デートしましょうか。上の花屋で花でも買って。」
 『ミザリー』が終わるころ、バーテンダーがそう呟いたのでアムロはおや、と顔を上げた。……自分は今、酒に酔って少し腫れぼったい顔をしていることだろう。
「……本気?」
「この間はタチがいいです、なんて言いましたが、まあネコでもいいですよ、お客様が相手なら。」
 本気かどうか分からない。……アムロはバーテンダーの涼し気な横顔を見た。背が高くて、綺麗な男だ。……それから、モヤモヤしていた疑問の答えに気づいた。
「……止めとくよ。」
 アムロは下を向いて笑った。
「あれ、残念。」
「……金髪碧眼とは冗談でもデートしない、って今、決めたんだ。」



「髪の毛染めようかなあ……」
 アムロがまだ笑いながら顔を上げると、バーテンダーは深刻そうな顔で自分の髪の毛を引っ張っている。その様子を見てアムロは本当に笑いが止まらなくなった。……怪我が癒えたばかりの腹が痛い。……なんのことはない。シャアに良く似た容貌の、そのバーテンダーとデートするのが嫌だっただけだ。
「ここが『自分の城』なんだろ? じゃあ、ここから出るなよ。」
「冷たい。」
「浮気したく無いんだ、」
「浮気! ひどい、じゃあシャア・アズナブルが本命?」
「それはちょっと違うけれども……」
 笑い過ぎて涙が出て来た。……ああ、なんて。



 なんて馬鹿みたいな浮気だことだろう。……結論など出無いのに。



 バーテンダーは家に帰るアムロを、戸口まで送ってくれた。
「それじゃ、また。良かったら寄って下さいね。……出来ることなら『シャア・アズナブル』を連れて来てくださいね。」
 歯に絹着せぬ口調でバーテンダーはそう言った。
「……努力するよ。」
 アムロはそう言って、後ろは振り返らずに手だけ振った。……本当に、



 なんて馬鹿みたいな浮気だことだろう。











2006.09.03.




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