うそつき
アナベルは銀の毛並みと紫の瞳が美しい猫だった。
ある日、俺が仕事先から帰宅すると、門扉の内の小さな築山の影に猫が動く姿をちらと見かけた。その時は、『・・・あ、猫。』ぐらいしか思わなかったのだが、俺が台所で買い物の詰まったビニール袋の中身をあれこれと取り出し、夕飯のメインのおかずであるアジの刺身を残して、牛乳だとかタマゴだとかを冷蔵庫に入れている間に、何かが背後で動く気配というか目の端に影が見えたというか、そういうざわっとした予感に後ろを振り返ると、猫が・・・あの、さっき見たのと同じであろう銀色の猫が、口に刺身のパックを咥えていた。目と目が合い、お互い一瞬固まったその後で、俺は『こらーっ!!!』と叫んで猫はくるりと背中を向けて、走りだした。
(よくも、俺のアジをーっ!!!)
仕事で疲れて帰ってきたばかりである。俺は冷静じゃなかった。猫を必死で追いかけた。俺の油断もあった。何せ一人暮しなので、帰ると同時に換気の為に玄関に廊下と居間、台所の窓を次々と開けていた。電気も点いて家の中も明るいし隣近所の家も在宅である。まさか泥棒が入るなんて思ってもみなかった。・・・それが猫に刺身を盗られるとは。
猫の顎の力は中々に強いらしい。一人前480円のアジが綺麗に盛られたプラスチック皿を咥えたまま台所から玄関まで走ると、げた箱の上に軽々とジャンプし、次いで窓から外に飛び出た。さすがに俺は窓から出るわけにもいかないし、玄関から出た方が早い。靴のかかとを踏んだまま慌てて外まで追いかけると、裏庭にかけていく猫の姿が見えた。俺も走った。ここは丘陵地にある団地の一軒家だった。裏庭側のお隣さんは一段低くなっており、則面の高さは5メートルぐらいあった。俺が見てる先で、黒い格子門の間をすり抜けて猫は飛び、くるりとひねる体も優雅に着地した。俺はといえば、よその家の敷地に不法侵入するにもいかず、そもそもこんな所を飛び降りれるわけないだろうということで猫にまんまとしてやられた。猫一匹に。・・・俺は無性に腹が立ち、酒をあおって早々に寝た。
休日の昼過ぎ、布団でも干そうかと庭に出てみると、俺のお気に入り工具セットを詰め込んだ箱の上にかぶせたボロ毛布のさらに上に、猫が丸くなっているのを見つけた。銀色の毛並みだった。たぶんあの泥棒猫だ、そう思った俺はゆっくりと近づいた。アジの刺身の恨みはもう消えていたが、ちょっととっ捕まえてやりたくなったのだ。・・・まぁ、やっぱり恨みがあったのかもしれないが。頭を前足の間に突っ込んでゆうゆうと眠っている、ように見えた。そーっと手を伸ばして首根っこを抑えようとした瞬間、ぴくりと体を起こして工具箱から身をひるがえして飛び降りた。間一髪で、猫は逃げていった。3メートルほど離れたところで、いつでも遠くへ逃げれるぞ、というような顔つきでこちらを見る。瞳が紫色で、絶対あの時の猫だ、・・・こいつめ!!!と思った。
それから晴れた日には、工具箱の上で昼寝する猫の姿を度々見かけるようになった。何度か背後からそっと近づこうとしたのだが、いつもすんでのところで逃げられた。このままではおくものか。こっちは人間様である。俺は頭を働かせた。わざわざアジの刺身を買いに行って帰ると、やっぱり昼寝をしていた猫の背中に『にゃーお。』と声をかけた。猫だと思ったわけではないだろうが、気だるそうにこっちを振りむいた。俺は、パックのビニールをちゃんと破いてから刺身を足元に置いた。そして少し離れたところから様子をうかがった。猫はとん、と工具箱から降りると、しっぽをぴんと立てたまま刺身に近づいた。
(ほら、おいしい刺身だぞ〜。)
パクリと刺身を食べた。皿と俺の方とに顔を何度も上下しながら、刺身を食べた。俺は背後からじゃなくて、正面から近づいた。ちょっとずつ、でも猫によくわかるように。俺が出した右手を猫はよけなかった。ノドを撫でた。猫はじっとしていた。すべすべとやわらかな毛並みだった。調子にのった俺が、両手で捕まえようとすると、果たして猫は一瞬で遠ざかった。見事だった。
それから俺と猫の間には奇妙な緊張感と友情が生じた。時々俺が差し出す刺身を食べ、その喉や背中を撫でさせたが、決して抱き上げたり掴んだりすることは許さなかった。猫、猫、と呼ぶのもあまりにそぐわない間柄になったので、俺は『アナベル』と呼ぶことにした。アナベルは銀の毛並みと紫の瞳が美しい猫だった。
アナベルと出会って一ヶ月が過ぎた頃、休日の昼食のカップラーメン用のお湯が沸くのを待って新聞を読んでいた俺は、『キキキキーッ!!!』っという派手なブレーキ音を聞いた。団地の中でそんなスピードを出して危ないなぁと思いながら、新聞を読んでいた。カップラーメンを食べ終わってから庭に出ると、今日も工具箱の上にアナベルはいた。様子が変だった。銀の毛並みに赤が混ざってないか?・・・俺はそっと近づいた。右目のまぶたの辺りから出血しているようだった。刺身はなかったが、俺はおそるおそる手を伸ばした。アナベルは逃げなかった。俺の手の愛撫を受けても逃げなかった。おまけにかわいい声で『みゃぁ。』と鳴いた。初めて聞いたアナベルの鳴き声だった。出血は止まっているように見えたし、撫でる度にゴロゴロと喉を鳴らすアナベルは元気そうに見えた。だから、やっと仲良くなれたのかと、嬉しい気持ちもどこかにあった。病院に連れて行こうかと抱き上げようとすると、『みゃあーご!』と体を揺らして抵抗するので、俺はあきらめた。・・・アナベルは元気そうに見えたし、猫は怪我をしたらじっとして回復するのを待つ、という話も聞いたことがあったので、このままでいいかと思い直した。夕方、窓から庭をのぞくとアナベルはまだ定位置で丸くなっていた。窓を開ける音が聞こえたのか、顔を上げて『みゃあぁぁ。』と鳴いた。エサがいるな、と俺は刺身を買いに行くことにした。スーパーの鮮魚コーナーで刺身を選びながら、このまま数日動けなかったら刺身はやめて猫缶にしよう、と思った。
(・・・まぁ、具合が悪いんだしな。)
と奮発して780円のヒラメを買った。戻った頃には暗くなっていたが、裏庭に回るとすぐアナベルの姿がないことに気づいた。きょろきょろ回りを見渡したが、猫らしい影はどこにもなかった。・・・なんだか腹が立った。晩ご飯を食べお風呂に入り寝るまで、俺は何度も庭を見たり、にゃおとヘタな鳴き声を出してみたが、アナベルからの反応はなかった。ヒラメをつまみに酒を飲んで俺は眠った。
翌日、会社に行く前に庭に出て、アナベルー!と呼んでみた。やはり反応はない。俺は工具箱に近づいて、そして愕然とした。・・・ボロ毛布が真っ赤に染まっていた。まぶたを切ってはいたが、そんなレベルの量じゃない。他にもケガをしてたのか、と俺は不安になった。アナベル、アナベル、と何度も呼んで、それから敷石の上に、少量だが点々と血の跡が付いていることに気づいた。俺は目を凝らしてそれを追った。敷石から玄関の門の下に、それから側溝を越えてアスファルトの道路にそれは続いていた。俺はもう必死で追いかけたが、やがて血の跡は山に続く空き地の前で途切れていた。朝っぱらから近所迷惑にも、アナベルの名を何度も呼んだが、アナベルの銀の毛一本、見つけることができなかった。俺は失意のまま、会社にも遅刻した。その上、定時で仕事を終えると微かな期待を抱いて家に帰ったが、アナベルはやはりいなかった。数日、数ヶ月、一年が過ぎても、アナベルは戻ってこなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・アナベルは銀の毛並みと紫の瞳が美しい猫だった。・・・・・・・・・その毛を赤く染めてもやはり美しい猫だった。
美しい姿を俺は忘れられず、時々庭にアジの刺身を置いてアナベルを偲んだ。
+ END +
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ガトーとコウの最後の戦い、
ガトーなら腹部の怪我がどれだけ酷くても、
コウに大丈夫だと嘘ついて戦い続けただろうと、
エイプリルフールに(・・・)。
ちなみにGatoはスペイン語で『猫』の意味です(本当)。
管理人@がとーらぶ(2002.04.01)
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