夜の使者
人生におけるターニングポイントは、そう何度もあるものではないが、私の場合、そのもっとも古い記憶は、6歳の時のものだろう。
ただ記憶は飛び飛びで、はっきりと覚えているというわけではない。もちろんまだ6歳だったせいでもあるし、いい思い出というわけでもないからだ。
小雨の中で、黒い服を着た大人たちが集まっていた。深く掘られた穴の中に花がいっぱいあって、その上に少しずつ少しずつ、茶色の覆いがかけられていく。・・・そのサクサクという音。
私は隣の手を握り締めて、それを見ていた。サクサク、サクサク、落ちていく茶色の粒をいつまでもいいつまでも見ていた。
もう少し大人になってから、記憶の断片を繋ぎ合わせて、それが母が埋葬されていく時の光景だったと理解できたが、花の下にあったはずの母の棺は思い出せない。そこに母が、・・・いや母の死体が埋められいるということを子供ながらに、信じたくなかったのかもしれない。
実はそんな類の墓は、かなりの贅沢品だということ知ったのも、もっと後のことだった。大地が全て人工のものであるこの世界で、人一人分以上のスペースを必要とするような墓は、貴重な土地の無駄遣いと考える人間も多かったのだ。
こうして私は6歳にして、父一人子一人となったわけだが、当然それまでとは全く違う生活を行うこととなった。・・・いやもちろん、食べて勉強して遊んで寝てという暮らしは少しも変わってないのだが、父だけのやり方、というものは母がいた頃とは、ずいぶんと違っていたのだ。
まず第一に家も引っ越してしまった。それまで住んでいた家には思い出が多すぎると考えたかどうかは、尋ねたことがない。まぁまぁ名の知れた絵本作家であったらしい、母のサポート役を必然的に辞めた父が、新たな職を別天地に見つけたか、または別天地たることを優先条件に探したのか、これも聞いたことがないが、ともかく新しいコロニーで新しい職についた父と新しい家に住むことになった。
第二に当然ながら小学校も転校した。・・・といってもまだ一年生だった私の学校が変ったからといって、どうということはなかった気がする。ただ最初の学校に比べて、校舎も校庭も広く、生徒数が多かったことを覚えているぐらいだ。
第三に、・・・・・・・・・これが一番重要なのだが、父はよく学校への迎えを忘れる人だった。・・・いや、これだけではわかりにくいだろうが、とにかくそういう社会的生活のあり方が時々抜け落ちているような人だった。これが私の唯一の肉親であり保護者なのである。(と、この時は、思っていたわけだが。)
父が現れない。・・・そんな時は大概、大学の研究室か自宅の書斎かのどちらかにこもって、論文やらに没頭していた。時間を忘れないよう時計のアラームをセットしていても、音が鳴ったら無意識に消してしまっていたようだ。
朝は私の方が先に起きて朝食を準備することが多かったぐらいだし、必要ならば私を一人置いて何週間も取材旅行に行っていた。・・・まだ7歳ぐらいの頃からである。
だからといって育児放棄をしていた、というのではない。ただ単に一般的な生活に馴染んでなかったのだと思う。結局、たった4年ほどの父と子だけの家庭生活だったが、色んなものをもらったとのだと思う。父からも、そんな親子を支えてくれた回りの人からも。
父は時々、食卓やソファやベッドの上で、あまりに自然に母のことを話すので、まるで母がちょっと長旅にでも出かけているような、ずっとそんな感じで過ごせたことは、良かったのだろうか・・・。母はもういない、ということが、自分に実際に起こったことなのだと、わかっているけど理解できていないという感じだったのだ。
しかし父の死は違う。人生二度目のターニングポイントは、たぶん最初の時と同じに唐突に訪れた。
あの日、ジオン・ダイクン首相の喪に服して二週間の休校となった後の最初の登校日、・・・二週間とは長いが、当初は一週間の予定が、いくばくかの騒動があり、戒厳令が布かれて、もう一週間ほど伸びたはずだったと思う。その喪が明けたはずなのに、授業では首相の功績やら、人となりやらを色々と聞かされ、テレビジョンで繰り返し流れていたものと同じような内容だったので、子供たちは少し退屈していた。
その日もその日とて、父は学校に来なかった。10歳になっていた私は、先生に適当な理由を告げて、もう迎えにきそうもない父を待たずに家に帰った。父はその少し前から、よく電話をかけたり、家を出たり入ったり、ばたばたと忙しそうにしていたが、時々あることだったので、またかよ、ぐらいに思っていた。
玄関の扉を開けてすぐ、リビングに置かれている電話の留守電ランプの赤い光が目に入ってきた。この電話は私でも使っていいことになっている。携帯ならまだしも、こちらの留守電は珍しいと思いながら、再生ボタンを押すと、メッセージは7件ですという、機械音がした。
(7件も?)
1件目が流れ出したのと玄関のベルが鳴ったのとは、ほぼ同時だった。背中で再生音を聞きながら、モニターの前に立った。
「はい?」
「アナベル・ガトーくんだね。」
・・・・・・・・・映像はオフにしているのに、どうしてわかったんだろう?・・・といってもこの家に住んでいるのは父と私だけだ。子供の声はすなわち私ということになる。
「どちら様ですか?」
答える前に聞く。父なら相手を確かめもせず即答したかもしれないが、私はしっかりしているのだ。
「警察の者です。」
・・・相手は、身分証明書のホログラムをモニターに近づけて私に確認させた後で、逆に身体を一歩引いた。たしかに警察官の制服を着用していた。仕方なく玄関のロックを解く。
「アナベル・ガトーくんだね。」
「そうです。」
ガシャッとロックの外れる音がした。この時私が考えていたことといえば、父が何かやらかしたんだろうか?というひどく単純なものだった。時々常識はずれになる父が何かを。・・・そんなに悪いことじゃない思うが。
「こんにちは。」
「・・・こんにちは。」
「実は・・・、お父さんが事故にあわれてね。一緒に来て欲しいんだが。」
「え???」
道路にはパトカーが待っていた。背後では繰り返し7件の留守電メッセージが再生されていた。折り返し電話を・・・、こちらは3バンチ警察です・・・、お父さんが・・・、お父さんが・・・、お父さんが・・・・・・・・・、
「・・・・・・・・・。」
何も言えないでいる間に、警察官が腕を引っ張るようにして、車に乗せられた。何を考えていたかといえば、・・・何になるのだろう?不安とか嫌な予感とは違っていたと思う。ただ単にはじめての異様な事態に驚いていた事は確かだ。どうすればいいんだろう。何があったんだろう。
事故にあったと聞かされていても、父が死んでいる可能性を考えもしなかった。病院でなく警察署の入り口に立った時も、まだ想像の範囲を越えていた。私はまだ確かに10歳の子供だったということだ。これから先、たくさんの死を受け止めることになる私の人生で、それはまだ二つ目の『死』であった。
・・・・・・・・・そこから先の記憶は少しぼやけている。死体安置所で見た父の顔は傷ひとつなく、これでどうして死んでいるのかわからなかった。白いシーツに隠された首から下には胸部を一度開いてまた縫った痕や、致命傷となった傷を大きな縫い目で乱雑に閉じた痕で、かなりむごいものだったと思うが、私にはただいつものように寝ている父に見えた。夜通しホラー映画を見ようと意気込んで、結局ソファで私より先に寝てしまった父の顔のように。
たしかに顔色は悪かったが、ただ眠っているようで、だが私が揺らしても、お父さんと呟いても、まつげひとつ動くことはなかった。ぐったりとただの大きな塊になってしまった父。子供にそこまで見せるべきではなかったのだろうが、身内は私しかいないのだ。
その後は、刑事ドラマで見る取調室のような部屋ではなくて、たくさんのデスクが並んだ部屋の片隅の薄汚いソファーに座らされた。すまない、コーヒーしかなくて、と言って最初に家に迎えに来た時から死体安置所までずっと付き添っていた警官が差し出したそれは、子供向けにアレンジしたのだろう、ミルクと砂糖がたっぷり入った気分が悪くなりそうな代物だったが、・・・飲んだ。一口飲み干すごとに父が死んだ、父が死んだ、とこの状況を体中にしみ込ませていくようだった
向こうで別の警官が祖父がどうのこうのといっている。そんな息子はおらぬ、と身元確認を拒んだという。おじいさん?お父さんのお父さん???
ぐるぐるする。世界が変わっていく。何を言われても何を聞いてもわからない。わかりたくない。だが今日までの大切な日々が、日常が、変ってしまう。
アパートメントには週に2回ほど家政婦が掃除にきていた。料理はもっぱらレトルトだった。父に任せると三日続けて同じメニューということもあったが、栄養的には問題もない。いわゆる家庭の味を知らなくても、母がいなくても、私には十分だった。
このありふれた大切な日常が。
テレビジョンのヘッドラインで、父の死を写した文字が流れていた。事故。アクシデント。・・・不可解な。
それが、ジオン・ダイクン首相の死に続く粛清の嵐の中で起きた事だったと知るのは、大人になってからのことだ。粛清だったのか?単なる交通事故だったのか?・・・おろらく体制の中では調べようが無い種類に属する出来事。
・・・だが、私はまだ子供で、父が死んだ理由は事故でも殺人でもテロでも粛清でも報復でも、死んだことにかわりなかった。
しばらくして、私は児童養護施設に送られることとなった。そこで7ヶ月ほど暮らした後、『本当に最後に』残った身内であった祖父に引き取られるまでの記憶は、・・・・・・・・・ずっとぼやけたままである。
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