冬の溿
病院裏の敷地にある池のほとりが、カミーユ・ビダンのお気にいりの場所だった。・・・カミーユがそう言ったわけではないが、少なくともファ・ユイリィはそう思っていた。洗濯や買い物といったちょっとした用事を済ませて病室に戻るとカミーユの姿がない。「・・・まただわ」そう呟くといったん廊下に出て、突き当たりにある談話室に向かう。カミーユの病室の窓からは裏手の池は見えないが、談話室の窓からなら確認できる。ドアを開け顔見知りのヘルパーや患者に軽く会釈しながら、窓際に寄る。初めてカミーユがいなくなった時、廊下で会う人会う人手当たり次第に問うたり、詰所で看護婦に聞いたりと慌てたものだったが、裏の池のほとりに一人座り込むカミーユの姿を見つけ、気が抜けた。・・・それから腹立たしく思い、思っても仕方ないのだ、とあきらめた。その後も何度かカミーユが消えたが、いつもあの池のそばで見つかるのだった。だから今も窓際からカミーユの背が見えたが、ファには慣れたものだった。ついでにシーツも替えてから迎えにいこう。病院の裏口から裏門までのスペースには、患者がゆっくりと散歩できるような石を敷いた歩道と、深い色をたたえる池と、背の高い樹々がまばらに植わっている芝生の庭があった。その中に埋もれたパジャマ姿のカミーユ。・・・色彩の薄い一枚の絵を見ているようだとファは思った。
(トン・・・トン・・・ポチャン)
男はカミーユの背後から近づくと「そんな投げ方では、うまく飛ばんな」と言って、足もとの小石を拾った。カミーユが投げた石は、二回ほど水面を飛び池の底に沈んでいった。座ったまま腕の力で投げた石は、まぁそんなものだろう。男は、ブラックのロングコートが動きに連れてうるさそうに翻るのにも構わず、横すべりするように石を投げた。石は跳ねて跳ねて・・・四回ほど跳ねてからやはり沈んでいった。
冷たい。
落ちていく石が悲鳴をあげる。
苦しい。
それが俺にはわかる。
「カミーユ」
男は、足を芝生の上に投げ出し座っているカミーユのそばに立ち、窮屈そうに上半身を折り曲げる。右の親指で唇を左から右になぞる。かつて何度か同じことをした。しかし味わう思いは違う。乾いた唇は、触れられても何の反応も示さなかった。瞳はまっすぐ水面を見つめたままだ。次に男は、自分の唇で唇に触れた。かつて何度も同じことをした。その度に奮えた。しかし今は、進んで舌を絡めることもない。男は唇を離すと、今度は首筋を狙った。唇を押し当てると、なめらかな皮膚を吸う。毛細血管が切れて赤くなる。かつて一度もこんな印をつけたことはなかった。所有欲を現すようなこの赤い跡が大嫌いだった。間違いなく、生きている。・・・男の心を現金な安堵感が襲う。嫌がるでも抵抗するでもなく、カミーユは男のされるがままだった。
(トン・・・トン・・・ポチャン)
「もう戻りましょう」
カミーユの身体を起こしたとき、ファ・ユイリィは一瞬、懐かしさに包まれた。懐かしさの原因は辺りに漂う匂いだった。なんだろう、・・・としばらく考えてから、それがクワトロ大尉のつけていた香水の匂いに似てるのだと気づいた。クワトロ・バジーナという人は、ファッションに妙なこだわりがあるらしく、いつもこんな香りを漂わせていた。なぜ覚えているかといえば、それがあまり嗅いだことのない動物的な香りだったからだ。麝香、と言っていた。天然ものらしくとても貴重だと。アーガマの女性陣よりも、たぶん高価な香水をつけていたのだろう。そう思い立っている間に、香りは霧散してしまった。カミーユはもう一度石を投げ、それからファの後について病室に戻った。
冷たい。
落ちていく石が悲鳴をあげる。
苦しい。
それが俺にはわかる。
助けて。
だけど俺は石を投げつづける。
あの沈んでいく石は俺だ。
俺がたくさん冷たい池の底に眠っている。
・・・なのに俺は石を投げつづける。
男はコートの襟を立てるとエアカーを停めてある場所へと足を早めた。許せ、カミーユ、・・・いや、許さなくてもいい、私を憎め。憎んで生きろ。・・・・・・・・・冬の風がコートを煽る。街路樹からこぼれた黄色い葉が舞う。金の髪を冷たい空気が弄っていく。カミーユがカミーユでいられない世界。それは私が私でいられない世界だ。・・・・・・・・・こんな世界を私も憎む。・・・憎んで生きる。
(トン・・・トン・・・ポチャン)
冷たい、よ。
END
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こーらぶさんに捧げます。
短いって言われそう(笑)。
(2002.11.25)
えー、肝心のこーらぶさんからタイトル文字が見えないという電話が(爆笑)。
「『さんずい』に『畔』」で溿(みぎわ)です。とんだ失礼を。
(2002.11.26)
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